江戸亡霊地                            武田清

連載コラム「江戸の亡霊地」 付録篇

第74回〈地図の中への散歩〉

 地図を眺めているのが好きなことは以前にも書いたが、どこかへ出かけてみるためではない。ただひたすら眺めて、想像しているのである。どんな街だろうか、と。
 東京は広い。
 特別23区だけでも、まだ足を踏み入れたことのない区があるだろうかと確かめたら、あったぐらいである。行ったことのある区でも、知らない街は多い。
 散歩の盲点といってよいか。
 私の場合、それは今で言うところの文京区なのだ。本郷や音羽の辺りである。湯島や根津には何度も散歩したことがあるのに。
 地図を眺めていて気になっていたのが、護国寺という地名だった。近くに講談社や光文社といった大きな出版社がある。
 どんなところだろう。まるで地図のなかへ入りこむように散歩できればいいのだが、現実には地下鉄に乗って行く。
 市ヶ谷から地下鉄有楽町線に乗り換えて三駅めで下車する。
 地上に出ると、すぐ目の前に実に大きな山門が姿を現す。正直、圧倒される。

 山一つ全部が寺になっている。真言宗豊山派大本山護国寺。天和元(1681)年、徳川綱吉は、母桂昌院の発願により、上野(こうずけ)国、碓井八幡宮護国寺の住持亮賢(りょうけん)に創建を命じた。
 元禄10(1697)年に元禄期の寺院建築の粋を集めて、観音堂を建立した。

 

 もろもろの苦悩をすくう観世音
 大悲の恵み尊かりける

 

 3月下旬で、染井吉野はまだ開花してなかったが、寒桜がもう満開だった。

 釈迦の誕生日に修する灌仏会の俗称である花祭(4月8日)まではまだ間があるのに、山門の中にすでにその用意がしてあった。

 花で飾った御堂を作り、その中に釈迦の誕生仏を安置し、甘茶をそそぎかけて供養する。
 観音堂の内部と周囲は、写真撮影禁止なのだが、ちょうど昼休みで係りの人が誰もいなかったので、格子の中へデジカメを差し入れて撮影した(悪いやつだなあ)。

 観音堂の裏手と右手の墓地には、三条実美、山縣有朋、大隈重信らの立派な墓があるのだが、生憎私はそういう偉人の墓には興味がないのだ。
 さらにその外側の墓地を訪ね歩いていると、銀座コージーコーナーを一代で立ちあげて、店舗展開した小川啓三・幸子夫妻の墓があった。銅像付きの墓なんて珍しいから撮影しておく。

 突然、墓地ボランティア・ガイドのお爺さんが現れて、頼みもしないのにガイドを始める。 
「この奥にある古いお墓は、明治天皇の側室であった…」、あいづちを打っていたら、際限なく続きそうだったから、謝辞とともに立ち去ることに。
 地図を見ると、護国寺の北西からは都立雑司ヶ谷霊園が広がっているのだった。都立の霊園は他に、谷中、染井、青山、多磨とあるのだが、コラムを書き始める前にすべて訪ねている。記憶に残っている思い出深い墓がたくさん思い出される。
 また訪ねてみたいなあ。
 護国寺を辞して、音羽通りを江戸川橋さして南下する。お城のような、あるいは砦のような新旧二館の講談社の社屋が見えてくる。
 通りをはさんだ筋向いには、光文社の高層ビル。三浦しをんの「舟を編む」で本屋大賞(映画化された)。今度「神去なあなあ日常」が映画化された。儲かっているんだろうなあ。
 そういえば、この作家に出会ったのは、千三屋君が企画した「本の大交流会」に参加して、巡ってきたのが『風が強く吹いている』だったからだ。
 そんなことを思い出しながら歩いていると、もう江戸川橋に着いた。流れているのは神田川なのに、なぜ江戸川橋なのかというと、神田上水の中流部を「江戸川」と呼んでいたからだ。
 地下鉄に乗って市ヶ谷へ戻って、おそい昼食にしよう。

<2014.04.10>

第73回〈大浮世絵展〉

 3月2日の日曜日、両国の江戸東京博物館へ「大浮世絵展」を見に行ってきた。
 最終日だ。1月3日からやっていたのだから、さっさと見に行けばいいものを、勤め先から近い(JR総武線で3駅な)ので、いつでも行けるとぐずぐずしていて、気づいたらもう最終日だった。
 展覧会の最終日というのは混むのである。
 この博物館、お出でになったことのある方ならお分かりだろうが、とても奇妙な(ユニークな)構造をしている。一、二階部分が空洞(中抜け)になっている。エスカレータで上がった三階部分が常設展示場になっていて、江戸の中村座の正面(ファサード)が復元されていたりする。なかなかに面白いのである。
 企画展示場は、地階にある。といっても、歩いて行く感覚では地続きだから一階なのである。
 その一階のチケット売場にたどり着くと、案の定かなりの行列。そのうえ壁に「本日は大変混雑しております。御了承下さい」の張り紙がしてある。
 覚悟する。今日しかないのである。
 売場の係りの女性が、「65歳以上はシニア料金で半額になりますが……」と、親切心からだろうと推測するが、言ってくれる。
 「まだちょっと間がありますので」と笑いながら答えて、1300円を払う。
 そんなにジジイに見えるようになっているのだな、とわが顔を想像してみる。老眼が進んでいるので、鏡に映るわが顔の醜い諸要素は一切見えないのである。
 会場へ足を踏み入れて、驚く。見えるはずの浮世絵が見えないのである。見えるのは他の客の後ろ姿だけ。こりゃすごいぞ。
 浮世絵というと、私たちはすぐ歌川広重や喜多川歌麿、葛飾北斎や鈴木春信、東洲斎写楽などの絵を思い浮かべるが、ああいうのは多色摺木版画といって、比較的後期の18世紀後半になって生み出されたものだ。板木を何枚も彫って、一枚の紙に何回も重ねて摺っていく。だから、「錦絵」ともいう豪華な絵になる。
 当然、分業だ。元になる絵を描く絵師、それを板に彫る彫師、それで摺る摺師と。
 17世紀半ばの初期の浮世絵は「墨摺絵」(すみすりえ)といって墨一色である。中期になっても、墨摺絵に筆で彩色していたのだ。
 見て回っていると、そんなことが分かってくる。
 浮世絵とは、百科事典によると、江戸時代に発達した風俗画の一様式。遊里と芝居町に代表される都市の歓楽境、いわゆる「浮世」に取材し、主要な表現手段として大量生産できる版画形式を用いた点に特色がある、ということになる。
 芸術作品ではなかったのだ。庶民に安価で消費される絵だったのである。だから、明治の世になると、その芸術的価値を認めた外国人たちに大量に買い取られて、海を渡った。
 今回の展示品のほぼ半数が、ベルリンやロンドンやシカゴの美術館の収蔵品であった。ロシアやポーランドの美術館にも大量に収蔵されている。
 いかん! 人ごみに酔って、本当に気分が悪くなってきた。残念だが、一時間ほどで退出した。
 両国駅にある両国テラスに入って、ハーフ&ハーフ・ビールとつまみを頼んで、グビグビしてようやく人心地がつく。
 でも、来てみて良かった。東洲斎写楽の本物を初めて見た。彼の役者絵から感じる不思議な魅力が、実は眼の描き方にその源があるのを発見したからだ。他の絵師たちと全く異なっているのである。
 眼の不思議な魅力といえば……ビールを飲みながら、発想が飛ぶ。大好きなアメデオ・モディリアーニ(1884-1920)の「おさげ髪の少女」(画家は何枚も描いている)の本物を初めて見た時のこと。
 その魅力の源は、画家が少女の左右の瞳にこっそりと描きこんだ、白い小さな三角形にあったのだった。

<2014.04.01>

第72回〈湯島聖堂〉

 万世橋の手前に、この橋に覆いかぶさるように緑色の鉄橋が架かっている。これが昌平
橋で、JR総武線が走っている。

  御茶ノ水駅まで並走してきた中央線と総武線がここらで分かれて、前者は神田駅へ、後者は秋葉原駅へ入っていく。
 万世橋の手前で右折して、なだらかな相生坂を登っていくと、右手に湯島聖堂が見えてくる。
 聖堂とは孔子を祀った祠堂のことで、つまり孔子廟である。それで「学業成就」の幟が立っているわけだ。これが入口の一つの仰高門である。

