江戸亡霊地                            武田清

連載コラム「江戸の亡霊地」 付録篇

第95回<神田三河町>

 神田三河町といえば、ごぞんじ半七親分が女房のお仙と暮らしていた町である。

 なぜか架空の町だと思いこんでいた。

 ひとつには、愛用する江戸東京地名辞典を引いても項目として出てこなかったからだ。

 もうひとつには、『半七捕物帳』を読んでいて、どの話だったか、日本橋の照降町という町名が出てきて、「嘘くさい町名だなぁ」と思ったことがあったからだ。

 すべて私の勘違いだった。

 神保町を例にとればよく分かるが、正式の住居表示は神田神保町でも、誰もそうは呼ばず、ただ神保町と呼んでいる。

 それで、三河町と引いたら出てきたのだ。

「千代田区内神田1丁目と神田司町(つかさまち)2丁目と神田美土代町(みとしろちょう)。家康の入国の時、従ってきた三河の町人たちに宅地として与えられた町。当時、神田の内は通り町(筋違御門内から日本橋、京橋へ通じる大通り)と三河町だけが町で、あとは武家地か田畑ばかりだった。」

 江戸時代、この町には名のある医師が多く住んでいた、とある。

 塩見先生の案内で日本橋元吉原を歩いた時、渡された古地図に何と「照降町(てりふりちょう)」とあったのだ。本当にあった町だった。例の地名辞典にも出てくるのである。

 雪駄屋(照ってほしい)と下駄屋(降ってほしい)が軒を並べていた町で、「照れ降れ」と願っていたから、この名が付いたという冗談のような説明がしてある。


 そんなわけで、今回は神田三河町を歩いて、半七親分の家の跡を……嘘です、冗談です。

 綺堂は江戸の町の地理を実に忠実に再現していることが分かったので、ただ歩いてみるだけです。

 電子書籍端末で読み始めた『半七捕物帳』だったが、ついに全68篇プラス・アルファを読了した。プラス・アルファというのは、最終の「白蝶怪」は半七の養父吉五郎親分の捕物話で、半七は一度も登場しないからだ。

 お仙は吉五郎親分のひとり娘で、子分の一人だった半七は娘婿になって、岡っ引きの株を継いだのである。

 そんなわけで、すっかり春めいてきた神田の町をJR神田駅の西口から歩き始める。

 内神田1丁目の鎌倉橋のところから北へ歩き始めると、一本目の横丁の左に『半七捕物帳』にも出てくる御宿稲荷社が見つかった。何と読むのだろう。おんやどいなり、か。


 大通りに戻ると、鎌倉河岸ビルというのがある。横丁に入ると古い感じの家々があり、大通りに戻ると近代的なビルの列、そんな街風景である。

 もう神社すら見つからないまま美土代町へ入る。さらに古びた、飲み屋の多い町。右側の司町2丁目に入っても同じような町。地図上は結構広いと思ったが、意外と狭いエリアだった。

 もう靖国通りに出てしまう。神田小川町(おがわまち)になる。スポーツ用品店が軒を連ねている。このまま神保町へ出るのではつまらないから、小川町の裏道へ入る。

 ここも出版社の多い一帯である。

 元主婦の友社、現日大法科大学院というより、カザルス・ホールの裏手に出た。ここに太田姫稲荷社がある。

 蜀山人こと太田南畝が、その晩年、太田姫稲荷前に家を建てて住んだ、と地名辞典には出ているが、この神社はもと神田駿河台4丁目(JR御茶ノ水駅前)にあったものが、駿河台1丁目に移転してきたとあるので、蜀山人の家はここら辺にあったのではなかったようだ。

 散歩を終える。もちろん、半七親分の家の跡は見つからなかったが、こんな家に住んでいたのかなあと思わせる、古い構えの町家が、美土代町や司町には結構あったのだ。

<2015.03.21>

第94回<日本橋から神田へ>

 散歩は続く。

 日本橋の芝居町が、浅草寺北東の猿若町へ移転を命じられたのは、天保13(1842)年のこと。吉原移転の200年ほど後のことだが、吉原以上に往時をしのばせるものは何にも残っていない。中央区の説明板があるだけだ。

 歩いている途中で、辻村ジュサブローの人形館を見つけた。そういえば、芝居町には江戸操り人形の結城座、薩摩座もあったのだった。

 この後、一行は日本橋小舟町を歩きながら、川や運河が埋め立てられた道路を探した。この埋め立てが一帯の地理を変えて、分からなくしてしまったのだ。昔の芝居町が、いま日本橋堀留町1丁目になっているのは、意味深長である。

 Wさんいわく、埋め立てで出来た道路にはマンホールのフタが多いので分かるのだと。なぜフタが多いのかは、聞きもらした。

 元吉原散歩は終わったし、寒い風も吹き出してきたので、もう神田駅へ向かってもいいのだが、江戸橋を通って日本橋へ向かっているのは、これもWさんが本石町(ほんごくちょう)1丁目へ行ってみたいと言うからである。

 はて、日本橋本石町1丁目といえば、かの日本銀行があるところではないか。

 そう言うと、塩見先生が「そうそう、今、日銀のあるところが、弾左衛門屋敷があったところなんだよ」と教えてくれる。

 最初はこんなところにあったのか、と驚く。ここから鳥越へ移転し、さらに今戸へと移転して行ったのである。

 日本橋の上で記念撮影をする。橋の周りには色々なモニュメントがある。五街道の元標があり、魚市場発祥の碑がある。

 三越本店と三井本店の間を抜けて、中央通りに出る。三井の壮麗な建物に圧倒される。

 中央通りを北へ行くと、神田駅までは目と鼻の先だ。こんなに近いとは思わなかった。

 神田駿河台で働いていながら、神田駅近辺にはめったに来ることがない。そのうち一度ゆっくり歩いてみよう。

 塩見先生は神田駅のガード下のアーチの中へ出たり入ったりしている。Wさんの情報によると、文春新書の4冊目のテーマは「闇市」なのだそうで、戦後の闇市があった所へ出没しては、写真を撮っているのである。

