江戸亡霊地                            武田清

連載コラム「江戸の亡霊地」 付録篇

付録20.<月島まで>

 鉄砲洲稲荷神社の由緒については記さないと書いたが、調べてみると面白いことが分かったので、少しだけ書くことにした。

 承和8(841)年とも、承久年間(1219-21)の創建ともいわれる古い社で、寛永元(1624)年ごろは八丁堀稲荷と称していたそうだ。明治元(1868)年、鉄砲洲が外国人居留地になったため、この地、湊に遷座したのだそうである。

 でも、鉄砲洲というのは湊1~3丁目と明石町を指したのだから、この神社はもと明石町にあったことになる。

 例の地名辞典によると、鉄砲洲という一風変った名前は、海中へ埋め立てた州崎の形状が鉄砲に似ていたからだったという。

赤ちゃんづれの若い夫婦は、「ここをまっすぐ行って、橋を渡ると月島です」と教えてくれた。

 湊の町をきょろきょろ見回しながら歩いて行く。道の両側、再開発でマンションが幾棟も建設中だ。そのうち「回漕店」なる看板の店が見えてきた。回漕とは何でしょう?

 船舶で旅客や貨物を運送することをいい、「廻船運漕」の略だという。つまり、船を使った運輸業ですね。

 さらに進むと、なんと佃の渡し跡の碑があった。

 

 昭和39(1964)年、佃大橋が完成するまでは、ここから佃島、月島へ船で渡っていたことになる。ちょうど東京オリンピックが開催された年だ。これで隅田川最後の渡しだった「佃の渡し」がなくなったのである。

それでは佃大橋へ上ってみよう。これもなんと、ベイエリアのタワーマンシン群に圧倒される。

  佃島はご存知のように、徳川家康が関東入国の際、摂津国(いまの大阪)西成郡佃村の漁民が招かれ、寛永年間に隅田川河口の干潟100間四方を拝領して小島を造成し、ここに移り住んで「佃島」と命名したことから来ている。

 慶安2(1649)年の戸数80余り。幕府から漁業の特権を与えられ、その返礼に毎年白魚を江戸城へ献上したという。

 雑魚類を調味料で甘辛く煮詰めた「佃煮」は、ここが発祥の地で、江戸名物となって現在に至っている。

 月島は、明治18(1885)年、倉田吉嗣が埋め立て工事を始め、同25(1892)年に完成した人工島である。築地市場で働く人たちが多く長屋に住まっていて、風情があったのだが、今はそんなところは少なくなっている。

 その後の埋め立てで、北の石川島と佃島、月島は地続きになって環境は激変したと言われる。

 佃大橋を渡り切ると、右手の西仲通り、いわゆる「もんじゃストリート」の入り口に、何やらモダンに一変したこの通りにそぐわない古い建物があった。表にまわって見てみると、「佃島説教所」の看板が掛かっていた。

 看板の上の方に、浄土真宗本願寺派の文字が書いてある。寺のような、集会所のような不思議な感じの建物である。調べてみたのだが、くどくなるからもう記さない。

その日はそこまでで散歩を終わりにして、地下鉄大江戸線で帰路についた。もんじゃストリートへ行かなかったのかって?行きませんよ、つまらないもの。

<2016.06.23>

付録19.<八丁堀へ>

 

 捕物帳で、よく「八丁堀の旦那に呼ばれて行ってきた」という場面がありますね。

 八丁堀に住んでいたのが与力、同心と呼ばれていた武家で、旗本、御家人がその職に就いていた。今さら訪ねて行っても何もないことは承知していながら(ネットでは、説明板が建っているとある)、行ってみたくなる。

 これが江戸東京散歩のしょうもないところである。

 地下鉄有楽町線八丁堀駅で下りる。京華プラザをめざしてひとまず歩く。旧京華小学校の跡地。そこにめざす(めざしてはいないんだが…)説明板があった。

 

(写真に写り込んでいるのが、散歩につきあった(つきあわされた)息子です。)

 「八丁堀の与力・同心 組屋敷跡 中央区八丁堀1~2丁目、日本橋茅場町1~3丁目」とあって、こんな説明がしてある。

 「江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12(1635)年に江戸城下の拡張計画が行われ、王円寺だけを残して多くの寺は郊外(浅草)へ移転し、そこに与力、同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。

 八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手も粋な庶民の味方として人々の信頼を得ていました。

 初期には、江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まって、のち南北両町奉行所が成立すると、与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300~500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。

 これらの与力、同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く(中略)歌人などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。」

 組屋敷というのは、江戸時代に幕府や藩の機構のなかで同じ組に属する武士が、一ヵ所に集団的に与えられていた屋敷のことで、大縄地ともいった。多人数の与力、同心が組ごとに勤務する番方諸役に多く見られた。番方とは軍事職制を総称する言葉で、警備(番)に当たることに由来する。

 広い江戸の八百八町をよくこれだけの人数の与力、同心で治安をはかれたものだと感心する。もちろん、手が回らないから私的に岡っ引き(目明し)を雇っていたのである。岡っ引きを雇うことを禁止する命令がたびたび出されたが、守る者は皆無だったという。無理もない、かけがえのない手足だったのだから。

 組み屋敷は、現在の地下鉄八丁堀駅の北東から南西にかけて、かなり広い土地だったようだ。桜川と楓川、二つの川に囲まれていたのだが、いまは両川とも埋め立てられて公園になっている。逆にいえば、公園になっているから往時が偲ばれるのである。

 この公園を最後まで歩いていくと、中央区湊1丁目に出た。何やら露店が何軒か出て、お祭をやっているらしい。行ってみると、鉄砲洲稲荷神社があった。

 神社の由緒はもう面倒で、記す気がしない。日本は国中、稲荷神社だらけなのである。稲(米)の神様だから、当たり前といえば当たり前ですね。

 今回は月島を散歩の終点に決めていたので、どっちへ歩けばいいか、通りがかりの赤ちゃんづれの若い夫婦にたずねてみよう。

<2016.06.08>

付録18.<蔵前うろうろ>

 蔵前には何度も来たことがある。それなのに、この土地のことをほとんど知らないのは、しばしば散歩の終点にしていたからだった。

 上野から鳥越神社まで歩いて、また駒形から歩いて、蔵前で地下鉄大江戸線に乗って帰るとか、あるいは浅草橋から歩いて蔵前を通過するとか、していたのだ。それでこの土地自体をまるで知らないままでいたのである。

「踊り塚」をやっと見つけた日、私は新堀通りを蔵前めざして歩いていった。すると、春日通りとの交差点のところ(地名でいうと三筋)に、赤御影石の石碑を見つけたのである。近づいてみると、「川柳発祥の地」の文字が。

 浅草龍宝寺門前町の名主であった柄井川柳はここに住んでいたのだという。彼の生誕250年を記念して、平成9年に建立されたと書いてある。

 そういえば、ここに龍宝寺というお寺があった。浅草も結構広いのである。雷門がある一帯だけが浅草なのではない。

 柄井川柳の命日は9月23日で、「川柳忌」。彼の辞世の句は、

「木枯しや跡で芽を吹け川柳」

 川柳ではなくて立派な俳句だ。ちなみに、川柳とはネコヤナギのこと。

 ここから蔵前へと歩いて行く。途中で精華公園というところへ入っていって、大きな通りに出た。あとで分かったのだが、これが国際通り(江戸通り)で、そこから蔵前橋通りで出て、あとは分からなくなってしまって、結局、蔵前橋に行き着いてしまったのだった。