  昌平坂はなぜか神田川の向こうにある。
 タクシーの運転手になるための講習では、「山の手は坂で、下町は橋で地理を覚えよ」と教わるそうである。
 この聖堂の中にある昌平坂学問所〈大成殿〉なら、何度も訪れたことがある。
 だが、この学問所が湯島聖堂という施設の一部だとは知らなかった。勤め先から歩いてすぐ行けるので、油断して散歩していた。
 孔子廟なのである。だから、境内に巨大な孔子像が建っている。

  昌平坂学問所は江戸幕府の建てた学問所で、幕臣の教育機関、俗に言う日本初の大学のことだ、とそう思っていた。
 調べてみると、そう簡単なことではなかった。
 興味無いでしょうけど、その沿革を簡単に追ってみる。
 江戸幕府は寛永7(1630)年に、林羅山(道春)に上野忍岡の土地を与え、孔子廟〈先聖殿〉を建てさせた。ここが後に、林鵞峰の時に私塾弘文館となった。
 元禄3(1690)年、徳川綱吉の文教奨励策によって、湯島に土地を与えられ、林家が大学頭(だいがくのかみ)となって官学化した。聖堂は〈大成殿〉となった。

  「異学の禁」によって、幕臣の教育所となったのは、寛政2(1790)年からである。
 明治維新後は昌平校、後に大学校と呼ばれ、ここに博物館、図書館、師範学校、女子師範学校が置かれた。これらの施設は、今それぞれ東京国立博物館(上野)、国立国会図書館(最初上野にできた)、現筑波大学(元東京教育大学)、お茶の水女子大学になっている。
 今、聖堂には斯文会館(漢文教育を行っている)しかない。斯文会というのは、大正9(1920)年に聖堂の管理を委託された団体で、現在も活動している。「漢字検定」の幟が立っていたね。
 湯島聖堂は大正12(1923)年の関東大震災時に全焼した。大正15(1926)年、斯文会を中心とする聖堂復興期成同盟が結成され、昭和9(1934)年ようやく現存の大成殿が新築された。
 大成殿へ行ってみると、そういった縁からなのか、筑波大学の彫塑展が開催されていた。感心した彫像を写真に何枚か撮影してきた。

  大して広大だとは思えない聖堂の敷地に、そんなに多くの施設がどのように建設され、運営されていたのか、ちょっと想像できない。
 大成殿の左側の門から外に出ると、ちょうど丸いアーチが美しい聖橋のたもとに出た。この橋がなぜ「聖」なのか分からなかったのだが、聖堂の「聖」なのだと今日初めて分かった。
 聖橋を渡ると、向こうにニコライ堂が見えてくる。コンドルが設計した美しいロシア正教の教会である。

 ニコライ堂にもまた訪れてみたい。

<2014.3.18>

第71回〈湯島の白梅〉

 例によって、御徒町で輸入紅茶(アールグレイとダージリン)を買い求め、今回は西の方へ散歩をスタートさせる。久しぶりに湯島天神へ行ってみることにしたのだ。
 黒門町を通り抜け、天神下の男坂の登り口に出る。2月の下旬で、ちょうど「梅まつり」の最中だった。

  男坂と女坂があって、男坂は傾斜が急で、女坂は緩やかだ。
  登りきると、あれまあ!
  参道の両側に露店が立ち並び、人であふれかえっている。

  人ごみが嫌いなのだ。こんな中にいたら、人に酔って気分が悪くなってくる。退散だ。参詣もせずに天神下へ戻ってくる。
 境内には、劇団新派が建てた「泉鏡花『湯島の白梅』の碑」があるはずなのだが、露店の陰にかくれて見えない。残念…
 高校3年の今ごろ、受験も終わって、大学にも合格し(ただし、明治大学ではない)、暇ができたので町の本屋へ行って、文庫本を3冊買ってきた。
 1冊は、あとで自殺してしまった友人にすすめられた太宰治の『人間失格』で、残りの2冊は永井荷風の『濹東綺譚』と泉鏡花の『婦系図』(おんなけいず)だった。
 何を考えていたのだろう、私は?
 クラスメイトたちは大江健三郎の『万延元年のフットボール』について熱心に話していた頃だった。それなのに高校3年の男の子が荷風や鏡花を読もうとするとは。
 『婦系図』が新派の名舞台「湯島の白梅」の原作だなんて、当時知る由もなかった。
 今は分かるのだ。キーワードは〈東京〉だったのである。東京の大学へ行きたかったのに行かせてもらえなかったので、〈東京〉に関するものを読みたかったのだ。
 それにしても、荷風や鏡花の小説を選ぶとは。趣味が渋すぎる。
 天神下に戻って、ふと考える。湯島天神にしろ、神田明神にしろ、なぜこうも台地の切れる崖っぷちに建てられているのかと。
 下町と山の手の境目に建っているのである。氏子はどっちの方が多いのだろう。
 そもそも「湯島」という地名からしておかしい。
 例の「地名辞典」を引いてみると、色々面白いことが書いてあって、なかなか勉強になる。
 「古くこのあたりで温泉が湧いたので、その名がついたという。」
 「ここの地主神は戸隠明神で、湯島天神社地の、切り通しへ降りる石段わきに現存している。」
 「太田道灌が北野の天神を江戸城中に勧請したのが始まり、といわれている。」
 「天保の改革で禁止されるまで、富突きで江戸市民を沸かせたおなじみの神社。」
 今も、ジャンボ宝くじの当選番号を決めるTV番組を見ていると、0~9の番号が並んでいる各桁の円盤を矢で射て、当たった数字を決めていく。あれが「富突き」で、千両富のくじを買った江戸市民は手に汗握って見つめていたのだろうなあ。
 天神下から末広町、外神田へと歩いていく。通り一つ東側には秋葉原の通りが見えて、日曜日だから、すごい人だかりが見える。AKB48劇場も見えるが、私は近づかない。
 もう万世橋に出た。元駅舎だった赤れんがの建物は、近ごろ改装されてしゃれたカフェなどになっている。

  そうそう、新派の「湯島の白梅」と言えば、湯島天神境内の場が有名で、お蔦が「切れろ、別れろ、は芸者の時にいう言葉」と主税に迫る場面は、原作の『婦系図』にはなく、脚色に際して補われたものである(初演は明治41(1908)年)。
 道理で私は記憶になかったわけだ。
 さて、せっかくここまで歩いてきたのだから、ついでに湯島聖堂にも寄ってみることにするか。

<2014.03.13>

 

第70回〈四谷怪談の周りで〉

  今年は卒業論文のクラスに、四世鶴屋南北作『東海道四谷怪談』を題材にして、「怪談娯楽の魅力」というテーマで書いた女子学生がいた。
 ずいぶん前に観た歌舞伎の舞台を思い出しながら読んでいったのだが、この狂言は登場人物が多すぎて、人物関係をかなり忘れているのに気づいた。
 こんな時に偶然というのは起こるのだ。
 この1月、俳優座が50年ぶりに新劇版『東海道四谷怪談』を六本木の俳優座劇場で上演したのである。50年前といえば、ちょうど東京オリンピックが開催された年だ。こんなポスターだったという。