 もう日が暮れてきた。最終目的地は三州屋という大衆酒場である。Wさんがわれわれの席を確保してきてくれる。

 昔、東京へ出てきた頃は、新宿にも池袋にもこんなふうな、コの字型のカウンターがある大衆酒場があちこちにあったものだ。今は珍しくなった。

 散歩の労をねぎらいながら乾杯する。他の3人のメンバーを初めて紹介される。彼ら4人は、塩見先生が講師を務める「文藝学校塩見組」の生徒さんたちなのだった。

 さまざまな話をしたのだが、いちいち書き切れない。まず私自身覚えていない。

 ひとつだけ覚えているのは、私が山形県酒田市の出身だと話した時、塩見先生が「酒田にも部落差別がありました?」と尋ねられたことだ。

 部落差別という言葉を知ったのは、小学校高学年の時、担任の先生から教えられたように記憶している。

 そんな差別が自分の町にもあるのかと、父親に尋ねた。父は「かつてはあったが、今はほとんどない」と答えた。それなのに「あそこのスポーツ用品店は部落出身の人がやっている店だ」などと教えてくれるのだ。

 酒田市は昭和51(1976)年の大火で中心部が焼失して、復興した時には町の様相が変ってしまった。そのスポーツ用品店も今はない。

 最後に、塩見先生にお願いをして、ツーショット写真を撮らせていただいたので、載せることにしよう。

<2015.03.15>

第93回<日本橋元吉原散歩>

 昨年末、塩見先生を「師匠」と慕うお弟子さんの一人、Wさんから「師匠の案内で元吉原散歩に出かけます。参加しませんか? 二次会は神田の三州屋で(こちらがメインです)」とお誘いのメールが届いた。

 一も二もなく「参加します。ぜひご一緒させてください」と返信した。

 何しろ『吉原という異界』(現代書館)という著書がある塩見先生が案内してくださるのだ。いやがうえにも期待が高まっていく。

 一月十日の土曜日。地下鉄日比谷線人形町駅4番出口に集合。塩見先生とは初対面なのだが、御著書を結構読んでいるし、写真でお顔を拝見しているから、初対面のような気がしない。何度も会っているような不思議な感じ。

 塩見先生とお弟子さんたち4人、そして私と総勢6人。先生お手製の地図を渡され、出発。

 出口を地上に出て、すぐ左手に「玄冶店」(げんやだな)の跡がある。神社のようになっている。

 粋な黒塀 見越しの松に あだな姿のお富さん ♪

 春日八郎の「お富さん」の歌詞の一節が口に浮かぶ。もっとも、こっちはもじって「源氏店」だが。

 すると、塩見先生がすかさず「妾宅ってことだよね」と。そうか、妾宅のシンボルなのか、粋な黒塀と見越しの松は。

 玄冶店は幕府の医師岡本玄冶の拝領町屋で、役者や芝居者が多く住んだという。今は狭い小路に小料理屋などが並んでいる。

 日本橋のこの地(人形町近辺)に吉原ができたのは、元和3(1617)年。浪人庄司甚右衛門が幕府の許可を得て、江戸市中のすべての遊女屋を集めて、傾城町を作ったのが初め。

 葭(よし)の生い茂る埋立地であったところから「葭原」と称したが、後に縁起のよい「吉原」にした。

 塩見先生によると、明暦3(1657)年の大火が起こる前に、浅草北へ移転が決まっていたのだが、辺鄙な場所なのでぐずぐずしているうちに火事で丸焼け、翌年に移転せざるをえなくなったのだと。

 現台東区千束の方が「新吉原」と呼ばれたので、日本橋の方は区別するために「元吉原」と呼ぶことになっている。とはいえ、往時をしのばせるものは何もない。いや、「大門通り」という通りと呼称が残っている。

 昔のままなのは稲荷社だけである。その一つ、三光新道(じんみち)にある三光稲荷神社。

 塩見先生の後について歩いていくうちに、私の頭の中の地理感覚がおかしくなってくる。どこをどう歩いているのか分からなくなっている。

 目的地が決まっている場合、出かける前に私は地図で予習する、つまり方向感覚をつけてくるのだが、今回はそれを怠った。

 せっかく案内してもらっているのに、私は失礼なことに「ダメだ、一人で歩いてみないと、どこを歩いているのか分からない」と口走ってしまう。

 すると、塩見先生は「そうそう、一人で歩いてみないと分からないんだ」と優しく返してくださる。

 やがて、甘酒横丁に出る。本当に甘酒を売っているお店があって、甘酒を買い求めてここで小休止する。すごい人出だ。ここに来る途中に、中央区教育委員会の設置した「元吉原」の説明板があった。

 甘酒横丁を北へ行けば、明治座のある浜町へ出る。ようやく地理感覚がつかめてきたが、それでも元吉原近辺については混乱したままなのが残念だ。

 今度、予習して一人で再訪してみよう。

 この後、一行は芝居町の跡(堺町、葺屋町)を通って、江戸橋、日本橋へ向かうのだが、それはまた次回へ。

<2015.03.03>


第92回<綺堂随筆3>

 綺堂の随筆は本当に多岐にわたる。

 身辺雑記、芝居話、昔話、趣味話、紀行、怪談奇譚、怪奇探偵話と範囲が実に広い。

 中に、確かに小説家、劇作家だ、只の随筆家ではないと思わせる趣向のものがあって、思わず読みふけってしまうのだ。しかも、それが長くないと来ているから、その腕前に感嘆させられるのである。

 今回紹介するのは、『江戸っ子の身の上』(河出文庫)に収められた「助六身の上話」という十頁足らずの随筆である。

 「ある雑誌社からその「助六」に就いてなにか書けという註文をうけた。しかも演劇や浄瑠璃でおなじみの助六ばかりでは勘弁ができない。そのほんとうの事績をも調べて書き出せという。わたしもこれには頗る弱った。」

 こんなふうに始まるのだが、机の上にうずたかく積んだ参考書の山に、まず「うんざり」するのである。窓にさしこむ春の日はあたたかく、ただぼんやりしていると、何だか薄ら眠いような心持になって、いつの間にかうたた寝をしてしまうと、夢の中で(たぶん)頭の上からせせら笑うような「馬鹿野郎、しっかりしろ」という声が聞こえてきた。