 結論から言うと、それでよかったのだった。なぜかというと、蔵前国技館は橋のたもとの、いま水道局と蔵前工業高校のあるところにあったのである。

 さて、いつものように春日通りに戻らなければ。帰るにしても、ここらの地下鉄の駅は同じ都営地下鉄なのに、浅草線にしか乗れないのである(変なの)。

 帰る前にもう一つ行きたいところがあった。蔵前神社である。

地下鉄の出入り口の近くに、かや寺という浄土宗の大きな寺がある。かやの木ホールというホールを所有していて、コンサートなど開催している。「かや」という漢字が変換できなくて残念だ。例の地名辞典によると、正式には池中山正覚寺といい、かや寺は俗称だったのだが、今では正式名として登録されているのだという。

 この寺の奥に入っていくと蔵前神社が見えてくる。元禄7(1694)年、石清水八幡を勧請して石清水八幡宮といったが、昭和2(1927)年に現称に改められた。境内を囲む石柵に歴代の横綱、大関の名が彫られ、赤字に染められている。栃錦、若乃花(初代)、懐かしいなあ。知ってますか。

 蔵前といえば、江戸時代は札差の店が多くあった町だった。札差は元々、旗本や御家人の給米を金に替えてわずかな手数料を取るのが表向きの商売だが、武家の弱みに付けこんで、高利貸しをやって莫大な利益を得ていた。

 歌舞伎の「助六」のモデルが、札差の一人大口屋暁雨(治兵衛)だったと言われる。

<2016.05.30>

付録17.<ついに見つけた「踊り塚」>

 われながら記憶というものは頼りにならない、曖昧なものだと思う。

 こんなに手がかりがあるのに見つからなかった「踊り塚」だが、記憶をたどっていくと、孫三稲荷から私は下谷神社に行っていたようなのだ。しかも、それとは知らずに裏から入っていって、「あれ! 下谷神社に出た」と気づいたのだった。そうだとすると、「踊り塚」のあるお寺は、孫三稲荷と下谷神社の間にあるということになる。

 それで今回は下谷神社から散歩を始めた。例大祭が始まろうとしている。参拝を済ませて左側に行くと下谷稲荷社があって、その時はここから入って来たのだった。

 裏の入り口を出て、左(東)の方へ歩いて行く。やがて葛飾北斎の墓がある誓教寺に出る。もう行き過ぎているのだが、墓参りに裏手の墓地に入ってみる。小祠のような浮世絵の天才の墓。

 山門へ戻って、向かいの趣のある吉祥院の境内を通り抜けさせてもらう。ここから少し下谷神社の方へ戻ったところに、そのお寺があった。元浅草2丁目2-3にある、日蓮宗の長遠寺というお寺だ。

 実は、一度このお寺の前に来たことがあったのを思い出した。中へ入ってみなかったのは、山門の前右側に小さなプレハブ小屋が建っていて、墓地分譲の案内をしていて、中にいる女性と目が合って、なんだか入りづらくなったからだった。遠慮なく入っていれば、こんなに何度も…いやいや良い散歩をさせてもらったと感謝しよう。

 結論から先に言うと、四世芝翫の石碑と「踊り塚」は無関係だった。芝翫の石碑には次のような刻字がしてあった。

 変体仮名が一部読めないのだが、

 「いざ○○○越えん 雪解けの三途川」

 してみると、これは芝翫の辞世の句だということになる。彼は上方で亡くなっているはずだから、なぜこの寺に辞世の句碑があるのか、それは分からずじまい。裏に彫られている由緒は、一部石がはがれ、残りは磨り減っていて読めない。

 一方、「踊り塚」の方には、「為元祖橘家円三郎追福 二世橘家円三郎建之」と刻字がしてある。

 はて? 日本舞踊に橘家という流派はなかったと思うが。こんなときには「ネットで検索」に限るのだ。

 これは落語の名跡で、初代橘家円三郎(1828-86)は幕末・明治の落語家。初め三笑亭可楽の弟子だったが、師匠が幕府に爆弾をしかけ、後に捕縛され、佃島送りにされた後、師匠の願いで三遊亭円朝の弟子にしてもらい橘家円三郎となった。

 寄席の高座で腰を据えたまま踊る、「寄席踊り」の名手だったといい、後に寄席坐り踊りの祖と称された。

 坐り踊りと円三郎の名跡は同門の朝治(後の初代橘ノ円)が継承した。初代橘ノ円(1868-1935)、元二代目橘家円三郎は、円朝七回忌の時に「円頂派」を結成し、橘ノ円を名乗った。全員、坊主頭だったからだという。

 これで大方の謎は解けたわけだ。

 私はこの後、また蔵前へと足を伸ばしたのだが、道に迷ってどこを歩いているのか分からなくなったのだった。

 なぜ蔵前かというと、両国へ国技館が戻る前、国技館は35年間ほど蔵前にあったので、それは蔵前のどこら辺にあったのか以前から興味があったからなのである。

<2016.05.11>

付録16.<元浅草ぶらぶら>

 いまだに見つからない「踊り塚」のあるお寺。

私はしつこい性格ではなく、どちらかというとすぐ諦めてしまう、いくじなしの性格。それなのに何度も散歩に出かけてしまうのは、たぶんこの界隈が好きだからだろう。

 フィルム・カメラで撮った写真のなかに、手がかりになりそうなのが2枚あった。ひとつはこれ、春日通りの佐竹商店街の向かいにある、一体何なのか分からない石像で、横にも裏にも何一つ説明がない。

 

 次の写真は、左衛門橋通りを過ぎて左折したところにある「孫三稲荷」、私は「まごさんいなり」と読んでいたが、行ってみると説明板には「まごぞういなり」と書いてあった。 

  細かい説明がしてあるが、短くまとめると、天正年間(1573-92)徳川家康が「孫三」と名のる者に馬のくつわを取らせて安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はいず、ただ安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ祠があり、孫三はこの稲荷の化身であったという霊験から、天正18(1590)年、関東入国の際、家康の命により稲荷の神体ごと川村某の手によって江戸にもたらされた。慶安年間(1649-52)にこの地に移された、という。

 この稲荷社の向かいには、ごく小さい菊屋橋公園があり、そこに柄井川柳(からいせんりゅう)の石碑が建っている。彼は江戸浅草龍宝寺門前町の名主で、雑俳の点者となって万句合を始め、以後前句付の点者として評判をとり、その選句を川柳点または川柳と呼んだ。明和2(1765)年、川柳評万句合の中から佳句を抜いた「誹風柳多留」を出版した風流人であった。

 だが、ここから手がかりはなくなる。元浅草の奥へ奥へと入っていくしかない。

日曜日だから営業している店はない。平日なら活気があるのだろうが、今は閑散としている。

 もともと浅草通りと春日通りに挟まれた、ここ元浅草と寿界隈は、ひっそりとした住宅街か中小の製造業者が並ぶ、静かな街なのである。

 左手に合羽橋道具街が見えてきた。そっちには行かないで新堀通り沿いに南下する。一つ目の宗円寺というお寺には、なぜだか「エノケンの碑」というのが建っている。由緒は書いてない。

 何軒ものお寺を訪ねるが、「踊り塚」は見つからない。途中で左に(東に)曲がる。宗吾殿が見えてきた。玩具のバンダイ本社の手前に、何やら黒っぽい感じの小さな神社が見える。今まで何度も通ったのに気づかなかった。「黒船神社」と書いてある。これも稲荷社だ。まさかペリーの黒船(太平洋艦隊)と関係はないだろうが。

 帰宅して、黒船神社をネットで検索したら「猫のあしあと」という、何というか、東京の全神社の情報を網羅したようなサイトがあって、これまで何度もお世話になってきたが、そこにはこうあった。