 もちろん、観に行った。
 そして、驚いた。当然だとはいえ、歌舞伎の舞台とはまるで違っていたのである。
 何よりも演出がとてもスピード感あふれるもので、盆(舞台に乗せた回り舞台)に乗せたシンプルな装置をクルクル回転させて、場面がどんどん展開していくのである。
 歌舞伎の舞台の、たっぷりと時間をかけた「見せ場」のような場面もスピーディに処理されている。
 現在の歌舞伎の「さあ、これから見せますよ」と言わんばかりのモタクタした演技がついに好きになれなかった私には、新劇版はちょっとショックなくらい良かった。
 ここで『東海道四谷怪談』をご存じない方のために、ごく簡単に中身に触れておくと―
 これは『仮名手本忠臣蔵』の後日譚という形になっている世話物の歌舞伎脚本で、四世鶴屋南北によって文政8(1825)年に書かれ、江戸中村座で初演された。
 塩谷(えんや)家(浅野家のこと)の浪人民谷伊右衛門(たみやいえもん)は、隣家の高師直(こうのもろなお)方(吉良上野介のこと)の伊藤喜兵衛の孫娘お梅に恋され、喜兵衛に高家に仕官を取りもってやるから婿になってくれと頼まれて、承知する。
 夜鷹になって日銭を稼いでいる女房お岩を虐待(顔が醜くなる薬を偽って飲ませ)して憤死させ、また家伝の薬を盗んだ使用人の小仏小平(こぼとけこへい)を惨殺し、戸板の裏表にお岩と小平の死体をくくりつけて神田川へ流した。
 後に、二人の死体はそのまま砂村の隠亡堀(おんぼうぼり)に流れ着き、亡霊となって伊右衛門を悩まし、更なる殺人を犯させ、ついに捕らえられて殺される。
 ものすごい顔貌になったお岩が「一念とおさでおくべきか」と伊右衛門を呪いながら「髪を梳く」場面や、流れ着いた二人の死体が交互に現れる「戸板返し」などの凄惨な場面が有名である。
 主人公の伊右衛門・お岩の夫婦に限って、簡潔に書いてもこんなに長くなる。
 実は書きたかったのは粗筋ではなくて、四谷怪談の周りで次々につながっていった事柄のことなのである。
 俳優座の公演パンフレットに敬愛する塩見鮮一郎氏が「四谷怪談ホラースポット」という文章を寄せていたのだ。氏によると、この作品は「零落した武士が必死に職を得ようとする話」なのである。
 そして、氏に『四谷怪談地誌』(河出書房新社)なる著書があるのを知った。

  こんな時、勤め先が神保町のそばでよかったと思う。アマゾンで探してもいいのだが、東京堂書店へ行ったら在庫があるという。早速購入する。
 読んでいくうち、お岩・小平の死体がくくりつけられた戸板が流れ着くのが「砂村の隠亡堀」だというところで、私は何と永井荷風のことを思い出したのである。
 川本三郎の『荷風と東京―『断腸亭日乗』私註―』(岩波現代文庫)を読んでいた時、荷風が昭和6(1931)年から砂村(現江東区砂町)近辺の散歩を始めているのを知ったのだった。
 「…わたくしはむかし小名木川の一支流が砂村を横断して、中川の下流に合していた事を知った。この支流は初め隠亡堀とよばれ、下流に至って境川、また砂村川と称せられたことをも知り得た」
 うーむ、砂町へ散歩してみるか? 今では地下鉄東西線ですぐ行ける。南砂町駅で下りればいい。だが、地図で見てもすでに街が変貌してしまっているのが分かるのだ。
 わざわざ失望しに出かけるのか?

<2014.02.27>

第69回〈地元の調布で初詣〉

 昨年の元旦は、何を思ったのか私、高幡不動尊へ初詣に行くと宣言、家族を引きつれて京王線の電車に乗った。
 高幡不動駅で下りて外へ出ると、何と横三人の行列が不動尊まで参道を埋めつくしていた。最後尾はと見ると、はるか向こうのモノレール駅の方だ。
 瞬時に「止めた、八王子の子安神社に変更」、呆れる家族を急かして再度京王線に乗車。
 子安神社も行列だったが、小一時間ほど並んで参詣できた。この神社の中に、腰・膝・足の痛みに効験のあるという「第六天神社」という社があることを知って、早速お参りすることに。
 一膳の箸に小さな下駄がついたものを買い求め、氏名・生年月日・願いごとを書いた方を祈願奉納し、もう片方を自宅に持ち帰るようになっている。
 何を考えたのか(考えてない)。私は持ち帰る方を奉納して、奉納する方を持ち帰ってしまった。

   道理で昨年は何ごとも不調だったわけだ(ということにした)。
 そんなわけで、今年の元旦は地元の(歩いて行ける)若宮八幡神社に初詣に行くことにした。

   崖線上ぎりぎりに建てられた神社で、文化4(1808)年に創建されたとある。
 もちろん、行列なんかあるわけがない。

説明板には、近藤勇の生家(宮川家)も氏子だった上石原村の鎮守だった、と書いてある。
 境内に古い民家が建っているので、かつては宮司がいたのだろうが、今は無人。調布駅近くにある布多天神の宮司が兼ねているらしい。
 それで、今回の話題は「調布」である。
 「どちらにお住まいですか?」と聞かれて「調布です」と答えると、時々「田園調布ですかぁ。良いところにお住まいですねぇ」と羨ましがられる。
 「いえいえ、田園がつかない、ただの調布です」と慌てて訂正しながら、私は内心ムカっとしている。
 田園調布は、関東大震災後に東急電鉄沿線に開発された、新興の分譲住宅地だが、調布は江戸時代に布田五宿と呼ばれた甲州街道の宿場町として栄えた古い町だ。
 それに名前からして、平安時代から存在した村だったことが分かる。
 歴史が違うのだよ。
 日本国語大事典(デジタル版)で「調布」と引くと、一番に出てくるのが、「調として官に納める布。たづくり。つきぬの」である。そして、地名としては、「古代、多摩川の水にさらした布を、朝廷への調にあてたところからついた、東京都中部の地名。多摩川の北岸に古くから開けた。江戸時代は甲州街道の街村として発達した」と出てくる。
 要するに、平安時代の律令制下における租税・租庸調のうちの「調」(繊維製品を核とする貢納物)から来ている地名なのである。布田五宿といい、布多天神といい、名前に「布」が入っているのは、「調」に対応する意味なのだ。
 初詣を終えてから、近くのコンビニに寄って、缶ビールにチュウハイにつまみ、それから巻き寿司におにぎりを買って、多摩川へ向かった。
 うららかな陽気でちっとも寒くない。
 元旦から堤防の上の散歩道は、ジョギングしたり、サイクリングしたりする人たちがひっきりなしに通る。
 堤防の斜面に腰を下ろして、陽光を反射する多摩川の川面を眺めながら、遅い昼食を食べてはビールをグビグビ。
 昨年のさむ~い元旦に比べて、今年の元旦の何という好ましいことか。

<2014.2.7>

 

 第68回〈新町の謎〉

 年末、久しぶりに浅草に行ってきた。

 気にかかっていることがあるからだ。例の「消えた町=新町」のことである。

 われながら、しつこいなあ、と思う。

 江戸切絵図では白抜きになって、あたかも誰も住まっていないかのごとくに扱われ、「俗ニ新町ト云フ」とだけ書かれている、長吏たちの町である。長吏頭を矢野弾左衛門といって、江戸の人々に恐れられた。歌舞伎狂言『助六』の登場人物の一人「髭の意休(ひげのいきゅう)」のモデルだと言われる。

 その町が現代の地図では拭われたように消えて、(台東区)今戸1丁目とだけ記されている。

 なぜ「新町」というのだろうか? なぜそんな町があったことを証するものが一つも残っていないのだろうか、と思っていたのである。

 以前、一度歩いたことがあったのだが、ごく普通の、製造業を営む家が多い町だった。下町にはこういう町が多いのである。

 別のアプローチを考えてみなければならない。

 その日、私は途中で腹具合が悪くなり、(ビロウな話が嫌いな方はとばしてお読みください)待乳山聖天脇の公園の公衆トイレへ行ったところ、あいにくとふさがっていて、仕方がない、道路を渡って向かい側の台東区スポーツセンター横の公園の公衆トイレで用を足して、ことなきを得たのだった。

 公園にはホームレスの人たちがたくさんいて、何かを待っている風だった。炊き出しなのか?

