劇団フルタ丸「オマエの時間くれよ」

「オマエの時間くれよ」という芝居を観た。

大学時代の友人、古田君の劇団だ。

ところどころ考えさせられるテーマだ。

人は生まれた瞬間から老が進む。

死に向かう。

それを否定したいがためにフェニックスや人魚の肉といった不老不死のモチーフがあるんだろう。

 

舞台設定は科学技術が発展して時間売買ができる近未来。

時間売買というより、老化する速さを売買できる設定である。

時間を売れば老化は進み、時間を買えば若さが保てる。

舞台美術はパンダ模様の椅子やシーソーが並び、舞台奥には数字の描かれた歯車が並んでいる。

様々な角度から時間に関するネタが出てきた。

例えば、早帰りする新入社員と定時を過ぎて残業代ゼロで残業する古株の社員の対比とか。その会社は公園遊具の下請けの下請けという零細企業。

そこに市役所の女から元請け(直受注)の仕事がくるが、怪しい。なぜなら女は遊具の全体像を語らず部分でしか伝えないし、女が持ってきた図面は見たことのない形をしている。

会社の経営状態は悪く、面白いことをやってみたいという意欲を隠しもった社長は、女からの仕事を受けることにする。

話が進むと少しずつ遊具のパーツができてくるが、部品ひとつひとつを見てもそこから何ができるのかは、さっぱり見当がつかない。

 

「そしてモヤモヤは膨れ上がりラストに遊具が完成し、時間変更装置になり、舞台奥の歯車が回り始め、照明は七色に点滅しタイムトラベルが起こり、老婆が若返り助かる」

 

という夢想に耽ってしまった。

先日、『はてしない物語(著・ミヒャエルヘンデ)』を読んだせいだろうか。

遊具メーカーの他にもう一つ時間売買を軸に置いたストーリーも出て来た。

 

公園を舞台にした話。

時間を売ったおばちゃん、時間を買ってずっと21歳でいる女性と、元は同級生なのに歳が違う様々な人々が出てくる。

 

ある程度、ストーリーが進むと、時間は戻り、また同じところから話が始まる。

 

「もしもAという選択をしたら」

「もしBという選択をしたら」

 

というのが繰り返される。

 

『シュレディンガーの猫』

の話を思い出していると舞台は幕を閉じていた。

 

二つのストーリーは少しだけクロスしパラレルなまま終わった。

 

私は時間に対する切迫感が薄いかもしれない。

勿論、私だって時間については多少なり考えたことはある。

忙しいという状況は、時間がないのでなく、作業が重なっているだけなのだと思う。

時間とは概念だから、結局、今、現在しかない。

 

古田君のfacebookを見ていると頻繁に子供が出てくる。

時間の大切さを実感しているのは子供の力だろうと感じた。

子供という対象ができると、時間の流れは意識し易いし、より貴重なものと気づくのだろう。

古田君が10年、劇団フルタ丸を続けていることに「おめでとう」だ。

<2012.5.20>

劇団フルタ丸「ひとりごとターミナル」

大学時代の友人、古田君の芝居を観に行った。

話は高速バスターミナルにいる5人の若者(20代~30代)の話。

それぞれがそれなりの理由を抱え、その場にいる。

 

妊娠約10ヶ月の1人身OL30歳、医学部に落ち続けた現在マッサージ師(♂)、彼氏を年上OLにとられた自殺願望のある女子大生、やりばのないままなんとなく生きてきたアルバイト30歳(♂)、自分の運転したバスで乗客が死んで運転が怖くなった運転手(♂)。

 

各々の回想が哀愁と笑いを含み、独白に近い形でシーンが展開される。途中で僕は劇団ひとりが書いた『陰日向に咲く』が浮かんだ。構成作家の為せるショートショートだ。

それぞれの回想に顔を出す同一の大学生(♂)が、もう1つの共通点になる。

人の人生はそれぞれ違う。当たり前だけど哀しいこともある、そんな人間交差点をユーモアを絡めてみせてくれた。

 