 おどろいて眼をあくと、机の前にひとりの男が突っ立っていた(という趣向なのである)。

 綺堂が「君は誰だい」訊ねると、

 「おれを知らねえか。花川戸の助六だよ」とこの不思議な闖入者はせせら笑った。

 綺堂が「君は誰だい」と訊ねたのは、この男の風俗(身なり)がおなじみの助六のそれではなかったからだ。

 「三升と牡丹の繍(ぬい)をした黒つむぎの小袖の巾広の帯をしめて、柑子(こうじ)色の木綿の鉢巻をして、紺足袋をはいて、長い刀を一本さしていた。」

 確かに、現在歌舞伎の舞台に観る助六の扮装とはまるで異なっている。絵にするとこんなふうか。

 前にも一度書いたが、助六の原型は上方の心中物で『千日寺心中』というものだった。大坂の万屋助六というどら息子と揚巻という遊女の、実際にあった心中事件を浄瑠璃にしたものだ。

 これがいかなる経緯で江戸に入り、後の『助六由縁江戸桜』になって、助六の扮装がガラリと変貌してしまったのか。

 綺堂はその身の上を助六自身に語らせるのである(そういう趣向にしてある)。

 助六の扮装をガラリと変えたのは、二代目市川団十郎で、寛延2(1749)年に三度目に舞台にかけられたときだという。

 「団十郎も抜目のねえ奴さ。その当時の蔵前風というのを真似て、黒羽二重に杏葉(ぎょぎょう)牡丹の五つ紋、むらさき縮緬(ちりめん)の鉢巻、鮫鞘(さめざや)の刀に一つ印籠というこしらえに変えてしまったのだ。それだから、おれも今日はわざわざ昔のなりで訪ねて来たのだ。よく覚えて置け」と助六自身が解説してくれる。

 ピンとこない方のために、現市川海老蔵扮する助六の写真を載せる(松竹さん、無断借用ごめんなさい)。

 さて、問題は花川戸助六にモデルはいたのかどうかだ。

 当時、吉原の三浦屋に総角(あげまき)という花魁がいて、二代目団十郎は上方の揚巻と折衷して、三浦屋の揚巻とした。その相手の男をどうするか。

 その頃、浅草の花川戸に助六という侠客のような男があった。ということに従来なっているのだが、当の助六は、「本人のおれは知らない」と無愛想なのだ。

 助六、助七、助八などという名前の人間はざらにいて、珍しい名前などではなかったのだ。

 二代目団十郎と作者津打半左衛門が相談の上、浅草の侠客実は曽我兄弟の弟五郎に、花川戸助六という名前を付けただけだったのである。

 だが、不思議な闖入者助六は、

 「こんなことを一々講釈していたら際限がねえ。江戸っ子は気がみじけえや、おらあもう帰るよ」と言って、姿を消してしまった。

 そんな訳で、その他の事柄についても面白いのだが、綺堂随筆を直に読んでみてください。

 (絵と写真は、『役者の氏神二代目市川団十郎』田口章子著、ミネルヴァ書房、より拝借しました。)

<2015.02.22>

第91回<もういちど市村座跡探し>

 ネットで検索したらすぐに分かった眞砂座跡探し。こんなことなら、徒労に終わった市村座跡も、検索してみたらすぐに分かるのではないか?

 その通り、すぐに分かった。

 それも台東区教育委員会のHPだ。台東区台東1丁目5。跡地に碑が建てられて、説明板も設置されているという。写真付きで紹介されている。

 何だか悔しいので、もういちど足を運んでみることにした。自分で言うのも何だが、知識として分かっただけでは満足できないのだ。ただ、しつこい性格なだけかもしれないが。

 前回と同じように清洲橋通りを南下していく。右隣りに佐竹通り商店街が並行しているが、今日はそちらには行かない。

 やがて通りの向こう側に、鳥越のおかず横丁の入り口が見えてくる。

 ここから台東1丁目になる。

 だが、1丁目5番地の次の番号がどんな順序で付いているのか、よく分からない。地図で調べると、三井記念病院の向かい、凸版印刷の建物のある辺りらしい。

 江戸以来の古い町並みには、時としてこういうことがある。春木座跡を探した本郷3丁目もそうだった。

 そんなに簡単に見つかるものではないのである。

 うろうろしていると、二長町町内会の案内板が見つかって、そこに市村座跡の碑は凸版印刷の敷地内にある、と書いてある。

 それなら楽かというとそうではなく、凸版印刷の3号館はただいま工事中で、資材がたくさん運びこまれていて、探しにくいのだ。結局、グルッと回って表側へ出た、敷地の本当に左端にそれは建っていた。

 説明板も建っているので書き写す。HPと同じだからそんなことしなくていいのだが、ここまで読んで下さった方々のために。

 明治25(1892)年11月、下谷二長町1番地といったこの地に、市村座が開場した。市村座は歌舞伎劇場。寛永11(1634)年日本橋葺屋町に創始し、中村、森田(のち守田)座とともに、江戸三座と呼ばれた。天保13(1842)年浅草猿若町2丁目に移り、ついで当地に再転。

 二長町時代の市村座は、明治26(1893)年2月に焼失。同27(1894)年7月再建して東京市村座と呼称。大正12(1923)年9月の関東大震災で焼けたが再興。昭和7(1932)年5月に自火焼失し、消滅という変遷を経た。

 明治27年再建の劇場は煉瓦造り三階建てで、その舞台では六世尾上菊五郎、初代中村吉右衛門らの人気役者が上演した。いわゆる菊吉の二長町時代を現出し、満都の人気を集めた。しかし、その面影を伝えるものはほとんどなく、この裏手に菊五郎、吉右衛門が信仰したという、千代田稲荷社が現存する程度である。

 やはり実際に足を運んでみてよかった。面影を伝えるものが何も残っていなくても、その土地の気というものを感じるからである。

 市村座が移転してくるまでは寂しい町だった下谷二長町も、移転後はずいぶんと栄えたのだそうである。そりゃそうだろう。歌舞伎の大劇場ができれば、芝居のある月は大勢の観客がつめかけて、その飲食、休憩、土産だけでも馬鹿にできない需要ができて、消費が産み出される。

 劇場というのは本来そうした複合産業なのである。歌舞伎座とその周辺を見てみれば、なるほどと納得できる。

 それにしても、煉瓦造り三階建ての劇場を一目見てみたかったものである。

<2015.02.02>

第90回<神農祭> 

11月23日は、もう一度湯島聖堂を訪ねてみることにしていた。
 一年にこの日だけ、聖堂内にある神農廟の扉が開かれると、これは『テキヤはどこからやってくるのか?』(厚香苗著、光文社新書)を読んで知ったからである。