 道路を渡ったために、私は山谷堀に入っていかず、そのまま進んで弾左衛門の墓に詣でることにした。浄土真宗大谷派の本龍寺。墓地の奥に「矢野氏墓」と彫られた、なぜか同様の墓が二基並んでいる。合掌。

 寺を辞してから、隣りの今戸神社にも寄ってみる。言わずと知れた「縁結び」と「沖田総司終焉の地」で有名な神社である。若い女性たちがたくさん参詣していた。絵馬に「優しくてすてきな人に出会えますように」などと書いてある。今戸焼の雌雄カップルの「招き猫」が名物だ。

 写真を撮っておけばよかったと後悔した。最近コラムが写真ばかりなので遠慮したのだが、皆さん今戸神社なんてご存じないかもしれないと。

 社を後にする時、本殿の左側にもう一つ出入口があるのに気がついて、そちらから出てみた。するとそこは都立浅草高校の横だったのだ。

 何かピンとくるものがあって、山谷堀の方へは行かず、反対の北の方へ歩いてみることにした。

 新町はほぼ南北に細長い町だったから、もっと奥へ行ってみようと思ったのである。角を左へ右へと折れながら町を歩くと、皮革加工業を営む商店が多く目についた。それだけでこの一帯がかつての新町であったことが分かる。江戸時代、皮革の加工は長吏たちが特権として独占していたからである。

 歩いていると「熱田神社」という白い幟が目に飛びこんできた。行ってみる。初詣客を迎える準備なのだろう。幟がなければ気がつかずに通り過ぎるところだった。

 区の説明板に次のようにある。

「本社はかつて元鳥越町にあったが、正保2(1645)年当地に新鳥越町が成立したことにともない、移転して当地の鎮守となった。町の北端に位置していたが、関東大震災後の区画整理のため、昭和2(1927)年11月に現在地に移転した。」

 そうだったのか、簡単なことだったのだ。かつて長吏たちは鳥越町(現台東区鳥越)に集住していたのだが、鳥越の丘を切り崩して、その土で入江を埋め立てて蔵前の町(幕府の御蔵群)を造るために、浅草北のこの地へ移転を命じられたのだった。

 そして、この地を新鳥越町とした。つまり、新(鳥越)町のことを俗に「新町」と呼んでいたのである。

 それでは謎も解けたことだし、都バスでJR浅草橋駅へ出て帰ることにしよう。

<2014.1.9>

 

第67回〈まだ品川宿で〉

 何度か品川宿に足を運んで、ある日、ふと不思議に思ったのは、なぜ旧東海道を散歩するのに北品川から下ってばかりいるのだろうかということだった。

 街道なのだから下りの人だけでなく、江戸へ向かって上ってくる人も同じほどいただろうに。そう思って、今日は青物横丁から北品川まで上ってみることにしたのである。

 まるで街道が違って見えた。歩きながらすれちがう散歩グループの誰もが街道を下ってくるのである。ここに住まう地元の住民は、移動は自転車か自動車で、歩かないから、上る私は例外的な存在になる。

 こういうのも「非日常化」と言ってよいのだろうか。見慣れたものを初めて見るような意識に変えることで、ロシア・アヴァンギャルドの文芸理論家(フォルマリスト)シクロフスキーが唱えた散文理論の一つである。これをブレヒトがいただいて「異化効果」を創り出した。

 何よりも、今まで気づかなかったことに気がつくということが起きる。

「まち歩きマップ」には、お寺や神社のほかに史蹟、旧東海道にあった名所(?)の説明板の場所、さらには昔ながらの店構えを残した商店まで書きこまれているのだが、実際に歩いてみるとほとんど気がつかないのである。落ち着きなく辺りをキョロキョロ眺めながら歩いているからだろう。

 北品川に近づいてから気づいたのが、かつてここに「土蔵相模」があったという説明板である。

 土蔵相模とは歩行(かち)新宿にあった食売旅籠(妓楼)の相模屋の通称で、外壁が土蔵のような海鼠(なまこ)壁であったため、そう呼ばれていたのだという。

 海鼠(生子)壁というのは、平瓦を壁に貼りつけて。間を漆喰でカマボコ型に盛り上げて埋めていったもので、風雨に強く、大名屋敷や寺院の壁によく用いられていたものである。

 文久2(1862)年12月、品川の御殿山に建設中だった各国公使館に対して、攘夷論者だった高杉晋作、久坂玄瑞らが、ここ相模屋で焼き打ちの密儀をこらした。同年12月12日夜半、高杉や伊藤俊輔(博文)ら12人の長州藩士がイギリス公使館を襲撃し、全焼させたのだった。

 そんな史蹟(?)も今はビルになり、一階には「ファミマ」が入っている。よほど注意していないと見落としてしまうだろう。

 この近くには、真言宗の成田山新勝寺の別院一心寺という小寺も街道際にひっそりとある。これも注意していないと気づかない。

 なぜ成田山新勝寺の別院が品川宿に建てられたかというと、文化文政期に「成田詣で」が盛んになって、成田までは遠くてとても行かれない人々が代わりに参詣するためだったろう。富士山と富士塚の関係に似ているなあ。

 さらに歩いていると、ところどころに「ここは海抜2.6m」などと記した銘板が見つかる。安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」の「品川」を見ると、品川宿は本当に海ぎわに建てられているのである。

 これでは津波の時はもちろんのこと、大潮の時には浸水して被害が出たのではなかろうか。

 現に今でも洪水の被害を防ぐために、目黒川の川底が浚渫されている。

 頭の中に「海」が浮かんできた時、まち歩きマップに「品川船だまり」とあったのを思い出して行ってみることにした。

 住居表示でいうと東品川1丁目で、天王洲運河が90度に曲がりこんで行き止まりになっている一帯は、「つり船、屋形船」の看板を出している船宿街になっているのであった。船宿は船だまりに面していて、直接船に乗りこめるよう船が何艘も係留してある。

 もちろん、当たりはかなり沖まで埋め立てられて、海は見えない。運河が見えるだけ。

 品川宿が海の宿場町だったことを実感したところで、このシリーズも終わりにすることにしようか。

<2014.1.5>

 

第66回〈品川の町も寺だらけ〉

 品川宿交流館で買い求めた「まち歩きマップ」を開いて唖然としたと書いたが、そのエリアの広さだけでなく、その寺の多さにも驚いたのだった。こんな感じ。

 どの寺から詣でればよろしいのか?

 例の「地名辞典」には、東海寺と海晏寺というのが名刹として出ている。

 臨済宗の万松山東海寺。寺域五万坪といわれた巨刹だった。開祖が沢庵禅師。明治になって、東海道線の敷設などで分断され、一時廃寺になったが、寺号を塔頭(脇寺)の玄性寺に移して現存している、と。

 目黒川沿いに第一京浜の向こう(西)側にある。訪ねてみると、その通り。古いお堂が歴史を感じさせるが、今は小さなお寺。墓地は東海道線のガード下を潜って、もっと西側に離れてある。往復するのが嫌で行ってみなかった。とても歩きにくい。

 それじゃと、目黒川を渡って、品川銀座の入口にある時宗の海蔵寺を訪ねてみる。俗に「品川の投げ込み寺」と呼ばれている寺である。

 山門のそばに説明板があって、「無縁塔群(首塚)」があると書いてある。品川にあった非人の溜(牢屋)で亡くなった囚人の遺骨を集めて、宝永5(1788)年に築かれたもの。(そういえば、品川の非人頭は松右衛門というのだった。)

 鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨の一部も埋葬され、「首塚」と呼ばれるようになった。

 天保の大飢饉(1833-39)で餓死した215人を祀る「二百五十人塚」も合葬されている(数字が合ってない気がするが?)。

 いずれも引き取り手のない遺骨を合葬したもので、津波溺死者、行路病死者、鉄道轢死者などの霊も供養されている。

 もちろん、品川宿の遊女たちの霊も供養されていて、塚の裏に「納骨室入口」の扉がある。

 ちょっと面白かったのは、この塚にお参りすると頭痛が治るということで、古くから「頭痛塚」とも呼ばれているのだと。

 境内には関東大震災の犠牲者の霊を祀った「菩薩像」も建立されている。

 この辺りは、それこそ寺だらけで、驚いたことにその宗旨の多彩なこと。天台宗、真言宗、浄土宗、臨済宗、日蓮宗、時宗だけでない。黄檗宗(おうばくしゅう)の寺なんか初めて詣でた。