平将門の乱を平定した、平貞盛と藤原秀郷が造営し、天慶3(940)年に創建した稲荷社である。

藤原秀郷は、財宝を積んだ黒船に白狐がいる霊夢を見、墨田川の浜の石上にこの稲荷社を勧請したのだという。ここら一帯を昔、黒船町といっていたことからそう呼ばれるようになったらしい。

江戸時代に入り、散穂稲荷大明神、紅葉山稲荷大明神を合祀して、黒船三社稲荷大明神と称されたのだという。残念ながら写真は撮り忘れた。

この後、私は久しぶりに蔵前に足を運んだのだが、また次回にでも。

<2016.04.25>

付録15.<横浜野毛散歩>

 横浜中華街で、家族と義理の妹夫婦が私の65歳の誕生日を祝ってくれるというので、出かけることに。夕方からなので、私は息子と前々から行ってみたかった(私だけ)野毛を散歩することにした。妻と娘は渋谷へ買物に出かけた。

 横浜は、地下鉄副都心線が東急東横線へ乗り入れるようになって、ずいぶん便利になったし、近くなった。が、みなとみらい駅とJRの桜木町駅が近いものとかんちがいしていた。ずいぶん歩くのだった。

 おまけにその日は、横浜マラソンの開催日だった。マラソンを走り終えて戻ってきた人々、応援した人々と「動く歩道」に乗って、桜木町駅にたどりついた。

 「野毛ちかみち」を潜って、野毛に出る。この近道(地下通路)の中に、大道芸フェスティバルが開催されるときの地図が掲示してある。そう、毎年、野毛では4月下旬の土、日にもう20年来、大道芸フェスティバルが行われているのである。一度来てみたいなあ。

みなとみらい地区の超モダンと対比的に、野毛は昔ながらの町であることが一目でわかる。立派なのは何通りというのか、表通りだけで横町に入ればもう飲み屋街である。

 表通りに「横浜にぎわい座」が見つかった。

 落語の独演会や二人会のポスターがぎっしりと飾ってある。

 その向かいに、ここは新宿三丁目かと一瞬思える通りがあって、柳通りと名前がでている。入ってみると、飲み屋街だった。

 昼からやっている店もあるが、まだ飲むわけにはいかない。夕方からだ。

裏通りを歩いていると「横浜成田山」という看板を見つけた。探してみると、崖下にでて、崖はいま修復中。あの崖上に成田山があるのか。ぐるりと回って、野毛坂道を登っていくと、入り口があって、まあ何というのか、むかしこの石段の両側の家々がどんな商売をやっていたのか偲ばれるような細い道があり、その奥のゆき止りのところにその寺はあった。延命院というよくある名前の寺である。

 お参りをすると、そばにいたお寺の方に「どうぞこちらへ」と堂内に招かれた。ちょうど護摩行を行っているところだったのである。本堂に入って椅子に腰をおろし、行が終わるまでお邪魔する。そっとデジカメを取り出して、その様子を写真に撮る。堂内に「写真撮影を禁じます」の注意書きが掲示してあるのに、後で気づいた。

 もっとあちこち散歩したかったのだが、もう4時に近い。桜木町駅に戻ると、構内に書店があって、のぞいてみると文庫本の棚に塩見先生の河出文庫本が6種類も陳列されていて、プチ塩見鮮一郎フェアの感じである。

 さて、みなとみらい線の駅はどっちだ。みなとみらい駅に行くより、馬車道駅の方が近そうなので歩いて向かう。

 元町・中華街駅はここから一駅だ。

<2016.04.07>

付録14.<しょせんは機械、または西新井大師>

 TVのヴァラエティ番組でたびたび紹介される、西新井大師に前から行ってみたくて仕方なかった。

 なぜかというと、門前町の初めの左右に草団子屋さんがあって、そこのお姐さんたちがお客さんたちに「どうぞ、どうぞ」と言いながら試食させ、お茶までふるまってくれるのだが、それがタレント向けのサービスにすぎないのかどうか、一度確かめてみたかったのだ。

 さて、西新井大師へ行くにはどういう経路で行ったらいいのか? 足立区なのだが、私のポケット地図には荒川区の南千住までしか載っていないのだ。確か、東武伊勢崎線(現スカイツリー線)に西新井という駅があったと思うのだが。

 こんなときには、スマホの乗り換え案内で検索だ。たちどころに出てくる。

 飛田給(京王線)→新宿駅(山手線)→西日暮里(舎人ライナー)→西新井大師西駅

 信用したのが間違いだった。スマホもしょせんただの機械、使用する側の地理や事情なんてお構いなしだ。

 西新井大師西駅で降りて、駅前の地図を見ると、北コースと南コースがあって、どちらもかなり歩くのだった。短い北コースにする。それが間違いだった。初めての道を右に左に曲がりながら、1キロ半ほど歩くのだ。

 ようやく辿り着いたのは、西新井大師の裏側だった。裏口から入るのだ。南コースなら山門に直接達するのである。

 大きなお寺だ。川崎大師と同じくらい。真言宗豊山派の総持寺というのが正式名称だが、だれもそうは呼ばず、西新井大師または厄除け大師と呼んでいる。

 お参りして、山門の方へ行く。つまり、全部反対の手順になるのである。あちこちに花が植えられ、木々に花が咲くように配置されている。

 山門の前に手水場があって、磨かれてピカピカの地蔵様。

 左側には「塩地蔵」があって、塩に埋もれている。この塩を持ち帰って、体の具合が悪いところへ塗りつけると不思議に具合が良くなってくるのだという。治った信者は、お礼に持って帰った塩の倍の量をもってお礼参りにくることになっている。

 さて、本当は最初に潜る山門をこのたびは出る。両側に草団子屋さんが向かい合っている。本当にお姐さんたちが、「どうぞ、どうぞ試食してください!」と盛んに呼びかけてくる。爪楊枝にささった団子を受け取ると、すかさず「お茶もどうぞ!」とくる。TVで見たそのままだったのに感激して、30個入りを思わず買ってしまう。

 昼食は門前町でとりたいと思って、横丁の奥にあった「しおとくじら」という変った名前の、店構えも変っているし、店の中も変っているそば屋に入ってみる。店内はまるで昼食時の小学校の教室のような感じで、生徒が向かい合わせに座るように椅子が並んでいる。

 壁一面に、なぜかロック・グループのクウィーンのLPジャケットが所せましと飾られている。奥には小舞台があるらしく、幕で隠れているが、左右の壁に照明のライトが設置されている。ミニコンサートでもやるのかしら?

