江戸亡霊地                            武田清

連載コラム「江戸の亡霊地」 付録篇

付録28.<周囲の坂道3>

 最近、日曜日の神保町界隈は平日と様相を異にする。街歩きマップを手に、あちこちキョロキョロしながら歩くグループがいたり、何とかグルメに載っている飲食店を探している人たちがいたり、外国人観光客も多いがガイドブックに載っているからだろう。世界一の古書店街も、残念ながら日曜日はほとんどが休業なのだ。

 街の様相を写真に撮っておけばよかったなあ。

 今日は、坂道だらけの周囲を神保町、小川町、淡路町へと散歩しながら、例の何というのだろう、坂道名を記した「柱」を探して歩いてみる。

 まず、明大通りと靖国通りを斜めに結ぶ「富士見坂」が見つかる。

 柱の横に短い説明が付いていて、ここから富士山が見えたからこの名が付いたと、そして千代田区には同名の坂が三つあると記されている。この坂はそのうちの一つで、他は永田町とその名も富士見にある。

 しかし、ここから本当に富士山が見えたのだろうか。写真の奥は靖国通りで、その先には靖国神社があるが、それが邪魔になってよくは見えなかったのではないか。明大通りを横断して、明大の校友会館「紫紺館」の前に出る。そこに駿河台道灌通りの標識がある。何の説明もなくて、太田道灌と何の関係があるのか分からない。

 元は中央大学があった、今は三井住友海上ビルになっている(入口は裏側)ところと、日大歯学部の間の坂を上っていく。途中に「池田坂」の柱がある。

  池田権太郎邸があったのでこの名が付いたそうだが、別名「唐犬坂」ともいうとある。なぜ唐犬なのか分からない。中国から連れて来られた犬でも飼われていたのか。『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著、ちくま学芸文庫)を参照する。載ってはいるが、残念ながら何の説明もない。

この坂を上りきるとニコライ堂に出る。ここで前回の雁木坂と合流する。右に折れると、御堂の前が坂になっていて「紅梅坂」(または「幽霊坂」とも言った)と柱にある。

 駿河台から淡路町へと下る坂である。ここらは以前、紅梅町という町名であったらしい。途中のビルのガラス面にニコライ堂のクーポル(丸屋根)が映っている。珍しいので写真に撮る。

 もう坂はないので、太田姫稲荷神社に出て、神保町へ戻る。散歩はもうおしまい。本屋さんに寄る前に昼食を取らなくては。ここいらは飲食店には困らないが、さてどこにするか。台湾風の味付けで結構うまくて安い「王記厨房」へ行ってみたら珍しく休みで、それでは息子の好きな「餃子屋」へ行ってみると満員で、じゃあ学生たちとよく行く「台北風情」へ行こう。息子は麻婆麵セット、私は五目湯麺を食す。もちろんビールも頼んで。

 食後、書泉グランデに寄って佐藤愛子の『それでもこの世は悪くなかった』(文春新書)を買い求める。こういう本も読むのです。結構、面白かったですよ。

 私は実は新書中毒で、紙の新書だけでなく、iPadにも三省堂のBookLiveにも新書をダウンロードして、通勤の電車の中で読みふけっているのです。

<2017.02.19>

付録27<横十間川を最後まで>

   昨夏、余りの暑さに途中で断念した散歩のつづきを冬にやってみることに。

 都営新宿線の住吉駅で降りて、江東区の公共ホール「ティアラこうとう」の前から、横十間川の遊歩道へ下りる。すっかり冬枯れの風景だ。

 まず小名木川との合流地点まで歩いていく。左側に都立科学技術高校が見えてくる。そんな高校が東京都にあったんだねえ。「スーパー・サイエンス・ハイスクール指定校」という看板がかかっている。

 穏やかだが寒波が押し寄せてきて、今回はかなりの寒さだ。20分ほど歩くと、小名木川との合流地点に出る。運河だから、隅田川方面に真っ直ぐだ。

 小名木川は徳川家康が命じて掘削させた運河で、下総の行徳の塩田でとれた塩や農産物を江戸の町へ運ぶためだったと言われるが、なあに一旦急があれば、船に乗せて侍を運んだに決まっている。

 横十間川はここで終わりかと思っていたら、そうではなく、水門で閉じられているが、その先は横十間川親水公園になって続いているのだった。水上アスレティック広場になっていて、子供たちが遊んでいる。

