江戸亡霊地                            武田清

第100回<笠森お仙>

 明和の三美人とうたわれた、浅草奥山の楊枝屋「柳屋」のお藤、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のおよし、と並んで谷中笠森稲荷前の水茶屋「鍵屋」の看板娘がお仙である。鈴木春信によって何枚もの浮世絵に描かれ、歌舞伎脚本「怪談月笠森」まで書かれた。人気絶頂の江戸のアイドルだったのだ。

 この「お仙」に久々に出会ったのは、『観光都市江戸の誕生』(安藤優一郎著、新潮新書)を読んでいたときだ。

 膨大な量の知識が得られる(ためになる)のに、読んでいて興奮しない(あまり面白くない)本というものがあるものだ。江戸に生きた人々のあらゆる行楽を「観光」を切り口に捉えなおしたもので、200ページ足らずの新書なのに、索引まで付いている。なぜ興奮しないかというと、すべての行楽が経済効果の一点で判断されているからだ。つまり、儲かったか儲からなかったか、だ。

 谷中の笠森稲荷は、谷中の感応寺(現天王寺)門前にあったというのだが、とりあえず出かけてみることに。

 JR日暮里駅の南口を出て、坂道を谷中に上がるとすぐのところに護国山天王寺はあった。大きい寺なのか、そうでないのか分からない。古い寺なのに墓地がない。

 古い山門の隣りに、立派な新しいコンクリートの山門がある。

 寺の由緒が説明板に書いてある。それによると、鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土地の豪族関長耀が草創したといわれ、もと長耀山感応寺と号した。

元禄12(1699)年、幕府の命によって日蓮宗から天台宗へ改宗(させられ)、天宝4(1833)年に寺号が今のものとなった。都内有数の古刹で、富くじが行われ、湯島天神、目黒不動尊と並んで「江戸三冨」と呼ばれた。

 明治時代初期、広大な境内は一部を残して東京府へ移管され(取り上げられ)、共同墓地の谷中霊園となった。

 墓地がないわけだ。目の前の広大な霊園が全部この寺の墓地だったのだ。幸田露伴が描いた五重塔もこの寺の境内にあったのだ。

 笠森稲荷はもうない。というより、あった所に後からできた同じ谷中7丁目の功徳林寺の境内に笠森稲荷の少祠がしつらえられていると、例の地名辞典で知った。行ってみると、洒落たお寺であった。

右脇に稲荷社があるが、残念ながら今は修繕中だった。

 アイドルお仙目当ての客でにぎわっていた鍵屋だったが、明和7(1771)年、突然お仙が姿を消した。行方も消えた理由も誰も知らないという、不思議な事件だった。笠森稲荷も鍵屋もお仙がいなくなったとたん、寂れてしまったのである。

 当時、幕府のお庭番支配で倉地政之助という忍者の頭目がいた。笠森稲荷は倉地家の先祖が勧請したもので、たびたび参詣に来るうちに見事お仙の心を物にしてしまった。

さすがお庭番支配、すべて隠密のうちの行動で、かき消すようにお仙はいなくなってしまったのである。どこに所帯を持ったのだろう。

 二人は夫婦仲もよかったらしく、十数人(一説には九人)の子を産み、お仙は文政12(1829)年、79歳で没している。

 例の地名辞典には、「中野区上高田1丁目の早稲田通りに正見寺という寺がある。四谷千日坂下から大正3(1914)年現地に移ってきた。この寺の墓地に倉地家の墓があり、そのなかに政之助と合葬のお仙の墓がある。いつお参りに行っても手入れのゆきとどいた美しい墓である」とある。

 してみると、政之助とお仙の子孫は繁栄して、いまも祖先を祀っているということだ。一度お参りしてみたいものだ。 

 コラム「江戸の亡霊地」も目標にしていた100回を迎えました。それだけが理由ではありませんが、これでひとまず終了ということにして、以後、付録として、他の理由について、何度も訪ねたのに書かなかった場所について、私の勘違いしていたこと、など、亡霊地から離れて書いていこうと思います。