 ところが、ぜんぜん期待しないで注文した、本日のおすすめの一つ「三色割子そば(とろろ、山菜、たぬき)」が、これが実においしいのだった。思わず、ビールをお代わりしたぐらい。

 店主に、「東武の確か、支線がありましたよね?」とたずねると、「ああ大師線ね、すぐそこです」と。店を出て、左に行くと一分もかからずに大師駅に出るのであった。最初からこの駅に来れば、もっと面白かったのに。

 家に帰って、「みずとくじら」をネットで検索すると、有名な店らしく、何とかログにも載っている、ブログもあるし、おりおりにコンサートも開いているのだった。

<2016.03.31>

 

付録13.<妻恋神社>

 

 神田神社(明神)を紹介した際に触れた新妻恋坂、その名前の元となった妻恋神社へ行ったことがなかったのを思い出して、2月の日曜日に出かけてみた。

 いったいどんな由緒があって、こんな素敵な名前が付いたんだろうと思って。

 御茶ノ水駅聖橋口を降りて、聖橋を渡る。湯島聖堂を通り越して、ひとまず神田神社へ行ってみた。さすが有名な神社だけあって、かなりの人出、外国人観光客が多いのに驚く。

 この神社の境内には、国学発祥の地とかいろいろな石碑が建っているが、こんな石碑があった。銭形平次の碑である。平次は神田明神下に住んでいる(ことになっている)からだと。ほほえましい。

 交差点に戻って、清水坂を下りていく。この坂は、下りて上ってまた下りると、湯島天神へ至るように伸びている。

 蔵前橋通りの新妻恋坂を渡って一つ目の角を右に曲がると、妻恋神社が見えてくる。小さな神社である。

 文京区教育委員会の建てた説明板が立っている。それによると、

「祭神は、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の三柱である。

 日本武尊が東征の折、この地へきて倉稲(稲荷神)を祀ったことが起源であるとする。また、日本武尊が三浦半島から房総へ渡るとき、大暴風雨に遭い、妃の弟橘媛命が身を海へ投げて海神を鎮め、一行を救ったことから、妃を船魂神(海神)として当社に祀ったという。

 江戸時代、当社は正一位妻恋稲荷大明神と呼ばれ、多くの参詣人を集めた。また、関東近辺の人々の求めに応じて、各地に稲荷社を分霊したり、「野狐退散」の祈祷などを行ったりした。

 当社は、関東総司とも称した他、「稲荷番付」では行司の筆頭にあり、江戸にあった多くの稲荷社の中でも特別な地位に位置づけられ、高い社格を有した。」

 なるほど、なぜ妻恋と呼ばれているのかようやく分かった。小さな神社ではあるが、有名な稲荷社であるらしく、観光客(散歩者)がひっきりなしに訪ねてくる。

 清水坂に戻って、湯島天神まで歩く。梅祭を開催していてすごい人出だ。参拝の順番を待つ人の行列が鳥居のところまで続いている。両側に露店また露店。人ごみは嫌だから、途中で右に折れて天神下へ行こう。途中に「新派」の碑を見つけたので写真に撮っておく。

 皮肉なことに、天神下から見た方が梅祭の趣がよく味わえる。

 さて、今日はどこで昼食をとるか。一緒に散歩した息子が上野のいつもの店がいいというので、池之端に出て、不忍池をぐるりとまわって上野に出た。

 暖かい一日で、梅見をした気分だった。

<2016.03.17>

付録12.<花鳥という女>

 

 前回紹介した『江戸「捕物帳」の世界』の第3章「裁判・刑罰・盗賊」を読んでいたら、聞き覚えのある女の名前が出てきた。その名を「花鳥」(かちょう)という。

 なぜ聞き覚えがあったかというと、「半七捕物帳」のとある巻に登場してきたからである。ただ、何巻めだったか、忘れてしまっている。題名も。

 こんな女だと、先の新書には紹介されている。綺堂が創作した架空の女ではなかったのだ。ちゃんと史実に準拠していたのである。

 「天保7(1836)年、幕府は農民を博打に誘う博徒の取締りを町奉行と勘定奉行に命じた。勘定奉行の配下関東取締出役は、下総佐原の親分喜三郎を捕らえた。

 喜三郎の実家は、小作米が年に600俵も入る豪農で、料理屋も経営して裕福であった。その財力を背景にして、喜三郎は若い頃には江戸に遊学し、普化宗(虚無僧)の修行も積み、美声で新内を唄い、土地で羽振りを効かせていた。

 賭博常習者は遠島刑である。喜三郎が送られた八丈島には、豊菊と花鳥という新吉原の遊女がいた。この二人はともに付け火をしていたのだが、小火で終わっていた。

 豊菊は八丈島で女の武器を活用して生活しており、22歳の時に花鳥が送られてきた。同じ境遇の二人は話も合い、花鳥も豊菊同様にして生活の糧を求めた。

 それから8年が経過した時に、喜三郎が送られてきたのである。花鳥がインテリ博徒の喜三郎に惚れたようで、たちまち二人は夫婦同然の仲になっていた。

 喜三郎は花鳥を連れて、同じ博徒であった五人の男たちとともに、天保9(1838)年に「島抜け」を敢行、鹿島に流れ着いて、佐原に戻りついた。

 二人は長州下関へ逃れる寸前に、北町奉行所と火付盗賊改方の捕り方に捕縛された。

 牢に入れられた花鳥は、自白しないので石抱きの刑を受けることになった。張り番が花鳥の膝に石を乗せようとすると、口から一分金を出したのである。張り番も花鳥の膝に負担が掛からないように石を乗せた。だが、白状をしないのでもう一枚乗せようとすると、また口から一分金を出すというしたたかな女であった。

 牢名主の花鳥は、女義太夫の20人ほどの女が入れられてくると、ツル(牢名主への賄賂)を持たない女に、尻まくりをさせて向こう向きに座らせるなどの辱めをしたとされ、天保12(1842)年4月に江戸市中引廻しの上で獄門に処せられた。」

 綺堂はもちろん作家だから、花鳥の姿をさらに生々しく描いている。市中引廻しされた時に、花鳥を見に集まった群衆の中に牢の中で辱めた女義太夫二人の姿を見つけると、花鳥の方から声をかけ、二人の女を青ざめさせた、とか。

 私にとって問題は、綺堂がどのようにしてこの「花鳥という女」の島抜けと牢中での辱めの話を知ったのか、ということである。

 半七老人のモデルになった老人が、かつて岡っ引きであった友達から聴いた話というのが、一応「半七捕物帳」のスタイルになっているだが、明治時代の中頃には、天保生まれは「天保老人」になっていたのだから、そんな話を知っていたわけがないのである。

 意外なことに、私たちは「捕物帳」という語を誤解していたようである。この新書によれば、「捕物帳」とは町奉行所で行った捕物の記録を書きとめた冊子であったのだという。今でいう事件の調書である。

 そして、この「捕物帳」は「旧幕府引継書」として明治新政府に引き継がれ、今は国立国会図書館に収蔵されており、古典籍資料室で閲覧することができるのだという。

 してみると、大正15(1926)年から始まった「半七捕物帳」のネタに困った時、綺堂はこの「捕物帳」を読みに出かけていたということもあったのではなかろうか。

<2016.03.05>

 

付録11.<半七の地理>

 青空文庫から無料でダウンロードして全69巻を読み終えた「半七捕物帳」だったが、このごろ無性に読み返してみたくなってしかたがない。

 本当は、そんな読書をしている暇なんかない、仕事で読まなくてはならない専門書が何冊も積んである。

 「半七捕物帳」を読み返したくなったのには、こんな本を最近読んだからだ。『江戸「捕物帳」の世界』(山本博文監修、祥伝社新書)である。「本書は、『捕物帳』をはじめとする、江戸時代を舞台にした時代小説を理解するために不可欠な知識を、提供するものである」と「はじめに」で書かれているが、とんでもない、「江戸の時代小説やテレビの時代劇に対する理解が、格段に深まることは受け合いである。これから時代小説を書こうという新人小説家の手軽な参考書にもなる」ことまで狙っているのである。

 江戸時代の行政、司法、警察について、何ほどかのことは知っていると思いこんでいただけだった。私などほとんど無知同然であると思い知らされた。情けない限りである。

 江戸時代は公共交通機関などなかったから、人々は一部の例外をのぞいて、みんな徒歩で用を足していた。そこから半七の世界に今度は入ってみよう。

 岡っ引き(目明し)の半七は呼ばれて「八丁堀の旦那」=同心のところへはちょくちょく出かけるが、奉行所へ直接出かけることはなかった。奉行所へ勤めているわけではなかったからだ。同心に私的に雇われているだけだった。