 半年待って、ようやくその日が来た。
 「神農」という神様は一般にほとんど知られていない。むろん私も知らなかった。
 どんな神様なのだろうか。なぜ一年に一日しか廟が開かない(参拝できない)のだろうか。それから、なぜテキヤ(露店商)がこの神様を信仰するのだろうか。疑問だらけである。
 JR中央線快速でお茶の水駅で降りる。聖橋を渡ればすぐだ。午前中に着いてしまう。
 入ると門の前に、「神農祭」(しんのうまつり)の赤い幟が立っている。

 神農廟は聖堂内の奥まったところにあるというのだが、どこから入って行くのか。係りらしき人が立っているので尋ねると、受付が12時30分から、1時30分から神農祭が開始されて、一般の参拝は2時半すぎからです、と。
 周囲に露店なんて一軒も出ていない。
 先に昼食を取ってくることにして、秋葉原を通って上野のいつもの店まで歩いて行くことにした。
 日曜日だから秋葉原はすごい賑わいだ。中央通りを末広町の方へ歩くと、メイドたちが歩道で呼びこみをやっている。中に大分年のいったメイドもいるが、年齢制限なんかないのかしらん。
 神農とはどんな神様なのか。会場でもらったパンフレットにある解説が簡にして要を得ているから、それに基づいて紹介すると。
 神農とは、古代中国の伝説上の帝王である三皇の一人で、人身牛首の炎帝と結びついて炎帝神農氏とも呼ばれる。
 中国古典籍によると、初めて農具(鋤、鍬)を作り、人民に農耕を教えたという。また、人民が病気で苦しんでいるのをみて、百草をなめて医薬を作り、さらに農作物などと他の物品を交換する市場を設けて交易を教えたという。
 日本では、江戸時代から医薬の始祖として、神農は東洋医学者の尊崇を集めてきたが、交易の神としての神農も商業に携わる人々の間で根強い人気を博し、商業神として現在も各地で祀られている。
 つまり、医薬の神、農業の神、鍛冶の神、商業の神、易の神を兼ねた、人民への慈愛にあふれた神様なのである。
 テキヤの中に神農を信仰する人々がいるのは、商業神としてだけではない。現在テキヤと呼ばれる人々は、江戸時代、香具師(こうぐし、やし)と呼ばれていたが、様々な芸や口上をして客を集め、薬を売る商人だったのである。
 厚香苗が紹介している、調布市のテキヤの親方が所有している神農像は軸物でこんな風貌である。

 どこが人身牛首なのか、よく分からない。
 聖堂の廟に祀られている神農座像は珍しい木の彫像だそうで、三代将軍家光の発願によって製作されたとする説が有力なのだとか。
 神農祭が始まる。神官は、廟の向こうに見える神田神社(明神)から来ている。来賓はというと、医学会、薬学会、薬剤師会など、医薬関係の人たちばかりで、商業関係(つまりテキヤ関係)の人は見当たらない。一般の参拝客は百人ほどである。

 参拝してから、ぶしつけに廟の中へスマホやデジカメを向けて撮影している。私にも順番が回ってきて、参拝してからデジカメで写すが、罰が当たったのかピンボケになっていた。すぐ画面を確認しようにも、私は老眼だから同じこと。
 しかたがないので、パンフレットに載っていた映像を写す。

 この座像は、塩見先生の『江戸の貧民』にも載っている。
 神農祭は文政5(1822)年にコレラが流行した時から盛大に行われるようになったと言われる。疫病除けの張子の虎を神社で頒布するのだそうだが、聖堂ではそんなもの売っていない。
神農祭が終わる。主催者の、聖堂を管理する斯文会(しぶんかい)理事長石川忠久氏の挨拶がある。
 おおっ、石川先生お久しぶりです。
 学生時代に石川先生の漢文の授業を受けていたのだ。朗々たる声の中国語で漢詩を朗読するのを聴いて、脚韻とか平仄とかいうことが耳から納得できて感激したのだった。
 以来、漢詩が大好きになった。

<2015.01.26>

第89回<劇場跡探し・補遺>

 勤め先の図書館へ行ってみた。演劇百科大事典で眞砂座を引いてみるためである。

 第5巻に出ていた。木村錦花が執筆している。


 東京の劇場。日本橋中洲河岸にあった小劇場。芝開盛座の興行権によって新築したもので、座主佐々木長十郎、のちに佐々木政次郎。明治26(1893)年1月2日に開場式をあげた。当時の観客定員1122人。のちに大谷馬十が座頭となり、市川八百蔵(のちの七世市川中車)、市村家橘(のちの十五世市村羽左衛門)などが出演して大歌舞伎を見せた。その後、新派の伊井蓉峰の本城となって、明治36,37(1903,4)年ごろには近松劇研究をとなえて心中物などを盛んに上演した。大正6(1917)年12月、座主の債務関係から廃座するに至った。


 さすが演劇百科大事典だ。この事典は河竹繁俊監修、早稲田大学演劇博物館編で、昭和36(1961)年に平凡社から刊行されている。

 それにしても、客席数1122で「小劇場」なのだ。大劇場の歌舞伎座、新富座、市村座、春木(本郷)座、明治座は観客定員一体どれくらいだったのか。それから伊井蓉峰が本拠にしていたのがたったの二年であったことが意外である。

 ついでだから、自分への課題とした「男女合同改良演劇」についても調べてみる。「改良」の二文字が入っているから、明治19(1886)年の演劇改良会の「意見」を受けたものだろうと察しがつく。

 済美館(せいびかん)を引いたら出てきた。秋葉太郎が執筆している。


 劇団名。「さいびかん」ともいう。明治24(1891)年11月5日を初日に、浅草吾妻座を済美館と改称、依田学海を指導者として、伊井蓉峰、水野好美、千歳米波らが男女合同改良演劇の新劇団を組織し、依田学海の『政党美談淑女操』、川尻宝眞の『名大滝怨恨短銃』を上演した。

 この新劇団は同年6月東京に旗揚げした川上音二郎一座に対する不満から、また当時の演劇改良の声に動かされたものとも見られる。したがって、新派とはいえ壮士芝居、書生芝居的な政治臭はなく、いわば芸術至上を意図したものであった。