 再び第一京浜を渡ったところに、浄土宗の願行寺がある(がんぎょうじ、と読むのだろうな)。この寺の名物は「しばられ地蔵」である。

 地蔵さまが体を荒縄で幾重にも縛られている。人々の病苦や苦難を身代わりになって肩代わりしてくれるのだそうで、信者たちの信仰を集めた。松平土佐守の奥方が熱心に帰依したと書いてある。

 それにしても、通りを旧東海道の方へ歩くと右に左に寺、寺、寺である。驚くべき数の多さである。

 無理もない。前にも書いたが、品川宿は天保14(1843)年の時点で、人口約7000人だったのである。江戸時代、人は誰でもどこかの寺の信徒でなければならなかったから、これだけの数の寺々が必要だったのだろう。以前『デフレの正体』(集英社新書)を読んだ時、江戸時代を通じて日本の人口は3000万人を超えなかったと知って驚いたことがある。そんな時代に、一つの宿場町で人口約7000人というのは巨大な町であったということだ。日本橋から二里(8キロ)南にそんな町があったのである。

 さて、今日も新馬場商店街の「一品楼」で遅い昼食を取って帰ることにする。五目焼きそばにワンタン・スープが付いていて、これがすこぶる美味かったのだ。何の変哲もないスープなのに。

<2013.12.31>

 

第65回〈品川ブラブラ〉

 京浜急行に乗って、たとえば羽田空港への往き帰りに、新馬場駅に差しかかると、第一京浜の向こう側に見えてくる神社が以前から気になっていた。門柱に「品川神社」とあって、小高い丘の上に社はあるらしい。

 正面の左側に、ゴツゴツした岩山が見える。もしや、あれは昨今話題になっている「富士塚」ではあるまいか。

 富士山が世界遺産に(ようやく)登録されて、にわかに江戸の町のあちこちにあった富士塚に脚光が当たったのである。

 早速、訪ねてみることにした。われながら腰が重いねえ、呆れたものだ。

 品川神社は江戸時代、「北の天王」と呼ばれた、牛頭天王を祀った神社だった。が、どう調べてもその由緒が分からない。一説には徳川家康ゆかりの神社なのだというのだが。

 早くネット世代になりなさい。すぐ出てくる。文治3(1187)年、源頼朝が安房の国洲崎神社から天比理乃羊命(あめのひりのめのみこと)を勧請して祀ったもの。天正18(1590)年、徳川家康は江戸に入府した翌年に品川大明神に5石の朱印社領地を賜った。後に荏原神社と朱印争いを起こし、5石を二分したのだという。

 正面にかなりの段数の石段があって、登ってみないと奥はまったく見えない。ふうふう言いながら登りきると社がやっと見えてくる。

 晴れ渡った土曜日で、七五三のお参りにきた親子連れがちらほら見かけられる。境内に「月に一度は地元の神社にお参りしましょう」という、他の神社ではまるで見かけないような「立札」が建っている。とにかく賽銭を入れてお参りをする。立派な舞殿(神楽殿)もあるよ。

 さて、富士塚はと見ると、石段の途中に登り口があり、石段を登りきったところに「浅間神社」まで、ちゃんとあるのであった。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、つまり富士山を祭神とする神社だ。

 富士塚は全体が岩山で、どこからこれだけの量の岩を運んできたのだろうか、と思うほどの量感である。遠くから見るのと、実際に登ってみるのとでは大違いだ。登り口に鳥居があって、一合目から九合目までの立札が建っている。これが頂上直下だ。

 富士山にはとても登れないが、登ったつもりになれる、シンボル・ミニ富士山である。

 江戸の昔には富士山信仰を広める団体があって「富士講」といった。実際に信者を富士山へ連れて登ってもいた。先達、講元、世話人を指導者格として組織され、文化文政期(1804-1830)には「江戸八百八講」といわれるほどの爆発的な隆盛をみた。

 八百八講は誇張だとしても、この講中が江戸の各地に富士塚(または浅間塚)を造り、富士山を遥拝したり、代理登山をしたりした。

 また、7月1日の初山の日には、講中で江戸市中七カ所の富士塚を巡る「七富士参り」が行われたという。行衣(ぎょうえ)に金剛杖の出で立ちで巡ったものだった。

 明治に入ると、教派神道として扶桑教、実行教、丸山教へと教団化していった。シンボル・ミニ富士山などと皮肉ってはいけなかったのだ。真剣な教団活動だったのである。

 再び、丘の上の境内にもどると「包丁塚」という石碑があって、左にその建立の経緯が彫ってある。

 それによると、品川宿にあった沢山の旅籠や水茶屋で提供された料理を調理するのに使われた無数の包丁を供養するためのもので、面白いのは包丁だけでなく、調理された鳥獣魚介や穀物・野菜の霊までが一緒に供養されていることだ。

 品川神社一つだけでずいぶん楽しめた。石段を下りて、近くにあった「砂場」で遅い昼食を取る。ビールでのどを潤しながら食した「鴨せいろ」の美味しかったこと。こんなに美味い蕎麦を食べたのは本当に久しぶりだ。

 <2013.12.23>

第64回〈品川宿で〉

 涼しくなったらもう一度品川宿を訪ねてみようと思っていたら、すでに寒くなっていた。

 でも、冷たくて乾いた東京の冬は散歩には好適な季節なのである。ちょっと埃っぽいけれど。

 前回の品川宿散歩で忘れていたことが二つあった。ひとつは、品川宿ゆかりの寺を訪ねてみることで、あとひとつは例の「地名辞典」を引いてみることだった。私としたことが大抜かり。

 この辞典には現在の特別23区別の索引が付いていて、もちろん品川区も20ほどの項目が出ている。前回ふれた荏原神社も、なんと「河童天王」という項目で出ている。

 「かっぱてんのう」って一体何なのだ。この神社はもと貴船神社といい、神明(皇大神宮)と牛頭天王を合祀していた南品川の産土神である。神輿を海の中へ渡御する威勢のいいここの氏子たちに対する悪口が河童天王だったのだという。

 品川には北品川にも天王社があって、こっちは現在は品川神社として地元の人々に親しまれている。今度訪れてみよう。

 前回、品川宿は歩行(かち)新宿、北品川宿、南品川宿の三宿から成っていて、と書いたが、この歩行新宿といういっぷう変わった名前の宿の正体が分からなかった。

 北品川宿の北に続く一帯にも水茶屋などが立ち並ぶようになり、品川新町と呼ばれて遊里化したのだそうだ。宿駅負担と引きかえに飯盛女(宿場女郎)を置くことを許されていた南北両宿がこれを非法だと訴えた。享保6(1722)年に、品川新町は歩行(かち)人足を毎年1万2千人負担することで品川宿に加えられて、歩行新宿と呼ばれるようになったのだという。

 江戸に一番近い地で、遊女を置いた旅籠も一番多く、大見世もここが一番だったという。

 ところで、飯盛女は食売(めしうり)旅籠一軒について「建前」としては3人以内だったのだという。計算してみる。天保4(1843)年で食売旅籠92軒だったというから、飯売女は総計で276人が許されていたことになるが、実際には約1500人いたという。すごい数だねえ。

 老人や女・子供はそういう旅籠をさけて、平旅籠に泊まったというから、歩行新宿を通り過ぎる時は大変だったんだろうなあ。

 さて、私も京急の北品川駅で下りて、歩行新宿のあった辺りから再び散歩を始める。

 南東方向へ伸びている旧東海道の西側、京急本線の外に国道15号(第一京浜)が走っている。この道路が品川宿の町を東西に二分してズタズタにしているのだが、それは散歩を進めていくうちに分かってくるのである。今では実に探訪しにくい町になっているのだった。

 旧東海道には東に西に横丁があって、入っていくと古い街並みで、その奥に寺があることが多い。そのうちの一本に入ると、品川宿ゆかりの寺かと思わせる、浄土宗の臨海山法禅寺があった。