 それで、前から気になって行ってみようと思っていた、北町南町奉行所跡の碑を訪ねてみることにしたのだ。

地図で調べると、東京駅八重洲口の北口に北町奉行所跡碑が、南口に南町奉行所跡碑が建っている(ように見えた)。

北口を出て少し左に行くと、大丸の前にその碑が建っていた。

 

 奉行所は本来もっと神田寄りのところに二千五百坪余りで建っていたという。

さて、南町奉行所跡碑は、と南口を探すが見つからない。困って交番で尋ねると、先の新書に載っていた地図を見て、若いお巡りさんが「あ~あ、これは有楽町ですね」と有楽町の交番に電話で問い合わせてくれた。駅前のイトシアという建物の真ん前にあるそうである。

ていねいにお礼を言って辞する。その前に昼食だ。GranAge というビルの地下にある「二尺五寸」という変った名前のそば屋で、おろしそばとビールを頼む。う~む、平凡な味、まずくはないが。

再び外堀通りに出ると、そこが鍛冶橋の交差点だった。十八世紀の初め、元禄のころ、ここに中町奉行所が十七年だけあったのだ、と先の新書で知ったばかりだった。

 たまにうろうろするのも良い。まっすぐ歩いていたら、多分気づかなかっただろう。

西銀座の交差点を右折すると、有楽町の駅前にでる。イトシアの前の、地下に下りるエスカレーターの壁に、これは碑というよりは銘板だな、それはあった。

 宝永4(1707)年に常盤橋門内から、ここ数奇屋橋門内の地に移転、幕末までこの地にあったのだという。山手線に沿って発掘をした時の写真まで載っている。

イトシアの背後には、東宝と松竹のビルがあり、前者のビルは朝日新聞社のビルだが、写真で見えるでしょうか。

 余計なことを付け加えると、奉行所がここに移転してきた翌年(宝永5年)に富士山が大噴火を起こしたのである。江戸の人々どんなに驚き、慌てふためいたことだろうか。

<2016.02.12>

 

付録10.<踊り塚、または空しい散歩>

 このコラムを書き始める前から下町散歩をかなりしていたのだが、「なぜ、ここにこんなものが?」という場合が間々あった。

 その一例が「宗吾殿」で、このテーマは成田(正確には酒々井町)の「宗吾霊堂」まで出かけることになって、その後、成田不動の出開帳と市川団十郎の話題まで展開することになった。

 今回採り上げたかったのは「踊り塚」で、元浅草を散歩しているとき、とある寺の境内に「三世寿海 踊り塚」という石碑を見つけたのだった。なぜ、ここにこんな碑があるのかと思った。

 もう一度行って写真を撮ってこようと思って、一度ならず元浅草界隈を散歩したがいっかな見つからなかった。ネットで検索してもそれらしきものは出てこないのだ。

 たまたまそのとき読んでいた矢野誠一の『舞台の記憶』(岩波書店)に、こんな記述が出てきた。

「勧進帳」の項で、時代劇映画スターの市川雷蔵が久しぶりに歌舞伎に復帰して、富樫を好演したとあって、その後に「東京にいた須美蔵時代の市川寿海は、永六輔の実家浅草最尊寺の檀家だった」とあった。市川雷蔵は、当時は上方歌舞伎に出ていた市川寿海にのぞまれ養子になっていたのだった。

 早速、元浅草の最尊寺に出かけてみた。浄土真宗のお寺で、山門もなく境内と呼べるほどのものもない小さな寺だった。もちろん「踊り塚」など見つからなかった。これで何度目の空しい散歩になったことか。向かいの本行寺も真宗のお寺で、住職が永さんだ。永六輔さんの親戚かしら?

 何か変だぞと気づいたのは、私が寿海に妙にこだわっているからだった。寿海は前名の六代目須美蔵時代、二代目市川左団次の一門の名女形で、美貌、美声で有名な俳優だった。当時(明治40年代から大正時代)の知識人たちに「女優不要論」を唱えさせるほどだったという。それを書きたかったためだった。

 記憶のなかでは「三世寿海」になっているが、間違いではないか。確か、フィルム・カメラで写真に撮っていたはずと思い出し、ミニアルバムを繰っていくと見つかった。なんとそこには「四世芝翫」とあったのである。

 早速、ネットで検索したがそれらしきものは見つからなかった。ただ、四世芝翫(天保2年~明治32年)がどんな役者であったのかは分かった。

 まことに美貌の役者で、役者絵を描く浮世絵師泣かせだったそうで、その一枚がこんな絵である。

 さらに、日本舞踊中村流の家元で、舞踊の名手、それで踊り塚という石碑が建てられたのだと分かる。

 台詞覚えの実に悪い役者で、いつも後ろに黒衣がついて台詞を付けていたのだそうである。それがため新作狂言に起用するのを敬遠されたという。

 なお、芝翫とは歌右衛門の俳名で、芝翫がその名を継ぐのが慣例だったそうだが、現在では別々に名乗っていて、この度八代目を七代目の息子中村橋之介が継ぐことが決って話題になっている。はたして七代目歌右衛門まで継ぐことができるだろうか。

<2016.01.29>

 

付録9.<ミサじゃないよ!>

 ニコライ堂を訪れた時のコラムに、「日曜日なのでミサが行われている」また「午後1時にミサが終わって」などと書いてしまったが、ロシアに限らず正教会ではミサとは言わないのだそうである。

 礼拝をミサと呼ぶのは、ローマ・カトリック教会なのである。

 では、正教会では何と呼ぶのか。「聖体礼儀」もしくは「奉神礼」と呼ぶのだそうである。

 これは、なぜロシアではクリスマス(主の降誕祭)を1月7日に祝うのかを調べていて、ある本に出会って知ったことだ。

 

 『正教会の祭と暦』クリメント北原史門著(ユーラシア文庫、群像社)である。このシリーズは最近まで「ユーラシア・ブックレット」(企画・編集ユーラシア研究所)の名称で東洋書店から発売されていたのだが、書店が倒産したため、新たに発売元を群像社に替えて再スタートしたものだ。

 結論から先に言うと、ロシア正教会では現在も12月25日に降誕祭を祝っているのである。それなのにロシアに行くと、1月7日に降誕祭を祝っているのは、ロシア正教会は今でも旧暦(ユリウス暦)を用いて信仰生活を送っているからなのである。正教会で新暦を用いているのは、フィンランドとエストニアの二つだけなのだそうだ(びっくり、ぽんや!)。

 旧暦を新暦(グレゴリオ暦)に直すには、20世紀、21世紀では13日足すとよい。1月7日になる。要するに、いまだに世俗の暦を使っていないというだけのこと。

 前述の著には何だかグッとくることが書いてあった。

 「正教の神学書を百冊読むよりも、正教の祭に百回参加することの方が、正教の理解には近道です。」

 ところで、「近くのニコライ堂」の回で、ロシア正教会の不思議な形をした十字架には何かの象徴性があるのだろう、以前調べたが忘れてしまった、と書いたが、こんな時こそ「ネットで検索」なのだと思い出した。調べるとすぐに見つかった。

 

それによると、この形の十字架は「八端十字架」( eight-pointed cross )というのだそうで、十字架の先端が八つあることからそう呼ばれているのだと。

 磔刑に処せられたイエス・キリスト(ロシア語ではイイスス・フリストス)の上にある短い横棒は、イエスの罪状が書かれた棒なのだそうで、新約聖書にちゃんと出てくるのだと。