 演劇改良意見通りに、合方(三味線伴奏者)、床(三味線伴奏者の座る台)、ちょぼ(義太夫節の語り)は全廃。女の役は女優が演ずるという写実主義をかかげたものの、一座の男女優間に芸術上の意見の対立や、勢力争いなどがあって団結を欠き、それが舞台にも反映して、この旗揚げ興行は芸術的にも興行的にも失敗した(以下省略。一部説明を補足した。吾妻座は前の宮戸座である)。


 これで依田学海は指導者の座を降り、手を引くのだが、そもそも彼はどんな人だったのか興味が湧いてきたので、少しだけ調べた。

 依田学海(1833-1909)。

 漢学者(儒者)、演劇評論家、劇作家。演劇改良の局外指導者の先駆をなした。文部書記官時代、松田道之らと十二世守田勘弥や九世市川団十郎に演劇改良の趣旨を吹き込み、新富座開場公演『松栄千代田神徳』に参与、団十郎の求古会にも関係した。

 退官後は演劇改良会創立に参加、改良脚本『吉野拾遺名歌誉』を発表。

 その後、日本演劇矯風会、日本演劇協会にも参加したが、急進的、非妥協的改良論により疎外され、その実現を伊井蓉峰の済美館に託したが、『政党美談淑女操』上演だけで終わった。

 いつの世にも、こういう非妥協的な態度で嫌われ、疎外される正論家がいるものである。

 私も性格的に似たところがあるので、気を付けなければ…。

<2014.12.27>

第88回<無感動の眞砂座跡探し>

 その跡地を探し訪ねてみたい劇場がもう一つあった。

 それは日本橋中洲(なかず)にあった眞砂(まさご)座で、新派のスター俳優・伊井蓉峰(いいようほう)が本拠にしていたと言われる。

 だが、例の地名辞典にも項目として出ていない。地図上、日本橋中洲とは日本橋箱崎町の北隣の、隅田川に面した狭い町である。

 行ってみれば意外と簡単に見つかるのではないか。そう思ったが、ふと今夏の市村座跡探しの徒労を思い出した。

 ネットで検索してみるか?と、われながら珍しく思ったのである。

 検索するとアッという間に出てきた。中央区観光協会特派員ブログというもので、沢山の人が特派員に名を連ねている。私と同じような趣味を持っていて、各地を訪ね歩いている人がこんなに大勢いるのだ。写真付きで紹介されている。

 そこは清洲橋西詰めすぐのマンションで、敷地内に碑が建てられているという。住居表示まで、日本橋中洲5-1だと。

 12月の第一土曜日。冷たく晴れわたった空の下、私は義弟と両国国技館で落ち合った。大相撲初場所中日のチケットを購入するためだ。運よく、正面二階席第一列の座席が入手できた。

 彼はこれから自宅に戻って掃除をすると言うので、JRの駅前で別れて、私は清澄白河へ行ってみることにした。

 幾つか相撲部屋が集中している所でもあり、また中州まで歩いて一番近い所なのである。地下鉄大江戸線の清澄白河駅で下車、A1出口を出ると、小名木(おなぎ)川に架かる高橋のたもとに出る。

 ここから川沿いに歩いていくのである。

 大嶽部屋、高田川部屋、北の湖部屋と見て歩き、清洲橋を渡る。エネルギーを感じさせる見事な橋である。

 橋を渡って西詰め、すぐに見つかるかと思ったが見つからない。周囲を二周してしまう。日商岩井日本橋浜町マンション、真っ白の古いマンションである。

 碑が小さすぎて見過ごしてしまったのだ。

 碑の右脇にプレートが埋めこまれている。こう書いてある。

 夏目漱石の「吾輩ハ猫デアル」は、小山内薫によって脚色された。伊井蓉峰らが出演し、明治39(1906)年11月3日から30日にかけて上演された。

 平成十五年十月吉日

          早稲田大学十四代総長  奥島孝康 識


 これで終わりである。感激も何もない。無感動のままである。

 ネットで検索するのは一つの知識を手に入れるだけで、そこから先へと続いていかないのである。眞砂座はいつ建てられて、いつ無くなったのか。そもそも、なぜ早大の総長が眞砂座跡の碑を建てたのか、何も分からないままだ。

 実は何を調べても、眞砂座の沿革は分からないのである。今度、図書館で演劇大事典でも引いてみよう。

 しかたがないので、伊井蓉峰(1871-1932)を調べてみた。

 新派俳優。本名北庭申三郎、写真師北庭筑波の息子として東京に生まれる。明治24(1891)年、銀行勤務を辞めて川上音二郎一座に参加。すぐ退座し、同年、依田学海の後援で男女合同改良演劇を標榜して済美館で旗揚げ。以後、新派の劇団を移り歩いた。明治28(1895)年、佐藤歳三、水野好美と共に「伊佐水(いさみ)」演劇を興し、「心中天網島」をはじめ、近松の作品を忠実に上演、鴎外の戯曲や、漱石、紅葉、蘆花その他の文芸作品を脚色して上演した。

 大正4(1915)年の新派大合同劇では座長を務めた。優れた容姿と写実的な演技で、河合武雄、喜多村緑郎と新派の三頭目時代を現出した。代表的な役々に、「不如帰」(蘆花)の武男、「金色夜叉」(紅葉)の貫一、「婦系図」(鏡花)の主税、「二筋道」(瀬戸英一)の阿久津など。

 大正元(1912)年から五年間、明治座の座主となった。

 芸名は「いい容貌」から付けたと言われる。

 男女合同改良演劇というのが頭に引っかかって離れない。男女合同する演劇というのはかつて日本には無かったからである。それが明治時代に入ってしばらくしてから許されるようになったのだ。自分への課題としよう。

 帰りは浜町まで歩いて行った。明治座の横の空き地でもちつき大会が開かれていて、賑やかでよかったね(寒かったけど)。

<2014.12.14>


第87回<綺堂随筆2>

 福引で当たって、私もついに電子書籍端末のユーザーになった。三省堂のブックリブ。端末で本を読むだけの単純なものである。

 何冊読んでも置き場所は一つ。また、紙の本とちがって、品切れということがない。良いことづくめである。文字の大きさが5種類から選べるのがうれしい。

 それまで電子書籍に故なき偏見を抱いていたようである。

 おかもときどう、と入力して検索すると、何と『半七捕物帳』が青空文庫というところから0円でダウンロードできるのであった。

 笑われるのを承知で言うと、驚いた。

 以来、通勤の電車の中で読みふけっている。

 『半七捕物帳』で思い出したのが、綺堂随筆『江戸のことば』(河出文庫)である。

 この中に収められた「『半七捕物帳』の思い出」によると、綺堂がこれを書こうと思い付いたのは大正5(1916)年、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの「回想」、「冒険」、「帰還」の三冊を<原書で>集中的に読み終えた時のことだったそうだ。