遊女の投げ込み寺かと思って、墓地に入らせてもらい探してみるが、それらしき供養塔はない。 

 あったのは、「流民叢塚碑」なんて読むんだろう、「るみんそうつかひ」かな。

 

 天保4(1833)年から始まった大飢饉で出た多数の餓死者を祀る供養塔だという。品川宿に農村などから流浪してくる者が多く、餓死・病死した者891人、その約半数がこの塔に供養されているのだという。

 さらに旧東海道を歩いていく。前回は気づかなかったが、新馬場(しんばんば)駅へ出るところに「品川宿交流館」が見つかった。一階がお休み処兼グッズ、駄菓子の売り場で、二階が品川宿の歴史、資料が展示してある。

 一階で品川宿「まち歩きマップ」(50円)を買う。開いて唖然とした。何なのだ、この広さは! とても一日でなんか散歩できない。何度も何度も訪ねてこなければ。

 そんなわけで、また次回に。

<2013.12.14>

 

第63回〈酒井抱一〉

 九月下旬、酒井抱一(さかいほういつ)の屏風絵が展示されていると東京新聞の記事で知り、上野の東京国立博物館へ行ってきた。

 酒井抱一(1761-1829)については本コラムでも二度、〈非人〉と〈山茶花や根岸はおなじ垣つづき〉の回で触れているが、ただ江戸の文人画家として紹介しただけだった。

 作品は、博物館本館1,2階全室を使って催された大規模な「日本美術の流れ」展中の一室「屏風絵」に「夏秋草図屏風」と「四季花鳥図巻下巻」が展示されているだけだが、その銀地を背景にした草花の描写には一種の凄味があったのだ。

 

 写真は新聞に載ったものをデジカメで撮影したものだから、その凄味が伝わらないだろう。館内のミュージアム・ショップで売られていた絵葉書を買うのをケチッたわけではない。本物を見てきた目には余りにもチャチくて買う気にならなかったのである。

 抱一は号の一つで、本名酒井忠因(ただなお)。姫路城主酒井忠仰(ただもち)の次男として江戸に生まれ育った。37歳の時、西本願寺で出家し、権大僧都(ごんだいそうず)となったが、すぐ隠退し、下谷根岸に雨華庵(うげあん)を結んで書画、俳諧、狂歌に親しむ風流三昧の生活を楽しんだ。

 他の大名家からの養子の誘いも断り、武家としての出世には全く興味を抱かなかったらしい。

 画では谷文晁、狂歌では蜀山人こと太田南畝、俳諧では馬場存義らと交流して、その才を存分に発揮した。

 抱一の功績として有名なのが、江戸初期の京都で活躍した尾形光琳の絵に私淑し、約百年後の江戸で再興したことだ。

 「夏秋草図屏風」は、もともとは光琳の余りに名高い「風神雷神図屏風」の裏側に描かれていたのだそうだ。金箔のきらびやかな屏風の裏に、銀箔の渋い冷たい輝きの中に、右双には雨にぬれた夏の草花、左双には風に吹かれる秋の草花が描きこまれている。感心したのは、花は草の陰に描きこまれて前景には出てこないことだ。

 抱一がどんな文人だったかが偲ばれる。

 「日本美術の流れ」と題された展示は、土偶、埴輪から近代の油彩までを網羅した一大展示で、その間には書や水墨画や甲冑までが挟みこまれ、とても半日では観終わることができなかった。

 帰ってから、酒井抱一の人となりがもっと知りたくて、各種事典類を調べたが、もうすでに述べたようなことしか分からなかった。池田大伍の一幕劇「根岸の一夜」では、妻にしたのは吉原の元遊女で、心中に失敗して非人に落とされた元大店の息子が訪ねてくるような人に描かれていた。

 気になる。気になるが、これ以上手がかりがない、今のところ。

 例の地名辞典には、彼が雨華庵を結んだ根岸はこんなところだったと書いてある。

 「上野の山の北かげにあたり、呉竹の里、時雨が岡などと呼ばれて、音無川の流れや、鴬、くいな、ひばり、山茶花など名物が多く、風趣を愛する文化人や富有な商人の別荘が田園のそこかしこに点在する所だった。」

 江戸の文政期の根岸を謡った俗曲が項目の最後に紹介されている。それを写して、終わりにしようか。

 

 「里は根岸のさてわび住まい、ひねったかきねに鶯が、声も長閑(のどか)な春がすみ、引けや三味線忍び駒」

<2013.10.26>

 

 

第62回〈鎌倉街道〉

 調布市へ引っ越して、もう25年以上になる。引っ越した当時、多摩地区の地図を眺めていて、「鎌倉街道」という道路名を見つけた。

 それがどうも一本ではないらしい。

 多摩丘陵の低地をぬうように南西へ伸びている。

 なぜ、こんな丘陵の中を走る道路に「鎌倉」が付いているんだろう?

 調べるのは得意なんだから、調べてみたら?

 調べるまでもない。鎌倉へ続いているから、鎌倉街道なのに決まっているのだ。

 不思議だと思うのは、現在の地理感覚(交通機関)で考えるからなのだと気がついた。

現在、私たちが鎌倉へ行こうとしたら、まず東京駅か品川駅(人によっては横浜駅)に出て、横須賀線に乗り換える。そして、海沿いに西の方へと進んでいって、鎌倉駅に着く。(現在はJRの路線が複雑になりすぎているので、大ざっぱに読んでください。)そう考えている、それが「ふつう」だと。

 つまり、江戸(東京)を起点にして地理を考えている。

 だが、鎌倉時代にはそうではなかった。

 鎌倉街道というのは、鎌倉と関東各地を結ぶ中世古道の総称だ。鎌倉幕府と東国武士の本領を結ぶ連絡(行政)道で、上ノ道、中ノ道、下ノ道の三本がその中核だった。

 上ノ道と中ノ道は府中の手前で合流し、そのまま上野(こうずけ・群馬県)、下野(しもつけ・栃木県)へと延びている。

 下ノ道は中ノ道から途中分岐して、江戸を通過して房総半島へ続いている。

 つまり、当時、江戸は田舎で重要なところではなかった。単なる通過点にすぎなかった。

 問題は府中だ。武蔵の国の国府があった宿場町である。

 京王線に乗って府中駅の次に分倍河原(ぶばいがわら)駅という変わった名前の駅がある。鎌倉時代末期の古戦場だったところだ。

 駅前広場に新田義貞の銅像(富永直樹作)が建っている。

 正慶2(1333)年、上野で挙兵した新田義貞軍は鎌倉をめざして鎌倉街道を南下した。鎌倉幕府はこの進撃を阻止するため、北条泰時の大軍を投入し、両軍は多摩川の渡河点で激突した。北条軍はいったん勝利したものの、追撃を中止したため、翌日、三浦義勝の来援を受けた新田軍の猛攻のまえに敗北した。

 新田軍は敗走する北条軍を追って、一気に鎌倉へ攻め入り、幕府を滅亡させた。

 日本史のおさらいなんかしたくない?