 では、縦の棒に左上から右下に斜めに交差している棒は何なのかというと…待ってくださいね。

 イエスは二人の盗賊とともに磔刑に処せられたのだが、イエスから見て右側の盗賊はイエスを救い主(すなわちキリスト=フリストス)と認めたために天国に上り(つまり、こちらから見て左上)、イエスから見て左側の盗賊は彼を罵ったために地獄に落ちた(つまり、こちらから見て右下)ことを象徴しているのである。

 ちなみに、この斜めの棒は「足台」と呼ぶのだそうである。

<2016.01.09>

付録8<周囲の坂道>

 私の勤め先の大学は、駿河台という台地に建っている。

 そこから南へ緩やかな坂道を下ると、神田神保町という下町に出る。西側は崖になっていて、そこを下ると猿楽町になる。むかし観世能楽堂があったからだという。最近、神田猿楽町と改称した。

 要するに、周囲は坂道だらけで、しかも一つ一つの坂道に名前がついている。そのことは前から知っていたのだが、気にも留めなかった。

 今回、周りを散歩していて初めてのようにそのことに気がついた。それで、今日は錦華坂に目を留めたのである。

 この坂は、錦華公園という日本庭園と砂場、遊具を備え、そのうえ小さな野外舞台のようなものが付いた公園があって、その北西と南東に伸びる二つの坂道からなっている。

 この公園の名から錦華坂と名づけられたのか?

 そんなことはない。ネットで調べると、公園の南にある小学校を昔、錦華小学校といい、そこから付けられた名前だという。この小学校は、明治6(1873)年に、旧大名屋敷跡に創立された古い小学校で、漱石夏目金之助が1年余学んだことで知られる。それに因んで、「吾輩は猫である」「漱石、錦華に学ぶ」と彫られた石碑が建っている。

 この小学校、現在は、お茶の水小学校と改称されていて、錦華の元となったことが消えていて残念だ。平成になってから、少子化で児童数が少なくなったため、錦華小、小川小、西神田小の三校が合併して現校名となったのである。

 錦華公園はネットで検索すると、千代田区の有名公園なのだそうで、意外な気がしたが、これは私がふだん慣れすぎているからだろう。日ごろ狭い公園だと思っていたが、写真に撮ってみるとそうでもなかった。

 8月15日の敗戦(終戦)記念日や5月1日のメーデーには、デモ隊の仕上げの集会の場所となり、今年は「天皇陛下万歳!」を三唱していて、ドキッとしたのを覚えている。

 日ごろは、サークルの学生たちが身体訓練をしていたり、坂をダッシュしていたり、日本庭園をバックにモデルの撮影をしていたりする。それなりに多様に活用されているのだ。

 活用といえば、千代田区は路上喫煙禁止のさきがけで、条例に違反したのが見つかると過料2千円を徴収されることがある。そのためか、小さな野外舞台は昼間サラリーマンたちの格好の喫煙場になっている。

 そのほかの周囲の坂道を巡ってみるのも面白いかも、と思い始めた。

<2015.12.23>

付録7.<築地を歩く>

 劇場跡探しも、「ネットで検索」で嫌になってやめたことの一つ。でも、考えてみたら、跡地を訪ねて写真を撮って、それでおしまいにしないで付近をブラブラ歩いてみたらいいのに、と思い直した。

 きょうは新富座跡へ。

 ネットで検索するとすぐに出てくる。中央区新富2-6-1、京橋税務署の敷地内に区教育委員会の建てた説明板があるとまで。

 地下鉄有楽町線新富町駅で下りて、2番出口を地上に出ると、通りを隔てて目の前が京橋税務署だ。入り口の左にその説明板がある。

 新富座については、既に「二長町市村座」の回に書いたのでくり返さない。ただ、説明板に書いてあったこんな箇所に目が止まった。

 「劇場は近代的な様式を取り入れた大規模な建物で「東京第一の劇場」と称され、周囲には歌舞伎関係者が多く居住し、一帯は芝居町となっていました。」

 やはりそうだったんだ、芝居町が形成されていたんだ、と妙に納得した。

 それが、明治22(1889)年に歌舞伎座が開場すると、芝居興行の中心的存在の地位をうばわれて、徐々に寂れていったのだ。そして、関東大震災で焼失して、再建されなかった。

 さて、今日は築地界隈を散歩するつもりで来た。劇場跡探しは、もう単なる口実になっている。

 自分でも意外なことに、築地には足を運んだことがなかった。

 まず、築地明石町へ。明治維新後、来日した外国人たちの居留地になった町である。聖路加病院が建てられたので、昭和20(1945)年の東京大空襲でも、標的から外された一帯である。

 大学と病院とレジデンスの高層ビル群が見えてくる。聖路加コングロマリット(複合企業)などと呼んだら、怒られるかな?

 明石町河岸公園に出て、しばし墨田川の眺めを楽しむ。満潮らしく、流水が川上に向かって流れている。

 レジデンス1階のレストラン街へ行って、昼食を取ることにしたが、一緒に行った息子の希望の中華料理店はあいにくと休業だった。晴海通りに出ることにした。

 そういえば築地場外市場へ一度も行ったことがなかった。TVの番組でおなじみなので行ったことがあるように錯覚していた。行ってみると、外国人観光客であふれかえっていて、アメ横よりも無秩序な人ごみなのだった。早々に退散する。

 門跡通りを晴海通りにもどって、区の案内地図を眺めていると、なんと「築地小劇場跡の碑」が書きこまれていた。これもぜひ行ってみなければ。なにしろ、わたしの唯一の著書の表題が『新劇とロシア演劇―築地小劇場の異文化接触』なのだ。

 築地本願寺の向かい側、築地2丁目にその碑はあった。

 大正12(1923)年の関東大震災で焼失した新富座と交替するように、翌年6月に開場した築地小劇場は、その直前に小山内薫が講演で、向こう2年間は西洋の戯曲だけを上演する、日本の劇作家のものは(自分の戯曲を含めて)演出欲をそそられないと語ったように、わが国の演劇の西洋演劇への窓口となったのだった。

 散歩は東銀座の歌舞伎座まで歩いて終わりにした。

<2015.10.27>

付録6.<近くのニコライ堂>

 ひさしぶりでニコライ堂にもまた訪ねてみたい、と書いておきながら、一向に足を運ばなかったのは、ちょっとした勘違いをしていたからだ。いつごろからか、この教会の境内を囲む鉄柵に「無断での写真撮影を禁ず」という看板が出ていたのだ。

 写真が撮れないのではコラムにできないなあ、と思っていた。

 先日、新しい日大病院で受診して、薬局に処方薬を出してもらいに行ったとき、なぜかニコライ堂の通りを登っていったのだ。いつもは明大通りを行くのに。

 すると、掲示はよく見ると、「大聖堂、境内地を許可なく勝手に撮影し、商業目的に使用することを禁じます」だったのである。

 なあんだ、私用での写真撮影はおとがめなしだったのか。安心する、小心者だから。

 通称ニコライ堂は、正式名称は「東京復活大聖堂」といって、ロシア正教のこれまた正式には、日本ハリストス正教会の教会である。

 説明板が出ている。

 「昭和37(1962)年6月21日文部省指定重要文化財

  東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)

  この聖堂は明治17(1884)年3月に起工し、工期7年を以って同24(1891)年2月に完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチェールボフ博士、工事監督は英国人コンドル博士です。