 さらに川に沿って歩いていくと、「和船友の会」の幟が見えてきた。今日は日曜日なので、希望者に和船の漕ぎ方を教える講習会をやっているのだ。

 何そうもの和船が行き交っている。川の両側のところどころに、なぜか河童の像が杭の上に建てられている。

 こうやって歩いているうちに、何か変だぞと思い始める。それは、川の水面の高さと、歩いている遊歩道の高さがほとんど同じなのだ。ああ、そうか。ここは江東区だ。いわゆるゼロ・メートル地帯なのである。

 やがて、親水公園は仙台堀川とぶつかる。ここも親水公園になっている。ここで横十間川は終わりとなる。こうして歩いてみて、江戸の昔、下町は本当に運河が縦横に巡らされた舟運地帯だったのだ、と納得させられる。歩くより、船で行った方が早くて、何より楽だったのだ。

 仙台堀川に沿って一区画歩いて、東陽町に出て、今日の散歩は終わりにする。地下鉄東西線の東陽町駅へ歩いていく途中に、江東区役所があって、そこにこの一帯が江東ゼロ・メートル地帯であることが図示されていて、注意が喚起されている。その図と説明によると、小名木川と隅田川の水位は水門によって調節されて地面よりかろうじて上になっているが、東側の荒川の水位の方がはるかに上になっているのである。

 駅前に出て、さて昼食をと思ったが、大黒屋という今風のラーメン屋しかないので、仕方なく入る。今風のというのは、白濁したスープのしかもぬるいやつの中に、これでもかとチャーシューやメンマや、つまり具が載っているラーメンで、しかも結構高いのだ。しかたない、一緒に散歩に付き合ってくれた息子のリクウェストだもの。

 食事をしながら考えていたのは、隅田川のことだった。いくら水門で水量を調節しているといっても、幾本かの川が合流する河口の圧倒的な水量、それから両側の「カミソリ堤防」と呼ばれる薄いコンクリートの堤防を思うと、大地震が起こって、津波が万一押し寄せたら、下町のゼロ・メートル地帯はどうなるだろうか、そんなことだった。逃げるに相応しい高台なんかこの辺りにはないのだから。

 今日は前回と反対で、とても寒い日なので、もうとっとと地下鉄に乗って帰るとしよう。

<2017.1.30>

 

付録26.<白山神社へ行ってみた>

 塩見鮮一郎編・解説による『決定版資料・浅草弾左衛門』が再刊された(河出書房新社)。資料集だから読みにくいだろうと思って敬遠していたのだが、私が馬鹿だった。解説がすばらしく、かつ塩見先生が現代語訳してくださっていて、実に読みやすいのだった。

 この中に、今の今戸神社が昭和7(1932)年に、今戸八幡神宮と新町の白山神社とが合祀されて出来上がる経緯について触れてある。

 「だが、その過程が順調に進んだわけではない。一度は部落側と非部落側とが合意したが、「エタの神様と八幡様が一緒になってたまるか」という差別的な発言が出され、工事は妨害された。東京水平社が糾弾闘争に立ちあがり、昭和12(1937)年になって、やっと結着を見た。とはいえ、今日の今戸八幡神社に掲示されている社伝には、白山神社と合祀されたという説明すらない。」

 白山神社と被差別部落との関係が云々されるのは、白山神社のある部落が多いためであるとあるが、かつての新町跡には白山神社は、今はない。

 ところが、文京区には白山という地名の所があり、白山神社があると地図に出ているではないか。行っても無駄かもしれないが、一度訪ねてみることにした。

 地下鉄三田線の白山駅で下りて、A3出口を地上に出るとすぐ右に白山神社はある。神社の周囲が白山公園になっている。鳥居はかくも大きいが、思ったよりこぶりな神社である。

 立派な碑のような由緒書きを苦労して(何しろ漢文なので)読むが、イザナギとイザナミの命しか分からない。もちろん、被差別民との関係なんか一言も出てこない。

 がっかりしたが、気を取り直す。一度の、しかも一か所の白山神社訪問で何もかもが分かると期待する方がおかしい。参考文献は買ってある(読んでいないだけ)。『白山信仰の謎と被差別部落』(前田速夫著、河出書房新社)。いずれ読んで、何がしか分かったら、また付録コラムを書こう。