 ご愛読ありがとうございました。

<2015.07.22>


第99回<王子を歩く>

 王子へは何度も行ったことがある。

 王子小劇場というナイスな小劇場へ演劇を観に行ったのだ。ナイスな、とは説明がしにくいのだが、演出者の意図やプランがかなりに実現できる自由な空間ぐらいの意味である。

 飛鳥山公園にも二度訪ねた。一度は単なる花見で、もう一度は渋沢栄一資料館を訪ねた。

 展示室の一つに、アメリカから来日したデニショーン舞踊団のルース・デニスとテッド・ショーンが渋沢栄一を表敬訪問した時の写真があった。

 大正15(1926)年、この舞踊団は当時の帝国劇場の招待で来日し、東京だけでなく関西でも公演し、広く人気を集めたモダン・ダンスの舞踊団である。

 渋沢栄一は帝国劇場建設の発起人の一人で、重役でもあったから、それで表敬訪問したのである。

 さて、王子といえば王子神社(権現)と王子稲荷の方が、江戸の昔から有名だ。だが、私はこれまで両社を訪ねたことがなかった。

 愛用の地図を開いて調べても、飛鳥山公園は見つかるのだが、両社は見つからなかったのだ。ひょっとしたら、この地図ではカヴァーしきれていないのではないか? そう思って、もっと広域をカヴァーする地図を買ってきた。「らくナビ東京23区」である。

 すると、飛鳥山公園のすぐ北に両社はあるのだった。出かけてみることにしよう。

 JR京浜東北線の王子駅で下りる。いつも都電荒川線で来るので、はて、飛鳥山の北側とはどっちなのか分からなくなる。こういう時は土地の人にたずねてみるにかぎる。土地の人をどうやって見分けるかというと、ママチャリに乗っている人である。

 JRのガード下を潜って二つ目の角を左にまがると王子神社がある。古くて鳥居の大きな神社である。いつ創建されたか分からないのだそうである。

14世紀に熊野権現三社の一つ若宮王子を勧請(分霊)してから、王子神社と呼ばれるようになった。小田原の北条氏から、また江戸時代に入って徳川家光から土地を寄進され、広大な境内を保有していたはずだが、いまはそれほど広い境内ではない。

 赤ちゃんを連れた家族が参詣している。お礼参りだろうか。

 境内の左側は駐車場になっているが、その奥に関神社がある。珍しいことに、毛髪に関係する職業の人たち、理容業(床屋さん)やかつら屋さんが信仰しているのだという。「毛塚」が建立されている。

 石神井川にかかる音無橋の下は、親水公園になっている。下りてから王子稲荷へ行くことにした。さっき左に曲がった道を右に行けばあるはずだ。両社の別当寺だった金輪寺が見えてくる。その先に王子稲荷はある。関東の稲荷社の総社である。こちらもいつ創建されたか分からないくらい古い。

 下が幼稚園になっていて、門が閉まっている時には、左をグルッと回って上から境内に入る。熱心な参詣者がいつまでも祈っている。

 王子稲荷は落語「王子の狐」で有名だが、いまでも毎年、大晦日には狐に扮した(狐顔にした)子供たちによる狐の行列で知られている。残念ながらその写真はないので、階段入り口にあった狐の像を撮影してきたのを掲げる。

 この日はとても暑い日だったので、王子駅前にもどって、ガード下の中華料理屋さんで、まず生ビール、プハーっ!次に大好きな天津飯をいただく。

 今回は八代将軍吉宗が下賜して、桜ほか何千本もの植樹をしたという飛鳥山公園へは行かなかった。

<2015.07.09>


第98回<浮世絵を現実世界へ眺めに行く>

 まだソメイヨシノが開花する前、また御徒町・上野へ出かけた。紅茶を買って昼食を取って、さてどこへ散歩するかと考えて、上野公園へ行ってみることにした。

 そんなに人出はないだろうと踏んだのだが、全くの見当違いだった。もう花見が始まっていた。いろいろな種類の桜が植わっているので、不忍池の方には咲き出しているのやもう満開なのもあるのであった。それにしても、外国人観光客の多さにびっくりする。

 上野公園に行ってみることにしたのは、ちょうど読み終えたばかりの『浮世絵で読む、江戸の四季とならわし』(赤坂治績著、NHK出版新書)の中にあった、歌川広重の浮世絵『名所江戸百景・上野清水堂不忍ノ池』がそのまま現在も残っていることを思い出したからだ。