 頂上までの高さ35m、建坪318坪、壁厚1~1.63m、日本最大のビザンチン式建造物として知られております。」

 ジョサイア・コンドルの設計だとばかり思っていたが、違っていた。

 9月27日の日曜日に訪ねてみた。日曜日はミサがあるので、12時から鐘が鳴り響いている。モスクワの教会の鐘の音と比べて、あまりいい音ではない。境内に入る。

 ロシア正教の十字架は、カトリックやプロテスタントのそれと違って、こんな不思議な形をしている。

 宗教的な象徴性があるのだろう。いちど調べたことがあったが、今はすっかり忘れている。

 ニコライ堂の全景はこんな感じである。モスクワでよく見かけるネギ坊主のようなドームはない。


 午後1時にミサが終わると、中からロシア人、日本人の信者たちが御堂からぞろぞろ出てくる。

 ロシア語がさかんに飛びかう。何を話しているのか分からないが、「カニェーシナ(もちろん)」だの、「パニャートナ(わかったよ)」だの、「ヤー・ザブイル(わすれた)」だの、聞き覚えのある言葉が耳に飛びこんでくる。

 10年前、在外研究で約1年モスクワに滞在していた時、よく耳にした言葉である。日本でロシア語を勉強して覚えた単語の意味と、まるで違った使われ方をしている言葉があって、どんなにびっくりさせられたかをふと思い出した。

 残念ながら、もうモスクワに行く機会はないのかなあ。

<2015.10.10>

付録5.<倉地家の墓>

笠森お仙から、倉地政之助の妻となったお仙は、当時としては長寿の79歳まで生きて、正見寺に夫とともに葬られた。その墓は「いつお詣りに行っても手入れのゆきとどいた美しい墓」なのだそうである。

 ぜひ、行ってみなければ。

 JR東中野駅の西口を下りて、右斜め前にある「東中野ギンザ通り」を入って終わりまで行くと、早稲田通りにでる。そこに正見寺があった。

 浄土真宗本願寺派のお寺で、大正3(1914)年に四谷からこの地に移ってきた。墓地への入り口に、お仙の墓があるという区教育委員会の説明板が建っている。

 かなり広い墓地で、倉地家の墓がどこにあるのか、手がかりがない。端から細い道を一本ずつ左右の墓に当たってみるしか方法がない。

 時折、小雨の降る蒸し暑い日で、おまけにやぶ蚊に悩まされる。途中で、古い墓は奥の方、庫裡の後ろの方だと気づく。中間地帯を省いて奥の方へ行って、左右の墓に刻まれた家名を確かめつつ探すと、ようやく倉地家の墓がみつかった。

 倉地家の墓は全部で四基あるのだが、お仙と政之助のいきさつが墓碑に刻まれているのは、この新しい墓である。


 供えられている花が枯れて茶色になっている。掃除はいきとどいているが、美しい墓かどうか、私にはそう感じられないのだが。

 この墓の右側に古びて黒くなった墓が二基あって、たぶんこれが元々の政之助とお仙の墓だろうと思われる。手を合わせてお参りする。

 ここ上高田1丁目の早稲田通りの北側には、多くの寺が並んでいる。なぜか浄土真宗か禅宗のお寺ばかり。さる寺だとか獅子寺の通称で呼ばれている寺もある。

 なかに浄土真宗の高徳寺という、新井白石(1657-1725)の墓があるお寺がある。立派な寺で裏にかなり広い墓地がある。明治42(1909)年に浅草から移転してきたのだそうだ。

 新井白石記念ホールという葬祭場を備えていて、都会の寺にしては珍しい。ご住職の名前が新井道雄なのは、単なる偶然か、それとも白石の子孫なのか。

 天気が悪くて、そのうえ蒸し暑いので、中野駅まで歩くつもりだったが変更して、バスに乗って中野駅に出た。

 中野に来たのは久しぶりだから、中華料理のお昼を食べてから、ブロードウェーをひやかして歩くことにした。

 アニメやコスプレや漫画などクール・ジャパンの聖地になっているのだが、あちこちに古い食べ物屋があって(すし屋やラーメン屋)、このミスマッチがたまらない魅力である。外国人客もたくさん訪ねてきていた。

<09.25>

付録4.<もいちど谷中霊園へ>

 由緒を読んでこなかった「川上音二郎君之碑」、なんだか妙に気になるので、もいちど谷中霊園へ出かけてみることにした。

 谷中霊園へ行くには上野駅で下りて上野公園を抜けるより、日暮里駅南口で下りて行くほうがはるかに近いことに前回気づいた。今度もそうすることにした。天王寺の前からメインストリートをまっすぐ行く。今日はなぜか墓参りの人が多い。霊園入り口の管理事務所の少し手前に例の碑がある。

 確かめると、「碑」ではなく「像」であった。「川上音二郎君之像」なのである。ところが、像はないのだ。

 裏に回って刻字を読む。

 大正3(1914)年、高輪泉岳寺より之を移す。

 建設者 新派俳優惣代

 藤澤浅二郎 高田實 伊井蓉峰

 松竹合名会社

 白井松次郎 大谷竹次郎

 同撰 

 子爵 金子堅太郎 子爵 栗野慎一郎

 東京府知事 松村光麿 撰

 荷葉山岸惣次郎 書


 像の前に説明板が立っていて、そこには像があったころの写真が出ている。立派な銅像だったようである。

 そして、こう説明がなされている。「銅像は戦時中の金属供出で取り外され、台座のみのこる。」

 情けない国だったんだねえ、戦時中の日本は。明治演劇の立役者の像を溶かして、薬きょうでも作ったんだろうか。

 さて、なぜ高輪の泉岳寺から移されてきたのだろう。そのことについては書かれていない。泉岳寺に音二郎の墓はなかったはずだ。

 音二郎は明治44(1911)年11月、大阪の帝国座の舞台で亡くなっている。出演中に死んだのではなく、貞奴がせめて最後は舞台でと思って、運ばせたのである。

 大阪の帝国座は東京の川上座と並んで、音二郎が自ら建設した劇場で、川上座は借金のため人手に渡ったが、帝国座は開場したばかりであった。

 彼は土葬を望んでいたが、ほとんどの寺が火葬を要求したため、葬る寺が見つからなかった。棺は汽車で音二郎の郷里博多に送られ、承天寺(じょうてんじ)に土葬された。

 彼の死後、悲嘆にくれた貞奴は髪を下ろして尼になって、余生を送る決心をしたという。だが、音二郎は自分の仕事を受け継ぐようにと貞奴に伝えていたのである。

 貞奴は髪を短くしただけで、演劇界へ戻っていった。

<2015.09.11>

付録3.<説教節を聴きにいく>

 この6月、若い時からの知り合いで、「デラシネ通信」というサイトを運営している大島幹雄さんから、各種イヴェント情報を知らせるメルマガが届いた。

 彼は最近、『サーカス学誕生』(せりか書房)という著書を出したように、サーカス研究家であり、かつサーカスの招聘を仕事にしている面白いひとである。

 そのメルマガに、説教節美音の会の情報が掲載されていた。なんと、説教節の合間に説教節政太夫さんと塩見先生の対談がはさまれるのだという。これは行って聴いてこなければ。

 塩見先生には、文春新書の「貧民シリーズ」の一冊として、『中世の貧民』がある。これ一冊がまるまる、説教節「小栗判官・照手姫」の世界を扱ったものだ。実際に、説教節の世界を自分の足で歩いて、調べて書かれているのである。

 6月6日の土曜日、JR中野駅で下りて、ブロードウェイを突き当たりまで歩いていったところにある、なかの芸能小劇場。もう古くなったが、100席ほどの落ち着いた小劇場である。

 ロビーに塩見先生の姿が見えたので挨拶してから、場内に入る。いまどき珍しく緞帳が下りている。

 前座は政竹という女性のお弟子さんが語る、「信太妻(しのだづま)」からの一節。三味線ではなく二胡を演奏しながら語る珍しいスタイル。といっても、説教節を聴くのは初めてだから、当てにならない。三味線を弾きながら語るものと思いこんでいただけ。