 探偵物語を書いてみようと思って考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものがなかったということだった。

 「現代の探偵物語を書くと、どうしても西洋の模倣に陥り易いおそれがあるので、いっそ純江戸式に書いたならば一種の変った味のものが出来るかも知れないと思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引きなどの生活に就いても、ひと通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。」

 こうして書き始めて、人気を得て、四十数篇の物語を書くことになるのだが、よく尋ねられたが「半七老人は実在の人か」ということだった。

 綺堂は、「勿論、多少のモデルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください」とかわしてきた。

 だが、「半七紹介状」という随筆を読むと、半七老人のモデルになったある老人との出会いと、その後の交際が描かれていて、「いいなあ」と思わせられるのである。

 それは明治24(1891)年の四月、花盛りの日曜日に、当時20歳の綺堂は浅草公園の惣菜「岡田」で昼食を取っていた時に、一人の老人と知り合いになる。

 隣り合わせた老人は、60前後の、見るから元気のよい老人で、一本の徳利を前に退屈しのぎに猪口をなめている。

 明治の昔は、60歳でもう老人なのだ。

 注文の料理を待っているあいだに、老人が綺堂に話しかけてきた。

 「老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩せぎすの中背で、小粋な風采といい、流暢な江戸弁といい、紛れもない下町の人種である。その頃には、こういう老人がしばしば見かけられた。」

 仲良くなった二人は、この花見日和にと、向島へ廻ることになった。

 言問で団子を、浅草に戻って奴で鰻を馳走になり、帰りは相乗りの人力車に乗って話しながら、半蔵門あたりで別れた。車代も払わせたのだから、綺堂は翌週の日曜日に手土産を持って老人を訪ねた。

 老人の家は新宿といっても、もう淀橋に近いところで、ばあやと二人で閑静に暮らしているのであった。

 歓迎された綺堂は、その後、しばしばこの老人の家を訪ねて、昔の話を色々聞いた。

 老人は江戸以来、神田に長く住んで建具屋を商売にしていたと言ったが、過去のことは多く語らなかった。そして友達に岡っ引きが一人いたので、その友達から聞いた捕物の「受け売り」だとして聞かされたのが、『半七捕物帳』の最初の材料になった。

 綺堂が出会った当時、文政6(1823)年生まれの老人は69歳で、82歳の長命を保って、明治37(1904)年にこの世を去った。

 私が「いいなあ」と思うのは、老人の家をしばしば訪ねて、昔話を熱心に聞いて、それをいちいち手帳に書き留めた綺堂の姿である。そして、それを25年も大事に取っておいた彼の心ばえである。

<2014.12.01>

第86回<宗吾霊堂・続>

 後に失政を悔いた佐倉藩は、宗吾道閑居士の法号をおくり、手厚く冥福を祈ったという記述と、当時の藩主堀田正信が相当変わった人だったというのは、どう結びつくのだろうか。

 日本歴史大事典を引くと、堀田正信について次のように出てくる。

 堀田正信(1631-80):江戸前期の下総国佐倉藩主。(中略)慶安4(1651)年に家督を継ぐ。万治3(1660)年、幕府に無断で領地佐倉に帰り、幕政批判の上書を保科正之、阿部忠秋に提出し、旗本の救済のため領知10万石の返上を申し出る。幕府はこれを狂気とし改易。弟である信濃国飯田城主脇坂安政に預けられる。寛文12(1672)年に若狭国小浜藩酒井氏に預け替えられるが、延宝5(1677)年、許可なく京都に出向いたため、阿波国徳島藩主蜂須賀氏のもとで幽閉される。延宝8(1680)年、将軍家綱の死を聞き、自殺。

 長々と事典の記述を読ませて、ごめんなさい。だが、これは同じ事典の佐倉惣五郎の項目にあった次のことと無関係ではなかった、と思われるのだ。

 「藩の苛政を寛永寺参詣途中の将軍に直訴し、その罪で妻子とともに処刑された彼の怨霊は藩主堀田正信にたたり、佐倉藩が改易される原因をつくったとされる。」

 惣五郎が将軍家綱に直訴して処刑されたのが、承応2(1653)年である。当然、直訴者を出した佐倉藩も無事ではいられなかったろう。厳しく叱責されたはずである。

 惣五郎の怨霊がたたったために、その御霊を鎮めるために宗吾霊堂を建立したというのはうなずけるのだが、それにはこの事件によって藩主が狂気に陥ったという裏面があるように思われるのである。

 ともあれ、今では霊堂の裏手に「宗吾御一代記館」まで建てられ、そこでは義民佐倉宗吾の直訴の一件が、等身大の人形66体を用いて再現されている。

 佐倉惣五郎の生涯は歌舞伎に採り上げられたことはすでに述べた。『東山桜荘子』である。

 旭寿山はこの芝居についても記している。

 「名人」と称された四代目市川小団次は、嘉永元(1848)年に成田山へ参詣した。宿で惣五郎の話を聞いた小団次は、この主人公が自分の役どころにぴったり合っていると思い、何とか脚色をして芝居にしたかったが、詳細な種本がない。惣五郎の一件を書いた読本『地蔵堂通夜物語』を所持している人を知り、借覧した。

 江戸に帰ると、三世瀬川如皐(じょこう)に依頼して脚色してもらったのが『東山桜荘子』なのである。

 一見変な外題だが、江戸時代の芝居の常識で、実名の堀田家とか徳川家とかは、はばかって使用せず、宗吾を当吾とし、佐倉も桜とし、主人公は朝倉当吾とした。時代も室町の東山時代として当局の目を逃れた。

 旭寿山は、「何しろ農民劇であるために美麗な衣装や道具も使用出来ず『木綿芝居』と呼ばれて興行成績も危ぶまれたが江戸ッ子の好みに投じて大評判となり、百四日間と云うロングランとなり小団次の代表作となった」と述べている。