 それにしても、この後どうするか。そうだ、地図に出ていた「八百屋お七の墓」があるお寺が、通りを挟んだ向こう側にあるのだった。行ってみよう。何しろ、天和3(1682)年放火で大火事を起こした罪で、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた女性である。埋葬は許されなかったはずで、墓はずいぶん後で、建てられたものだろう。

 浄土宗の円乗寺、細長い奥まった境内のお寺だ。

 こぶりな本堂の左側に、お七の墓があった。

 八百屋お七は、本郷駒込の八百屋の娘で、天和2年の12月、江戸の大火で円乗寺に避難の際、寺小姓山田佐兵衛と情を通じ、再会を願うあまりに放火し、火刑に処された、とある。

 井原西鶴の『好色五人女』に描かれて以来、多くの歌舞伎、浄瑠璃に脚色されて、名前だけは有名だ。処刑された時、わずか15歳である。

 墓にじっと手向けをして、今日は辞することにした。

 <2016.12.27>

付録コラム25<上野パチンコ村>

 先月、毎日新聞1面下の出版広告の中に、『上野アンダーグラウンド』(本橋信宏著、駒草出版)という本を見つけた。早速取り寄せて、読んで、驚いた。

 上野界隈については、他の人よりは何ほどか分かっているつもりでいたが、とんでもなかった。「裏上野」とも呼ぶべきアンダーワールドがあったのだった。

 この本は、著者と友人の編集者、そして某編集長の三人が単独で、あるいは一緒に潜入取材を敢行してまとめたものだが、それだけでなくその地区の歴史を知る人にインタビューしたり、業界誌の編集者に案内を頼んだり、社会学者を取材したりしているのである。

 裏上野で興味を引いたのは「ホモサウナ」と「パチンコ村」である。

 ホモサウナとは、ホモ男性用のパートナー探し兼個室で実行を目的としたサウナで、何と私(たち)がいつも昼食を取る中華料理屋の近くにあるのだった。

 さて、今回の散歩は上野駅前の丸井の左側の道を入って始めた。すぐにいつもは気づかなかったサウナの看板を見つける。そこには「上野サウナ店男性用」と確かに書いてあった。男性用とは、上記のような方々ばかりが利用するという意味だったのである。

 潜入取材したレポートが上記の本には載っていて、まあ、あまりの有様でこのコラムには書き写せない。関心のある方は、本に直にあたって読んで下さい。

 昼食を終えてから(日替わりメニューのマーボー麵がとても美味かったなあ)、昭和通りを渡る。すぐにコリアンタウン(通称キムチ横丁)が見えてくる。

 韓国焼肉店が軒を連ねるから「キムチ横丁」なのではなく、戦後この地区に住み着いた在日韓国人の家庭が、東京都や近県の在日の人たち相手に売るキムチを漬け始めたから、そう呼ばれるようになったのだという。焼肉店を開いたのはその後のことなのである。

 TV番組に出てくる隠れた名店は、裏の狭い路地を入ったところにひしめいている。

 以前はチマチョゴリを仕立てる(もちろん、既製服もある)店があったのだが、残念ながら別の業態の店に転業していた。

 キムチ横丁から、さらに奥に入って行くと、突然派手な、アニメや漫画の主人公を飾った外観のビルが出現する。

 この通りが通称パチンコ村である。何度も通ったはずだが気がつかなかった。パチンコ村とはパチンコ店が軒を連ねるという意味ではなく、パチンコ台やスロット台を製造販売する業者や代理店が軒を連ねているから、そう呼ばれているのである。

 辺りを見回すと同じような外観のビルがそこかしこに見える。

 わが国のパチンコ・スロット業界は、以前ほどではなくなったとはいえ、依存症の人たちを生み出し続けている。一番もうかっているのが遊技台の製造業者なのだという。台の寿命はごく短いのだそうで、もって一年だという。飽きられないように頻繁に新台と入れ替えなければならないのである。そのため、パチンコ店は想像されるほどぼろ儲けしているわけではないのだという。

 電子化された基盤を取り入れているので、以前は数万円だった価格が今では40万円するのだという。そのため、中小のパチンコ店が製造業者と直接取引することはできず、間に代理店をはさんで新台の入れ替えをしているのである。