 この本は、江戸時代の庶民が四季それぞれの季節に、どんな遊びを楽しんでいたかが分かって興味深い。花見に月見に雪見にと季節ごとに楽しんでいたのである。

 現在では、花見だけである。その花見ですら、私はこの上野公園散歩ですましてしまった。情けない限りである。もっともっと遊ぶことにしよう。

 いきなり公園の台地の方へ行かず、下の道を行く。清水堂が見えてきた。なるほど浮世絵の通り、ではなく、よくそのまま残っているものだ。

 京都に清水寺の舞台を模して造った赤い舞台に上ってみる。まことに良い眺めだ。舞台から下方、不忍池の中にある弁天堂を見ると、なんとまあ、道の両側に露店が並んで、すごい人出だ。

 もちろん、人ごみは嫌いだから下りては行かない。石段を登って台地の方へ出る。長らく修復中だった上野東照宮が修復完成していたので、入ってみる。もう、金色に輝くばかり。

 境内で春蘭展をやっていたが、私はそういう趣味はない。

 上野動物園の前は、高校生が点てる野点の席が設けられ、噴水の池の前には芸大のオーケストラが演奏し、とますます賑わっている。

 芸大の方へ歩いて、道路を渡り、国際こども図書館の前を通って、寛永寺をまた訪ねる。根本中堂の壮麗さに比べて、本寺の小さいことに呆れる。

その後、その先にある浄名院というお寺を訪ねる。ここにも外国人観光客がちらほら。寺院が好きな観光客は結構いるのだ。

 鶯谷の方へ歩いて行くと、谷中霊園の入り口が見えてくる。しばらくぶりだ、入りたいなと思ったが、今日は早めに帰って大相撲三月場所の千秋楽をTVで見たいのだ。諦める。

 寛永寺陸橋を渡って、根岸に降りた。途中、江戸太神楽の鏡味小仙師のお家を発見。よくまあ、こんな古い家に住んでいるなあ。

 根岸に降りれば、JR鶯谷駅はもうすぐだ。

<2015.05.09>

第97回<三崎町の川上座跡>

 このコラムを書き始める十年ほど前、チャップリンの喜劇映画の中古ビデオ(VHS)を探しに、白山通りを神保町から水道橋の方へ歩いていったことがある。この通りには中古ビデオ屋が多いのだ。

 すでにDVD化されていたのだが高価だったので、VHSで探したのである。それから数年後、著作権が切れて廉価版DVDが続々発売された。

 水道橋の駅前まで来たとき、説明柱が建っていて、そこに「ここに川上音二郎の川上座があった」と記してあったのである。「へ~、川上音二郎が劇場を建てていたんだ」と不思議な気がした。なぜなら、彼の代表的な上演は浅草座や本郷座や明治座で行われていたからだ。

 それを今、探しに行って…待て、待て、劇場跡はネットで検索してからに限る。

 検索してみたら、やはり幾つか記事が出てきた。出てきたどころではなく、何と三崎町には劇場が三座あって「三崎三座」と呼ばれていたのだそうである。

 三崎座 明治24(1891)年~大正12(1923)年、(三崎町2丁目11-15)

 川上座 明治29(1896)年~31(1898)年、明治34(1901)年~36(1903)年は改良座、(三崎町2丁目15-16)

 東京座 明治30(1897)年~大正5(1916)年、(三崎町3丁目3-23)

 ちゃんと現在の住居表示まで親切に載っている。だからといって、すぐに見つかるものでないことは、何度もご紹介した通りである。

 まずは三崎座、住所からすると、日大法学部3号館の近くである。行ってみると、3号館の敷地の端に説明板が建っている。

 「三崎座は明治24(1891)年この地に建てられた劇場です。建坪は200坪の小劇場でしたが、この劇場の特色は東京で唯一の常打ち女優劇場であったことです。有名な女優は、岩井米花、松本錦糸、市川久米八などがあり、学生や文人の観客が多く、明治文化史の上で異色の存在となっています。後にはここに中村歌扇が拠って、大正期を代表する女役者として人気を集めたといいます。」

 あまりにも簡単に見つかったので拍子抜けする。

 大正12年で劇場がなくなっていることから、関東大震災で焼失して終わったことが分かる。

 それじゃ、と次は川上座だね。

 ところが、三崎町2丁目15は狭い一区画であるにもかかわらず、何度周囲をへめぐっても説明板は見当たらないのだ。一度あきらめて、東京座を先に探して、後で戻ってくることにした。

