【旅(たび)】

しばらく旅をしてない。

だから余計に分かる。

 

旅ほどいいものはない。

 

旅と旅行の違いは、

パッケージングの有無でもなければ、

同伴者の有無でもない。

ましてや移動距離でもない。

 

どちらも入口は同じだが、

出口が違うだけなのだ。

 

「楽しかった」という出口から出るのが旅行であり、

「楽しくなかった」という出口から出られれば旅となる。

 

「写真に残せたもの」が旅行であるならば

「写真に残せなかったもの」が旅である。

 

旅はいつも余白にある。

 

旅とは退屈である。

旅とは時間の無駄遣いである。

 

退屈を恐れている気がする。

時間の無駄遣いを恐れている気がする。

 

ああ、旅してぇ。

        <2011年3月21日 23時46分 自宅>

【徳島(とくしま)】

四国は徳島県徳島市。仕事のイベントで来るようになって3回目。いずれも「マチ★アソビ」というイベントの仕事で、観光らしい観光は一度目に「眉山」へ行ったっきりだ。阿波踊りも見たことないし、美味しい店の徳島ラーメンも食べたことがない。丸めた旅行雑誌「徳島るるぶ」で頭を殴られても文句は言えない程に何も知らない。しかし、一度目に「このまま帰るのは癪ですわ」と思い、早朝のロープウェイで山頂まで登った。この街で生まれたロックバンド「チャットモンチー」の曲を聴きながら歩いた。悪くない演出だった。そんな山登り&景色眺めを満喫したわけだが、この眉山経験を観光と呼んでいいのかどうか迷ってしまった。ただ山に登り、街を眺めただけなのだ。これは観光なのか。観光という言葉の違和感を感じてしょうがなかった。この違和感はなんだ。眉山は徳島市の真ん中にどーんと存在感を示す山以外の何物でもなく、それはただいつもそこにあり、不動で構えている。徳島市のどこにいても見上げれば視界に入ってくるという代物だ。そんな街に何日も滞在すると、その眉山が当たり前過ぎる風景になってしまう。次第に山を見上げることもなくなる。だけど、その当たり前こそが、徳島市が眉山のお膝元である何よりの証。この街は眉山に守られていると思った。父のように、母のように、街を守っている。その関係性が「観光」に感じた違和感と言えなくはないか。徳島を去る時、眉山を見やる。徳島に来れば目で眉山を探す。そこにある眉山を当たり前のこととして受け入れる。これは最高の贅沢だと思うよ。皆さんも徳島に来たら眉山を眺めればそれでいい。他にはなにもおススメできない。だって何も知らないから。知らないのに満足感を得る。「眉山のせい」以外に理由は思いつけない。

<2010年5月4日 8時56分 徳島のホテル>

【図書館(としょかん)】

図書館は勉強をしたり読みたい本を借りる場所だと思ったら大間違いだ。
真実はそんな所にないよ。
オシッコを漏らしてしまった中有知小学校の図書館も、
不良グループのアジトみたいになっていた美濃中学校の図書館も、
階段を上る女子生徒のスカートが風に舞った関高校の図書館も、
深夜ラジオに投稿するネタを考えるために籠った明治大学の図書館も、
初版で絶版になった三谷幸喜の『オケピ』が普通にあった杉並区立図書館も、
あっけなく取り壊され姿を変えてしまった美濃市立図書館も。
そんな全ての図書館が、
世界に存在する全ての図書館が、
存在する理由なんて、おそらくたった一つしかないはずだ。
図書館は、好きな子に会える場所。
それ以外にあるものか。

<2010年4月23日 16時05分 自宅>