 新田義貞像の近辺に分倍河原古戦場跡の石碑があるはずなのだが、駅前の地図がよく分からない。地元の人らしき女性にたずねると、教えてくれたのだが、くわしすぎて分からない。

 「この辺り一帯が古戦場だったんですけど。」

 そりゃそうだろう。石碑のあるところだけが古戦場だったわけがない。

 とりあえず京王線の下を潜ってしばらく行くと、三叉路があって左の道を行くといいことが分かった。

 三叉路に着くと、左の道がすなわち鎌倉街道だった。この道を右に行くと甲州街道と交差する。府中の高札場があった「札の辻」に出るのだ。

 左へしばらく行くと、分倍河原古戦場跡地の石碑が見つかった。

 先ほどの女性の話では、散歩緑道が整備された時に、ここへ移設されたのだという。

 鎌倉幕府が滅亡させられてから、行政道としての鎌倉街道は役目を終えた。

 徳川家康は江戸に入府してから10年余り後、慶長8(1603)年に江戸の日本橋を起点とした行政道を、鎌倉街道を手本にして整備させた。それが現在も続く五街道である。

 鎌倉街道は江戸時代を通じて余り大した働きもしなくなったが、明治に入ってからは、八王子産の生糸を外国へ輸出するために横浜港へ運ぶ「シルクロード」として大いに活用されることになった。

 それで今も海へ出る道として、大いに利用されているわけである。

<2013.10.15>

 

第61回〈品川宿へ〉

 江戸四宿のうち残る一つが品川宿だ。東海道五十三次の第一宿である。

 東京新聞の散歩記事「どんぶらこ」によると、昔の東海道の幅のまま整備されて、地元の商店会が観光に力を入れているという。だから、というわけでもないが、全然期待していなかったのだ。

 京浜急行品川駅から一駅だけ乗って、北品川駅で下車。改札を出て左へ。踏み切りを渡って行くと、旧東海道に出る。

 あれっ、おかしいぞ。品川駅から「南下」したのに、なぜ「北」品川なのか。

 謎はじきに解けるのだが、品川宿の本陣を中央とすると、その北が北品川で、反対の南が南品川で、それでいいのだった。

 というより、品川宿は北品川宿と南品川宿と歩行(かち)新宿の三宿から成っており、北品川宿に本陣が、南品川宿に脇本陣が置かれていたのである。

 宿としての規模は、日本歴史大事典によると、「天保14(1843)年には、宿内総家数1561軒、人口6890人、平旅籠19軒、食売(めしうり)旅籠92軒、水茶屋64軒、を数え、とくに北品川宿近辺は北の吉原と並ぶ南の遊興地となった」とある。

 江戸時代も末の頃の数だが、その規模の大きさがうかがわれる。人口の多さもそうなのだが、遊女を置いていた食売旅籠の数の多さもすごい。茶屋遊びの語源となる水茶屋の数の多さも併せると、「北の吉原、南の品川」というのが単なる言葉遊びでなかったことが分かる。

 廓ものの落語の名作「居残り佐平次」や「品川心中」は品川宿の妓楼が舞台である。

 人口の多さは、また或ることと関係が深いのだが、後でふれることにして、早速歩き始めよう。

 北品川宿を十分も歩くと、左側に「品川宿本陣跡」の石柱が見つかる。

  ふつうはそれだけなのだが、街道と同じほどの幅の入口を入って50メートルほど行くと、そこは公園になっている。そこがかつての本陣だったのだ。

 参勤交代の大名や公家たちの一行が宿泊するのだから、これだけの広さの宿泊所が必要だったのだろう。

 奥に「御聖蹟」の石碑がある。

   何だろう、「聖蹟」とは?

 説明板を読むと、明治元(1868)年、明治天皇の行幸の際に行在所(あんざいしょ)となったのを記念して建てられたのだという。宿駅制度は明治5(1873)年に廃止され、本陣は警視庁病院へ転用され、後に公園に整備された。それで、ここを「聖蹟公園」と呼ぶことにしたのだとか。

 今夏の残暑のきつい時に訪れたので、とても長くは歩けない。土地の人にたずねると、この旧街道は鈴ヶ森の刑場跡のところまで続いていると。

 街道筋には幾つもの横丁があって、入っていくと奥に寺社が、ことにお寺が多くある。法華宗の天妙国寺、法華宗のお寺は初めて見た。

 江戸時代、民衆はそれぞれどこかの寺の壇信徒として人別(登録)されていた。つまり、戸籍がそこにあったのだ。寺々にその人別帳が保存されていた。

 人口7000人に近い品川宿の住民たち全部を人別するには、それだけの寺の数が必要だったのだろう。やがて川に出る。品川橋が架かっている。この川が「品川」なのではなく、これは「目黒川」で、現在は運河をたどって海へつながっている。心なしか、海の匂いがする。

 水上バイクが2台、白波と音を立てて、海へ向かって行く。

 少し下流に古そうな神社が見えてくる。赤い欄干の専用の橋が架かっている。

 これが荏原神社で、天照皇大神を祀る、和銅年間に開かれたとある。8世紀だ。古いねえ。

  

海のそばにある神社らしく、恵比寿さまの、これは新しい石像がユーモラスだ。

 今日は暑いので、新馬場駅近くの中華飯店「一品楼」でおそい昼食を取って、ひとまず帰ることにしよう。

 散歩に出かけるのは、どうしても日曜日になるのだが、ここ品川宿の商店街は休みの店ばかり。活気が全然感じられなくて、拍子抜けしたので、今度はできたら平日に出かけてみよう。

<2013.09.02>

 

第60回〈広小路〉

 江戸東京散歩をしながらコラムを書くようになって、ずっと心に引っかかっていた語に「広小路」がある。

 今では、地名としては上野広小路しか残っていない。地下鉄銀座線にそういう駅があるし、そこから地上に出てみれば「上野広小路亭」という名の寄席がある。

 心に引っかかっていたというのは、小路とは「狭くて細い道」のことなのに、それが「広い」のであって、広小路とは「都市の特に幅の広い街路」ということになっているからだ。小路の反対は「大路」ではないのか?

 何だか形容矛盾のような、変な感じがするのだ。なぜだろう?

 江戸には上野だけでなく、両国、江戸橋、浅草、外神田、本郷などにも広小路があった。火災の際の延焼防止のために設けられた「火除地(ひよけち)」のことで、その機能から恒久的な建造物は周囲に建てることができなかった。

 その代わり、移動可能な店舗・施設が置かれた。矢来(竹や丸太の仮囲い)や葭簀(よしず=大きなすだれを縦にしたもの)で囲った仮設の小屋で、芝居や講釈などが演じられ、また各種の見世物や大道芸などが行われた。

 近世都市における交通、文化、娯楽、情報の中心地だったと、日本歴史大事典には書いてある。

 私には「江戸の遊園地」であったように思えるが。

 中でも有名だったのが両国広小路で、隅田川をはさんで両国橋の両端、東両国と西両国にそれぞれ広小路があった。

 現在、橋の両側に、ここが広小路でしたと記念する碑が建っている。写真は西両国、今の中央区東日本橋に建っているものだ。面白いのは、西両国の碑は両国橋を渡ったところにあるのだが、東両国つまり今の墨田区両国の広小路跡は、少し隅田川の下流の方に建っていることだ。

 例の地名辞典で調べると、やはり「江戸時代の両国橋は、現在よりほぼ50メートルほど下流に架かっていた」とある。

 現在の両国橋は京葉道路を通すために、新たに少し上流に架けられたのだろう。

 広小路の名前が変に感じられたのは、元々大路ではなく小路だったものを拡幅したからだったので、そのきっかけは明暦3(1657)年の大火だった。

 振袖火事と後に呼ばれたこの大火の起こった時、神田川と隅田川で逃げ道を断たれた日本橋側の人々が、この辺りで大勢焼け死んだのだという。幕府はこれを教訓として、隅田川を渡る橋を架けることになり、万治2(1659)年に開橋したのだった。この橋が架かってから、「大橋」の東と西を併せて「両国」と呼ばれるようになって、橋の名称も「両国橋」と呼ばれるようになったのだという。

 実は広小路は、この明暦の大火の後に、次の火事が起こった際の延焼防止のために、家々や寺々を強制移転させて、道路を大幅に拡げたものだったのである。江戸のあちこちに同時に造られたもののようである。

 火除地だから広場のように見えながら、実は道路であって、両側に仮設の小屋が建てられて、そこで小芝居や講釈を演じるのが許されたのだろう。

 それを目当てに人々が集まれば、見世物小屋も仮設され、大道芸人たちも稼ぎに集まっただろうし、その客を目当てに飲食物を商う露店もたくさん出たことだろう。

 西両国広小路の旧跡碑の近くに、唐辛子で有名な薬研堀不動尊がある。

 何だか広小路って、年中お祭りをやっていたところといったイメージがわいてきて、楽しい。

 両国の花火の時を描いた浮世絵があるが、川面に舟が何艘も浮かんでいる。もちろん橋の上は人で一杯だ。

 花火は派手で楽しいものだけれど、大火で犠牲となった人たちの鎮魂も兼ねていたのである。

<2013.08.22>

 