 今では、1万円が3分で消えるようになっているのだが、出玉の良い台に当たった時の儲けも大きく、それがために依存症者が少なくならないのである。

 しかし、今日は日曜日。辺りは人影もまばらで閑散としている。

 私たちはこの後、浅草通りに出て、田原町から六区に入り、ひさご通りを抜けて、千束小学校まで散歩したのだが、何のためかはまた後日に。

<2016.10.16>

付録24.<大妖怪展>

 いつでも行けると思って、一日延ばしにしていたら、最終日まで一週間を切っていた「大妖怪展」。急いで行かなければ。

 実は8月14日の日曜日に行ってみたら、入口に「大変混雑しています」の掲示が。その日は止めにして、昼食をとってからシアターXに女優志賀澤子の一人芝居『ローズ』を観に行ったのだった。この舞台は観るのが二度目だ。80歳のユダヤ人女性ローズの人生を振り返る語りの一人芝居。初めて観た時と内容が変わっていて驚いた。終演後のアフタートークまで付き合う。

 24日の水曜日、早めに両国江戸東京博物館へ向かう。平日なのに、それでも結構な混みよう。ついに「立ち止まらないで、動きながら観て下さい」の声が係員からかかる。日本のミュージアムは嫌だねえ。入場制限すればいいことなのに。        

 前日の東京新聞夕刊にこの展覧会についての論説が載っていて、「土偶から妖怪ウオッチまで」というコピーは、考古学者が聞いたら怒るのではないかと書いてあった。

 展示内容は、浮世絵や幽霊画や絵巻に描かれた怪異現象をすべて「妖怪」のキーワードで捉えたもので、作品数は豊富ではあるものの、ちょっと無理がききすぎているのではないかと思われるものだった。

 なぜかというと、日本人は「妖怪」をどちらかというとユーモラスなものに捉えてきたし、いまも捉えているからだ。

 それで思い出したのは、十年ほど前、ドイツからの女子交換留学生がやって来て、大学院の授業に出席していたことがあった。彼女は日本の妖怪にとても興味を持っていて、ある日こう尋ねてきたのだ。「お化けと妖怪と幽霊はどういうふうに違いますか?」ちょっと呆気に取られてしまった。

 とっさに思いついたのは、集合図を使った説明だった。「お化けという大きな集合があって、その中に幽霊と妖怪という小さな集合が入っていて、この二つの集合は交わりません。」

 われながら「うまい説明だな」と思って、『妖怪大戦争』という映画があるから、借りて観てごらん、などと余計なことまで付け足してしまった。

 後で、日本国語大辞典で調べてみたところ、何と同語反復の見本みたいな説明だったのである。「お化け=ばけもの、妖怪、変化、また幽霊」「妖怪=人の知恵では理解できない不思議な現象や化け物。変化、妖鬼」「幽霊=死者の霊魂、亡魂。死者が成仏できずに、この世に現す姿。妖怪、お化け」。

う~む、幽霊について、「妖怪の類と異なる点は、生前の姿を示し、特定の人の前に現れること」という説明が付記されているのが、まだしも慰めか。

そういえば、「ゲゲゲの鬼太郎」も主題歌の中で、「お化けは死なない、試験も何にもない」と歌っているね。鬼太郎は一体何なのだろう。

当時、エドはるみの一発芸「グーググーグー」が流行していて、彼女はこれがとても好きなのだという。それで、ドイツ文学の先生になぜかもらっていた、ボタンを押すと「グーググーグー」の声が飛び出してくる玩具をあげたら、感激して喜んでくれたのを思い出した。変なドイツ人もいたものだ。

ちなみに、エドはるみは本名江戸はるみといって、私の勤める大学の演劇学専攻の卒業生である。つまり、私の後輩であるということになる。

展覧会にもどる。最後のコーナーが「土偶と妖怪ウオッチ」で、本物の土偶3体を初めて見て、その不思議さとユーモラスさに驚いた。妖怪ウオッチなるものが何であるかも初めて知った。