 三崎町を表示する目印が建っている。

 ここから通りを渡ると、大きなニチレイビルの敷地の右端に説明板が見つかった。

「明治33(1900)年3月この地で開場しました。建坪335坪、客席定員2000名で東京有数の大劇場でした。舞台開きには当時の名優九世市川団十郎が出演し、以後の興行からは主として市川猿之助をはじめ、市川門下の若手俳優が出演しました。明治30年代後半には市川左団次、市川猿之助などを中心として、一本は新作物を上演するのを特徴とし、演劇界へ新風を吹きこむ役割を担いました。なお、三崎町一帯は三崎座、川上座などがあって、三崎三座と称され、東京の演劇界の一つの中心として賑わいました。」

 もう一度川上座跡を探しに行くが、何度探しても説明板は見つからなかった。残念至極だ。かつては偶然とはいえ、あんなに簡単に見つかったのに。

 しかし、川上座がこんなに短命に終わって、しかも後半は改良座と改称しているのはなぜなのか。もう少し調べてみよう。

<2015.04.26>

第96回<変貌する吉原弁財天>

 三ノ輪と言えば浄閑寺。馬鹿の一つ覚えのようにそう思いこんでいたが、調べてみたら浄閑寺は三ノ輪ではなく、荒川区南千住にあるのだった。

 通り一本隔てると、台東区三ノ輪になる。地図を見ていると、永久寺(目黄不動)という寺がある。気になったので出かけてみることにした。

 地下鉄三ノ輪駅を地上に出ると、いつも方向感覚が狂ってしまう。目の前で昭和通りと明治通りが交差しているかららしい。

 荷物の積み下ろしをしていた地元の会社の人に永久寺をたずねたら、「あそこじゃない?」と指さした。「あれは浄閑寺」「知らないなあ」。

 要領を得ない。後で分かったのだが、その会社の真裏だった。

 小さなお寺、墓地も狭く、めぼしいお墓もない。小さな目黄不動のお堂があるのみ。お参りして終わり。

 これからどうするか。考えてなかった。

 明治通りを渡ると、住居表示が竜泉だった。取りあえず歩いてみる。何か面白いものでも見つからないかと。見つからない。千束に入る。

 あれ、ソープランドが少なくなっている。その代わりラブホがやけに目だって数が増えている。

 吉原神社、吉原弁財天に寄って、浅草へ出よう、そう思ったのだが、何か空気が違うのである。

 いつも閑散としている吉原神社に何人もの観光(散歩)客がいて、写真を撮っている。社の装飾が朱色も鮮やかに新しくなっている。浅草散策のコースに組みこまれたのか。

 その先の吉原弁財天へ行ってみると、見事に変貌をとげていたのである。

 弁財天像は元のままだが、周囲の景色が一変している。

 貧寒としていたお堂の壁が極彩色に絵で装飾されている。

 お堂の正面もこんな感じに飾られている。

 おまけに大掲示板が設けられて、さまざまな写真や新聞記事が貼られている。以前このコラムで紹介した、関東大震災で焼け死んだ遊女たちの死体の山の写真が貼ってある。

 掲示板の新聞記事を読んで、この変貌ぶりの理由が分かった。

 作家で、得度して出家した家田荘子氏が、この弁財天にまつわる遊女たちの悲劇を知って、その霊を慰めようとした経緯を、新聞の取材に応じて語っていたのである。

 そのことがきっかけとなって、浄財が集まり、整備され、色鮮やかに装飾が施されることになったのだった。

 以前の陰惨な雰囲気が消えうせて、不謹慎な言い方になるが、何だかウキウキするような空気になっているのである。

 お堂にお参りして、弁財天を後にする。確かに、こんな雰囲気の方が遊女たちの鎮魂にはふさわしいのかもしれない。浄閑寺の慰霊塔はあまりにも異様な雰囲気だものな、と納得した。

 浅草の六区に入ると、再開発の真最中で、何棟もの高層の建物が建築中だ。浅草寺の景観を台なしにすると、一部で問題になっている。だが、浅草寺の土地ではないのでどうにもならないのだという。それに新しい建物の中には、必ず劇場を入れるという取り決めになっているのである。

 確かに再開発が完了したら、六区も変貌をとげてしまうことだろう。だが、六区復活となるかどうか。

 田原町へ出て、地下鉄で帰ることにしよう。

<2015.04.05>

『江戸の亡霊地』のバックナンバーを読む →     

 

武田清著作一覧はこちら!