第59回〈二世市川左団次の西洋かぶれ〉

 さて、明治座のことである。

 建物としての劇場のことなら、各種事典類を引けばすぐに出てくる。できるだけ簡略にまとめたら、以下のようになるかな。

 

 「明治座:中央区日本橋浜町2丁目にある劇場。江戸時代末期の富田三兄弟の「三人兄弟の芝居」という菰張(こもばり=むしろで囲っただけの)芝居が前身。明治6(1873)年、両国橋畔での興行禁止によって、久松町へ喜昇座として移転。明治12(1879)年、改築して久松座と改称。火災、台風の被害によって一度廃座した。

 明治18(1885)年、千歳座として再建されて、九世市川団十郎、五世尾上菊五郎、初世市川左団次、いわゆる「団菊左」の出勤する気鋭の座となったが、明治23(1890)年に全焼。

 明治26(1893)年、再建されて日本橋座となるが、初世左団次が座主となって明治座と改称した。

 初世左団次は明治37(1904)年に死去。

 明治40(1907)年、欧米演劇視察から帰朝した二世市川左団次は、翌年興行改革に着手して失敗。大正元(1912)年、新派の伊井蓉峰の手に渡り、大正8(1919)年に松竹の所有に帰した。

 関東大震災、第二次大戦で二度焼失。昭和25(1950)年、松竹から独立。平成2(1990)年6月興行を最後に取り壊され、平成5(1993)年3月、新築なった高層ビルの中に開場した。」

 

 だが、劇場が面白いのは、そこで上演された演目や、それを演じた俳優たちの記憶がつまっているからだ。

 初世左団次が無理をして劇場を手に入れたのは、「座主=旦那」となって、九世団十郎や五世菊五郎と張り合うつもりだったからだろう。「団菊左」というのは、明治時代の名優たちのことなのである。

 初世左団次が亡くなった時、まだ市川莚升(えんしょう)と名乗っていた息子の肩に、明治座と高島屋一門と多額の借金がのしかかったのだった。

 折しも新派の全盛期で、歌舞伎は不振の時代だった。常に演劇革新の意志を抱いていた二世左団次は、シラーの「ウィルヘルム・テル」やユゴーの「エルナニ」を翻案して上演するも不評で、従来の歌舞伎を上演するとやや客が集まるという始末だった。

 ヨーロッパへ演劇視察に旅立つのは、その果ての決心なのである。

 明治39(1906)年12月12日に横浜港から船出し、翌年2月1日にマルセイユに到着。以後、パリ、スイス、ドイツ、イギリス、アメリカと視察、勉強して、8月7日横浜港に戻ってきた。

 ロンドンでは俳優学校にも2ヶ月通って、演技術を学んだ。

 問題なのは、帰国した時、二世左団次は完全な「西洋かぶれ」になっていたということである。

 すぐさま、明治座の興行改革に着手した。芝居茶屋や出方(客を案内したり、飲食物を運んだりする人のこと)を廃止して、現在のようにチケットで入場してもらい、食事は食堂でとってもらうことにした。従業員への心づけ(チップ)を廃止し、女優を起用することも考えた。

 だが、当然といえば当然、芝居茶屋と出方の反対はまことに強かった。生計に関わる重大問題だったからである。出方たちは場内で騒いで上演を妨害した。

 おかげで、劇場改革は明治41(1908)年の正月興行だけで、中止に追いこまれた。

 若いころからの友人小山内薫と自由劇場を創設するのは、翌明治42(1909)年のことである。二世左団次は高島屋一門の役者たちを、ロンドンの俳優学校で促成で学んできた「デルサルト体操」で鍛えて、イプセンなどの近代劇の登場人物を演じられるようにしようとした。

 彼ら一門の役者たちは、歌舞伎で使う筋肉とは全く違うところを鍛えられて、筋肉痛に音を上げた。便所でしゃがめなかったという。(三世市川寿海『寿の字海老』

 笑い話のような実話である。

 ただ、二世左団次は小山内薫だけでなく、松居松葉や永井荷風といったインテリたちと仲よくできて、協力してもらえた稀有な歌舞伎役者でもあった。

が、彼らとの交情についてはまた回を改めたい。

<2013.8.18>

 

(写真は、近藤富枝著『荷風と左団次』河出書房新社、から拝借しました。) 

第58回〈深川江戸資料館とその周辺〉

 期待が大きすぎると、目前の現実との落差に思わず失望落胆してしまうものだ。

 前から二度も訪ねて工事中や休館で見学できなかった江東区深川江戸資料館。三度目の何とやらで、やっと見学できたのだった。

 地下鉄半蔵門線の清澄白河駅で下りて、その名も資料館通りを入って行く。「深川めし」の幟を掲げた店々を通りすごして、資料館に着く。

 入場料400円を払って入る。地下が展示室になっていて、一階の導入展示室に深川ゆかりの江戸の著名人たちの、何といったらいいのか、現代風掛軸になっている紹介を読んで、地下へ下りて行く。

 二階には300席ほどの小劇場があり、一階にも200名のレクホールがある。ええっ!この建物全体が江戸資料館ではないのか。

 地下に常設展示室―江戸の町並み再現―と企画展示室がある。

 その常設展示室に呆れたのだった。それほど広くない空間に、大店(と土蔵)から船宿から八百屋、つき米屋から火の見櫓から猪牙船から屋台のそば屋、天ぷら屋から長屋まで、これでもかとつめこまれているのである。

 江戸の町並み再現だから、つめこみたい気持ちは分からないでもないからよしとして、呆れたのはその演出された「古さ」だった。小汚いほどに「古びて」いるのである。まるで江戸時代からそのまま持ってきましたと言いたげな「古汚さ」なのだ。

 江戸の町がこんな何十何百年もの古さを帯びていたわけがない。

 江戸は火事の町だったのだ。幾度もの大火で焼失し、その度にすぐ新しい木材で(当たり前だが)再建されたのだ。そのために深川には「木場」があったのだ。

 許せないのは、長屋の屋根に人形の猫が置いてあって、この猫(人形)が何分かおきに化け猫のような恐ろしい声で鳴くのである。

 私は化け猫が鳴き声を上げる度にぎょっとした。

 企画展示室の「江戸の七不思議」展をざっと見て、そそくさと資料館を後にした。

 悔しいねえ、このまま帰るのは。

 そこで思い出したのが、地図を見ていた時に気づいた、資料館の南へ伸びる「江戸の町は寺だらけ」の事実だった。

 資料館の隣の浄土宗霊巌寺から、南の日蓮宗浄心寺までの間に二十幾つもの寺と墓地が集中しているのである。住居表示で言うと、江東区三好1丁目から平野2丁目までの一帯である。

 ここを散歩してみよう。

 まず霊巌寺。この寺には松平定信の墓所があるが、入れない。地蔵を拝んでから出発しよう。

 出世不動尊のある長専院、いい風情だねえ。

 

 コンクリートの建物に入っている小さなお寺たち。それぞれのお寺の名を冠した墓地が集まっている墓地群。

 心がようやく安まってくる。

 しかし、なぜこの一帯にこんなに寺が集中しているのか。鈴木理生の『江戸の町は骨だらけ』(ちくま学芸文庫)によれば、大火がある度に火除け地を造るために寺々が移転させられたのだった。霊巌寺も明暦の大火で霊巌島から深川に移転しているのだった。

 ここ深川の「江戸の町は寺だらけ」も、江戸の大火か関東大震災か昭和20年の大空襲で焼けた寺が移転させられてきたのではないか。

 その理由のヒントになりそうなものが、南端の浄心寺の境内にあった。大きな寺だ。山門の左側にあるモニュメントには、関東大震災の犠牲者の碑だと彫ってある。

 大正12(1923)年9月1日に関東を襲った直下型大地震と大火災で、死者・行方不明者14万3000人、東京だけで死者が6万人を超えた。全壊家屋13万戸、焼失家屋46万5000戸の被害が出た。

 モニュメントに合掌して、帰路につく。ああ、無駄な散歩に終わらなくてよかった。

 

<2013.7.19>

 

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