それぞれのエピソードが一周すると話は最終章へ向かう。

OLの陣痛が始まる。居合わせた他人達の「心配ですね」という意味を含んだひとりごとが、途中からアンサンブルを奏でだすが、誰も顔を見て話さない。全員、何かが欠けているために直接にOLを助けずに、ひとりごとのように他人に向かって叫ぶのだ。とても奇妙な風景だ。

面と向かって言いたいが、人を見ることができない。きちんと言うことはできないが、目の前の人を助けたいと思う人達の群れ。

ラストは過剰でありカオスでもあると思った。そのあたりに古田君らしさを感じた。彼はどうやら峯田和伸が好きらしい。僕は去年から峯田を好きになった。そこらへんが伝わってきた。

うまい構成をする面白い作品はきっと山ほどあるに違いない。カオスが真骨頂と言うと失礼に聴こえるかもしれないが、褒めている。

何をその人がやりたいのかと、何かが伝わるということ。そこには思考の集積はいらない。感情や気持ちといったことだろう。

 

意図的か無意識かはわからないが、人間にはどんどん変わらなくっちゃというところ、学んで勉強して成長してった方がいいところと、頑張って守らないと荒んでいくところが有る。

古田君は技術的に成長しているが、変わったら寂しくなるところは昔と変わっていない。

フルタ君は結婚して子供ができて少し強くなった印象だ。

非常に身内的な日記だ。

<2010.12.13>

 

箱庭円舞曲「気付かない奴は最強」

箱庭円舞曲「気付かない奴は最強」を観る。

観終わった後に、パンフレットのintoroductionを読み返す。

 

「ここまで続けられたのはやっぱり、お客様や役者さん、劇団員やスタッフさんのお陰でも何でもなくて、僕のお陰だと思います。

 単純に、僕が「気付かない奴」だったからに他ならないと思います。

 だってもし「気付く奴」だったら、もっとお客さんの要望に応えるだろうし、役者さんや劇団員にも、もっと優しくしていたはず。

 スタッフさんに愛想尽かされたりなんかせずに済んでいたと思うのです。だから、本当に、自分が「気付かない奴」で良かった。幸せです。

 もしその一つ一つに気付けるような繊細な人間だったら、こんなに続けられなかったはずです。」

 

これがこの劇の答えの1つだろう。

しかしながら、答えは循環する。もう少し読みすすめると

 

「もう少し、もう少しだけ、気付かない奴でいさせてください。」

 

と気づいている視点も入ってくる。

もやもやとした霧のような後味が残る。

それが古川さんであり、箱庭円舞曲であり、今の日本社会のような気がした。

「これがいいのか? 悪いのか?」

そういう思考上の価値観で作られた世界、その隙間から感情が出る……こともある。

 

生物は本来ダイレクトだ。ただ、今、日本の社会でダイレクトな人は少ない。

最近、日本人以外と会う機会が増えた。そいつらはダイレクトだ。

 

きっと箱庭円舞曲を観て面白いと思う人は、今の自らの周囲の縮図を観て楽しんでいるのだろう。

所謂、苦しい人間関係だ。近親憎悪と親近感、人間は自分と似たものに二つの感情を描く。

箱庭円舞曲というのは、さびしいあなたのメタモルフォーゼではないかと思う。

少しずつ箱庭の舞台が、古川さんの頭の中から現実に近づきつつある気がした。もしかしたらその逆かもしれない。

 

そういうわけで僕は箱庭円舞曲を辞めた、のかもしれない。

 

観劇後の打上げで劇団員の小野さんが新しいスタッフに、こう僕を紹介した。

「セリフを覚えない、段取りも覚えない、何もできないんだ」

あまりの衝撃的な紹介のされ方に驚いた。

「ただ出ただけで面白い」

僕の取柄はそれだけだった。

笑いながら絶望して生きていこう。

少し遠くからこの劇団を見守ろう。

<2010.10.9>