 この芝居は、後に『佐倉義民伝』として長い舞台生命を得て、名優たちによってくり返し上演された。現在も時折上演される。境内には現松本幸四郎が二年前に新橋演舞場で上演した時に、参詣し何か(植木?)を寄進したらしく、そのことを伝える立て札が建っている。

 今どきの天気予報はよく当たる。午後から小雨が降ってくる。雨宿りと思って飛びこんだ門前の「甚兵衛そば」だったが、その美味いこと。

 甚兵衛(ざる)そばとビールを頼んだら、川魚の佃煮と辛みその小皿が付いてきて、仲居さんが言うには「ビールを召し上がって、好い頃合いにそばをお持ちします」と。

 近ごろこんな客あしらいの良いそば屋にめったに出会わないので、しみじみ嬉しかった。

<2014.11.21>


第85回<宗吾霊堂>

 京成電鉄本線の特急に乗ると、佐倉から先は各駅停車になる。京成成田の二つ手前の駅は、「宗吾参道」という一風変わった名前の駅である。成田山新勝寺を訪ねた際にそんな駅があるのを知ったのだが、その瞬間、宗吾とはあの「宗吾殿」のことだとピンときた。

 台東区の寿、バンダイ本社の近くにある、不思議な寺社のような施設である。(第55回参照のこと)

 あれとどんな関係があるのだろう。

 ネットで調べてみると、案の定、佐倉惣五郎を祀った宗吾霊堂という施設で、東勝寺という寺の境内にあるらしい。

 行ってみようと思ったのだが、いかんせん、東京の西部からは確かに遠い。そう思ったのだが、今日は都営地下鉄新宿線の急行で終点の本八幡まで行き、京成八幡で乗り換えたら、意外と近かった。

 駅を出るとすぐに参道の入り口があって、巨大な灯篭が二基建っている。

 その傍らに説明板があって、「義民佐倉宗吾様と宗吾霊堂」とある。地元の人々にとっては、佐倉宗吾などと呼び捨てにしてはならないお方なのである。大事な観光資源でもあるし。

 宗吾霊堂のある東勝寺まで、ここから歩いて1キロとある。

 説明板によると、佐倉宗吾は通称で、本名を木内惣五郎といい、慶長17(1612)年下総国印旛郡公津村台方(現在成田市台方)に生まれ育った。

 当時、割元名主であった惣五郎は、打ち続く凶作と苛酷な重税に苦しむ領民を救うために、苦心惨澹して国家老や藩主堀田氏に嘆願したが聞き入れられず、遂に死を覚悟し、家族に後難が及ばぬよう離縁状を差し出して、寛永寺参詣途中の四代将軍家綱公に直訴を決行した。

 これによって領民の窮状は救われたが、直訴の罪に問われて捕らえられ、助命嘆願も空しく、四人の子供、妻とともに公津ヶ原で処刑された。承応2(1653)年8月のことであった。享年42。

 割元惣代(わりもとそうだい)とは、郡代、代官の下の半官職で、一郷の名主、庄屋を支配し、主に法令の伝達と年貢の諸役の割り当てにあたった。割元名主、惣庄屋とも呼ばれる。

 処刑された彼の怨霊は藩主堀田正信に祟り、佐倉藩が改易される原因ともなったと言われる。

 再び説明板に戻る。

 それ以来、惣五郎は農民の神様と崇められ、今日なお香華の絶える日はない。後に失政を悔いた佐倉藩は、宗吾道閑居士の法号をおくり、手厚く冥福を祈ったことから佐倉宗吾様と呼ばれるようになり、その御霊を祀る鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂が建立された。

 ようやく着いた。住居表示までが酒々井町宗吾1丁目である。

 新勝寺と同じ真言宗の大きなお寺だ。見事な山門。

 広い境内にはさまざまな施設が建っている。本堂の手前右側に宗吾様の立派な墓がある。

 本堂自体が宗吾霊堂なのだから、東勝寺がすなわち宗吾霊堂なのである。

 しかし、佐倉宗吾の事績を証明する史料はなく、伝えられる話の大筋は、18世紀後半に成立した義民物語である『地蔵堂通夜物語』(『堀田騒動記』)に記されたものである。ために長く伝説上の人物であり、実在した人物ではないと見なされていた。

 この物語はすでに一度触れたが、嘉永4(1851)年に江戸で『東山桜荘子』の外題で上演されて大当たりしたことで、全国的に知られるようになった。

 してみると、台東区寿にある宗吾殿は宗吾霊堂が建立された後、別寺として堀田家によって江戸に建てられたものなのか。

 調べてみると、この堀田正信という佐倉藩の殿様は相当に変わった人だったようで、どの説が正しいのか、また分からなくなってきた。

 続きは次回へ譲ることにしよう。

<2014.11.12>

第84回<浅草観音裏>

 また浅草へ行ってみたのは、九代目団十郎の銅像を写真に撮るためではない。

 通称「浅草観音裏」と呼ばれている、浅草寺観音堂の北側(裏側)の地を再訪してみたいと思ったからだ。猿若芝居町の回でも触れたことだが、ここらは元浅草寺境内と一帯だったのだろうが、現在は言問通りの拡幅工事のために切り離されて別々の町のようになってしまっているのである。

 例によって、御徒町で買い物をし、上野の丸井裏で昼食を済ませてから、浅草通りを歩いて行く。

 稲荷町から左に入り、松が谷公園を横切って、かっぱ橋道具街へ出る。その日は「道具まつり」で、日曜日なのにいつもと違って多くの店が開店して賑わっている。いい事だ。外国人観光客向けの観光資源の一つなのだから。

 国際通りを渡って、六区には入らずに花やしきの前を通って、浅草寺に到着。九代目の銅像を写真に撮って、言問通りを渡る。

 道路の向かい側に雷5656(ゴロゴロ)会館がある。二階に広い土産物売り場があるのに閑散として観光客も時たま三々五々入ってくるだけだ。休憩所もあってゆっくり休めるのに残念な気がしてくる。一階の駐車場には大型観光バスが次つぎと出入りしている。

 浅草3丁目、通称観音裏を再訪してみたくなったのは、最近『芸者論-花柳界の記憶』(岩下尚史著、文春文庫)という一書を読んだからだ。

 新橋演舞場株式会社に入社した著者は「東をどり」の制作に携わる一方で、新橋花柳界の調査研究を進め、社史『新橋と演舞場の七十年』を編纂したのだという。その副産物が本書である。