いろいろ文句をつけながら、結構楽しんできたのです。

<2016.10.08>

付録23.<錦糸町に行ってみた>

 江戸時代、隅田川の東側は「川向う」といって江戸ではなかった。が、人々が住み着き、両国、本所、深川、向島がやがて江戸に組み入れられた。

 この辺りは何度も散歩したことがあるのだが、そのもっと先、東の方へは行ったことが余りなかった。ずっと昔に亀戸や小岩や柴又に一度ずつ行ったことがあるだけだ。

 錦糸町には一度も訪ねたことがなかった。この6月芝居を観に初めて行った。墨田パークスタジオという、もうスカイツリーのすぐ近くにある劇場で、演劇集団円の『透明な血』という芝居を観に行ったのだった。錦糸町の北側である。

 帰り、大横川親水公園を歩きながら、そういえば錦糸町に来たのは初めてだったと気づいたのだ。今度は南側へ行ってみようと思った。

 錦糸町は、地図で見ると大横川と横十間川という二つの運河に挟まれたところにある。この二つの運河は南へ流れて、小名木川というこれまた運河に合流して、そして最後に隅田川に合流する。

 その辺りを散歩してみよう。

 東京都知事選があった日、投票を済ませてから出発した。JR錦糸町駅で下りて南口を出る。江東橋4丁目に錦糸堀公園がある、はずだが、初めてなのでようやく見つける。岸堀がなまって錦糸堀になって、これが錦糸町という地名の由来だという。

 ごく狭い、こんな公園。

 この中に、本所七不思議の一つ、「おいてけ堀」の碑があるはずだ。あった。何と河童の像だ。

 余計な話だが、錦糸町の南口江東橋4丁目にはロシア料理店が二軒もあり、かつロシア・東欧美人パブが軒を連ねる。そんな店がそこかしこに見つかる。だが、きれいなロシア人のお姉さんには出会わなかった。昼間だものねえ。

 公園のそばにある錦華苑という中華料理店に入って昼食をとる。期待していなかったのだが、意外とおいしかった。餃子が1個33円で、お好みの個数で焼いてくれる。

 昼食後、都立墨東病院の前を通って、横十間川に掛かる旅所橋を渡る。向こう岸に遊歩道が設けられているのだ。南北に流れる運河の横十間とは、つまり川幅が十間(約20メートル)だということだった。

 小さな子供連れで釣りをしているお父さんがいる。「釣れますか?」「釣れますよ」「何が釣れるんですか?」「ハゼです、ほら」バケツの中の十数匹のハゼから一番大きなやつを見せてくれる。

 更に歩いていると、今日の暑さに顔から汗が流れ落ちてくる。小名木川まで歩くつもりだったが、住吉で終わりにすることにする。

 もう江東区に入っている。猿江恩賜公園に入って一休み。ここにも親水公園があって、子供たちが親たちに見守られながら水遊びをしている。

 この公園にも、ポケモンGOを楽しむ人たちがわんさか集まってきていた。

 住吉駅からは都営新宿線で一本でうちまで帰れるのである。

<2016.08.12>

付録22.<周囲の坂道2>

 これは通称マロニエ通り。

 マロニエとはフランス語で、日本では栃の木と呼んでいる。栗の実に似た実がなる。苦いけれど、粉にして水にさらしてあく抜きすれば食べられるという。

 このマロニエ通り一帯は、1969年の日米安保条約改定反対闘争と大学紛争のとき、御茶ノ水カルティエ・ラタン(ラテン区)と呼ばれ、学生活動家たちの拠点となったところの始まりだ。大学の施設、設備を破壊しつくした。竣工したばかりの学生会館は彼らのアジトになり、使用不能になった。研究室の貴重な書籍を勝手に持ち出して、古書店に売り払ったという。

 後で、古書店で見つけた教授から聞いた話だ。売るほうも売るほうなら、買う古書店も古書店だと思う。ちゃんと収蔵印が押してあるのだから。

 でも今はそんなことを思い出させるものは何一つ残っていない。良いことなのかどうか。かつては左翼学生が作った立看板が林立していたのだ。良いことなのだろうな。

 この通りは緩やかな坂道になっているが、その入り口に「雁木坂」という小さな碑がひっそりと建っている。

 雁木といえば、北国生まれの私が思い出すのは豪雪地帯特有の設備である。降雪で道路が埋まり、通行不能になっても困らないように、両側の家のひさしを長く突き出して道をおおい、積雪期でもその下を通行できるようにしたものだ。