 政太夫さんの説教節は「信太妻」からの一節と「小栗判官」からの一節の二曲。その合間に塩見先生との対談が入る。

 いやぁ、政太夫さんの語りの上手さ、それよりも圧倒的な三味線の上手さ。左手で調弦しながら、右手の指でポロロンと弾く音色の見事さ。聞き惚れました。

 私は、「信太妻」からの一節の方に感銘を受けた。

 これは、平安時代の異類婚の話。和泉の信太山の森に住んでいた白狐が葛の葉(くずのは)という美女に化けて京の陰陽師安倍保名(あべのやすな)と契り、一子安倍晴明をもうけたが、その正体を知られて、

 「恋しくばたづね来てみよいづみなる信太の森のうらみ葛の葉」

の一首を残して古巣へ帰ったという伝説。

 浄瑠璃や歌舞伎に多く取り上げられて作品になっている。歌舞伎舞踊に「保名」という曲もある。

 そもそも、仏教系の説教浄瑠璃というのが正しい言い方で、説教節というのは義太夫節と同じように、それを語る曲節のことだ。有名な作品は五説教といって、ふつう「かるかや」、「三荘太夫」、「しんとく丸」、「梵天国」、「小栗判官」をいうが、「愛護の若」、「信太妻」、「梅若」と入れ替わることもあるという。

 さて、塩見先生と政太夫さんの対談だが、先生はのっけから「昨夜いやなことがあって明け方まで飲んでいたので頭がまだボーっとしていて」などという言葉から始まる。内容は『中世の貧民』を書いていたころの話しが主なものだったので省略します。

 会が終わって出口に向かうと、大島さんも聴きに来ていた。久しぶりに、塩見先生を「師匠」と慕うWさんと出会い、これから打ち上げに行くのですが、一緒に来ませんかと誘われる。もちろん、行きますとも。

 飲み会では、遅れてきた政太夫さんの隣りになる。説教節で弾いている三味線は太棹ですかとたずねると、「いいえ、中棹です。清元、常磐津と同じです」とのこと。も一つ勉強しました。

<2015.09.05>

付録2.<人ごみの中へ>

 何度も訪ねてみたのに、一度もコラムに採り上げなかったところに、神田神社(明神)がある。

 あまりにも有名だから?そうではなくて、私の嫌いな「人ごみ」と関係があるのだ。嫌いなくせに、何を思ったか、人ごみの中に自ら入っていってしまうことがあるのである。 

 今年は、今の外神田の地に遷座して400年。古くは神田御門内の芝崎村というところにあって、旧名を神田大明神社といったのだそうだ。現在地に移ったのは元和2(1616)年。神田神社と改称したのは、明治5(1872)年である。

 平将門を祭神とした神社だと普通は思われているが、祭神は三柱あって、1.大己貴命(おおなむちのみこと)、2.少名彦命(すくなひこなのみこと)、そして、3.平将門である。平将門は一時期、祭神から外されていた期間がある。朝廷に楯突いた謀反人であったからね。

今年は、江戸の二大祭りの一つ山王祭と交代での本祭りの年、「神田祭」というムックまで出版されて大いに盛り上がっていたのである。何を思ったのか私、行ってみようと思ったのだ。

5月中旬の日曜日。JR御茶ノ水駅の聖橋口を出ると、すでに交通規制が行われており、神田神社へ向かう人、人、人の列。何とか神社の入り口までたどり着いたが、境内なんかへ入れるような状態ではない。写真を撮っても、人垣の向こうにお神輿の上部が見えるだけ。

あきらめて駅に引き返し、神保町へと向かった。昼食を取った中華料理屋で、人ごみの中へわざわざ入っていった自分がしゃくに触って、撮ったデジカメ写真を全部消去してしまう始末。

「来るんじゃなかった。」

写真は、3年前の節分の日に撮った、神田神社の写真。この人ごみ、すごいでしょ。

 実は、神田神社をめざして歩いてきたのではなく、いつものように御徒町で買物をして、上野で昼食を取り、さて今日はどこへ歩いてみようかなと思って地図を開いたところ、「新妻恋坂」という地名が目についたのだった。そこが神田神社の裏(北)側にあたるというところまでは、見ていなかった。

これを私は「にいづまこいざか」と読んでしまったのだ。実際には、すぐ北に「妻恋神社」というのがあって、そこに新たに造られた坂道だったのである。何の変哲もない坂道だった。

神田神社をごぞんじの方はわかるでしょうが、鳥居のある入り口の方は本郷台の方で、裏(北)側の方は崖=切通しになっている。そこへ歩いてきたので、石段を登って境内へ入ってきたら、「節分の日」だったというわけだ。

境内には、それまでなかった昔風の家が建てられ(たぶん移築され)、甘味処になっていた。

 神田神社もずいぶん変ったな、と思って鳥居の方へ歩いていったら、さっきの写真のような、人ごみだったのである。

神田神社の境内には、いろいろな石碑が建っていて、それらを見て歩くだけでも結構楽しいのだが、その日は当然お預けになった。

<2015.08.28>


付録1.<ネットで検索>

 昨年の新入生の中に、このコラムを読んでいるという奇特な男子学生がいた。

 ある日、授業終了後に彼は私に近づいてきて、「江戸の亡霊地」を読んでいますと言って、「それにしても圧倒的な知識量ですね!」と感想を話してくれたのだった。

 「読んでくれて、ありがとう」と礼を言いながら、私は「ちょっと違うんだけどなあ」と心の中でひとりごちた。

 知識なんか調べればすぐに手に入れられる。まして「ネットで検索」の世の中だ。他人の知識がすぐにいただける。

 以前、やはりコラムを読んでくれていた従兄弟が、「ずいぶん色んなところへ出かけているんだね」と言ってくれたことがあった。こちらの方が数倍うれしかった。

 そう、実際に散歩に出かけてみるところが私のコラムの良いところだと、自分でも思っている。出かけてみると、色んなことに気づかされるのだ。

 コラムをひとまず終了することにしたのは、目標を達成したということよりもネットで検索の方が大きな理由だった。わざわざ出かけてみなくても、さまざまな知識が、それも写真付きで得られるのだ。

 それで、出かけてみる気がしなくなるのだった。知識が得られただけで、一瞬満足してしまうのである。

 <笠森お仙>のときもそうだった。ネットで検索していると、「東京むかし散歩」というブログが見つかったのである。興味のある方はぜひのぞいてみてください。お仙について、諸説実にくわしく調べて書かれているのだ。

 一瞬、この話題はもう止めにしようかと思ったが、天王寺に出かけてみてからにしようと思い直した。

 出かけてみたら、思いがけない収穫があったのだ。それは谷中霊園の成り立ちだった。都立の霊園の成り立ちなんて考えてみたこともなかった。

それに、こんなものがどうしてここにあるのかというものが見つかった。「川上音二郎君の碑」である。

 写真を撮っただけで、碑の裏側にたぶんあったであろう由緒を読んでこなかったのが、われながら残念だ。そのうちもう一度出かけよう。

 川上音二郎でまた思い出したのが、妻で日本初の女優と呼ばれた貞奴で、以前『成田不動霊験記』を紹介したときは触れなかったが、この本の中に彼女のことが出てきたのだ。それによると、彼女は熱心な成田山信者で、後に愛知県各務原市に大寺院を建立し、成田山の不動明王を勧請し、貞照寺と名づけたのだそうだ。機会があったら、この寺にも一度訪れてみたいものである。

<2015.08.08>