 だが、ここは東京、そんなものがあったわけがない。

 雁木には他にも意味があって、一つは船着場の桟橋の階段、もう一つは急坂に設けられた木の棒や板切れを埋めこんで作った階段をいう。

 後者の階段がこの坂に設けられていたのだという。いま眺めても雁木が必要だったとは思われないような緩やかな坂道なのだが。江戸時代には、丘を削ってその土を埋め立てに用いたそうだから、元は急坂だったのが削られて今のような緩やかな坂になったとも考えられる。

 この坂道は東に下ってきて明大通りと交差して終わるのではなく、そこを通り越して今度は上り坂になっていく。そこも雁木坂なのである。

 日大歯学部病院の前に、「雁木坂」と記した、何と呼ぶのか柱が建っている。

 その奥に、今では高層ビルに囲まれたニコライ堂がひっそりと見える。

 

 海抜38メートルで、駿河台で一番高いところだった。筑波山が見えたという。信じられない話である。

 江戸・東京の山の手は坂道だらけである。今度は周囲の坂道だけでなく、本郷辺りにも散歩してみよう。われながら良いプランを思いついたものだ。

<2016.08.05>

付録21.<松が谷辺りをブラブラ>

 

 またしても御徒町で買物をし、上野で昼食をとって、今日は浅草通りを北にブラブラと歩いてみることにする。

 何度も言うようで恐縮だが、浅草は広い。浅草通りから北へ北へと一本ずつわき道へ入っていく。

 歩いていると住居表示が北上野になる。公園があって中に「旧町名山伏町」の説明板が建っている。

 古くは牛込山伏町の代地として、明治5(1872)年に付近の武家地、門前町、寺地を併せて下谷山伏町と呼んだという。かつてはとなりの山崎町と同じスラム街であったというが、今は静かな住宅街になっている。

 やがて賑やかな太鼓の音が聞こえてくる。音のするほうへ行ってみると、かっぱ通り(合羽橋商店街)でお祭をやっているのだった。七夕祭なのだろう、七夕飾りがたくさん吊り下げられている。

 

 商店街の両側に露店が出て(テキヤではなく地元の人たちの)、狭い通りは人であふれ、ところどころで沖縄のエイサー踊り(さっきの太鼓の音はこれだった)やバンドが演奏していてうきうきしてくる。

 左衛門橋通りとの交差点を右に入ると、何やら大きな寺の山門がある。

 浄土宗源空寺で、門前に説明板が建っている。それによると、この寺の墓地に伊能忠敬と幡随院長兵衛の墓があるという。伊能忠敬は江戸の地理学者で、幕府の命により日本全国を実地測量し、日本初の地図を作成したことで知られる。上総の国、佐原の人のはずで、なぜこの寺にも墓があるのかというと、彼が測量学を学んだ高橋至時(よしとき)の墓もこの寺にあることによるのだろう。

 それよりも幡髄院長兵衛とは、歌舞伎の世界の登場人物で架空の人だとばかり思っていた。実在の人だったとは驚きだ。

 説明板にはこう解説してある。

 江戸初期の町奴。本名は塚本伊太郎。肥前唐津の士族で、幡髄院の住職向導に私淑し(一説には、その実弟または幡髄院の門守の子ともいう)、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたと言われる。

 当時、町奴と呼ばれる任侠の徒が横行し、また大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭領となり、旗本奴の頭領水野十郎左衛門と張り合ったという。この辺は多くの伝説と潤色で後世の人々にもてはやされているため、つまびらかにはできない。

 慶安3(1650)年の4月13日に水野のだまし討ちにあって没した。享年36。

 幡髄院とは新知恩寺というお寺で、東上野5丁目にあったのだというが、昭和13(1938)年焼失して、現在は小金井市前原町に移転している。

 さて、その墓参りをしようと思うのだが墓地入り口が見つからない。諦めかけたところ、通り一本隔てたところに大きな墓地があり、そこに「源空寺墓地」の看板が見つかった。なるほど寺と墓地が分かれているのね。

 だが、広すぎて長兵衛の墓がどこにあるのやら一向に見当がつかないのだ。ちょうど墓参りを終えて出てきた老女にたずねると親切に教えてくれた。本当に江戸時代の墓だと思われるような古くて趣のある墓だった。

 お参りを終えて、合羽橋道具街に出ると、外国人観光客が多く訪れている。国際的な東京の名所の一つになっているのが分かる。

今日はとても暑い日だったので、田原町で地下鉄に乗って早々に帰ることにした。

<2016.07.26>