 読んでいくうちに「検番(見番)」なる語が出てきて、確か浅草観音裏を訪ねた際に見つけたことを思い出したのである。

 「検番」とは、江戸時代に遊里で芸者屋の取締りをした所で、芸者の取次、送迎、玉代(ぎょくだい、料金のこと)の勘定などを扱っていた。明治に入ってからは、その土地の料理屋、待合(茶屋)、芸者屋の業者が集まって作っている三業組合の事務所の俗称となっている。芸妓の斡旋や料金に関する事務を処理すること、江戸時代と同じままである。

 そこは雷5656会館から歩いてすぐに見つかった。

 同じ建物の中に三業組合事務所も入っている。前回訪れた時は、中から芸者さんが二、三人出てきて、その華やかさに圧倒されて、また勝手にシャッターを押したら怒られるだろうと思って、写真は撮らなかったのだ。

 この辺りには料亭や小料理屋が多くあって、夜になったら雰囲気が一変するのだろうなと見当がつく。浅草の隠れた名所なのである。

 かつては吉原の芸者が江戸一番で別格であった。それに比べれば、ここ浅草公園の芸者は大分格下なのである。

 先の『芸者論』には、関東大震災後、昭和を迎えた時点での東京府内の芸者屋と待合の許可地が次のように列挙してある。

 

 一等地 新橋、柳橋。

 二等地 赤坂、新橋烏森、芳町、日本橋、下谷、新富町、浅草公園。

 三等地 以下、多数。

 

 もちろん、遊女が色を売り、芸者が芸を売った吉原は別格である。ここだけは分業だったのだとか。

 なおも辺りをぶらぶら散歩していると、大きな料亭婦志田の玄関の左脇に赤御影石の碑が建っているのに気づいた。

読むと「宮戸座跡の碑」とある。

 ここがあの「田圃の太夫」と呼ばれた沢村田之助(三代目沢村宗十郎、1845-78)が本拠にした芝居小屋があったところなのかと、しばし感慨にふけったのだった。

 「偶然のよろこびは期待した喜びにまさる」(永井荷風)

<2014.11.7>


第83回〈不動明王御真言と「暫」〉

 さて、成田山新勝寺でもらってきた、ありがたい「御真言」のことである(編集部注:第78回「本に誘われて成田山」。七代目団十郎との関係はまた次回に、などと言いながら延びのびになっていた。

 真言とは、梵語(サンスクリット)の「マントラ」の訳語で、仏や菩薩のいつわりのない真実の言葉という意味だそうだ。

 だそうだなどと、無責任な言い方をするのは、私にとって真言は意味の分からない音の連なりでしかないからだ。

 旭寿山によれば、寛政8(1796)年、七代目団十郎がまだ新之助と名乗っていた六歳の時、河原崎座で「暫」を演じた。その時の連事(つらね)の中で、

 「かたき役の鬼門を守る。成田不動の孫彦やしゃ子…」と台詞を言ったのだと言う。

 それを、「六才の新之助には成田不動尊が強く印象づけられたことであろう」と寿山は推測するのだが、それは4年後、わずか十歳にして七代目団十郎を襲名し、さらに三年後の享和3(1803)年に、市村座で「暫」を上演した時、連事(つらね)の中で七代目がこう台詞を語ったからだろう。

 「重荷をしょったらかんまん。成田の不動に七代目、のうまくさまんだばさら者…」

 この台詞の中には、不動真言の中から「たらたかんまん、のうまくさまんだばさら」が取り入れられているのである。

 とすると、江戸の観客たちは連事(つらね)の中に忍びこませられた真言を聞き取って、「ありがたや」と感じ入っていたことになる。すごいね。

 とはいえ、「暫」って何の芝居か? そもそも「連事」(つらね)って何のことなのか?

 ごめんなさい。独りで分かったつもりになっていました。

 「暫」の原型は、元禄5(1692)年が初演だが、元禄10(1697)年正月に中村座で上演された「参会名護屋」(さんかいなごや)で、初代団十郎扮する若武者が危機を救うために「しばらく、しばらく」と大音声をかけて登場したことである。

 人気のある出端(登場)の演出であったため、他の芝居にも採り入れられ、俗称「暫」として継承された。

 七代目団十郎が歌舞伎十八番に加えて以後、「暫」が外題となった。

 現行の上演では、悪人方の公卿が弱者の善人方の首を討とうとする時、荒武者の篠塚権五郎景政が柿色の素袍(すおう)に長袴(ながばかま)、五本車鬢(くるまびん)に力紙(ちからがみ)、隈取(くまどり)の出で立ちで、「しばらく、しばらく」と声をかけて登場し、花道で「つらね」という長々とした台詞を述べて舞台へ来ると、大太刀を抜いて雑兵らの首を一度に切り落とし、それから大太刀を肩に花道を颯爽と引き揚げるという筋である。

 市川団十郎家得意の「荒事」の一つである。

 「連事」(つらね)というのは、主人公が花道で述べる長い独白の台詞のことで、顔見世狂言などの時、主な役者が自分の名乗り、物の趣意、由来、功能、名所づくしなどを、縁語や掛詞を使った音楽的な台詞で述べたものだと、日本国語大辞典(デジタル版)に出ている。

 顔見世狂言というのは、芝居の正月として最も重視された11月の興行のこと、新しい座組の顔ぶれの披露の意味で、演目は複雑なものではなく、祝儀気分の濃い、ごく軽いものが多い。

 江戸では、一番目(時代物)狂言の三立目(みたてめ)に「暫」が必ず上演されたという。

 私は残念ながら「暫」を舞台で観たことはない。

 「暫」といえば、と思い出したのが、浅草寺の観音堂の裏には観光バス用の広大な駐車場があるのだが、いつ来てもなぜだかハトバスしか止まっていない。何か理由があるのだろうか。

 駐車場の奥、浅草寺病院際の木立の中には幾つもの銅像や石像、供養塔が建っているのだが、左端の銅像が確か九代目団十郎扮する「暫」であったような気がする。

 確かめに行ったのではなく、ついでに見てきたら、その通りだった。

 先年亡くなった十二代目団十郎が建立したものだそうである。

<2014.10.29>


第82回〈深川不動と永代寺〉

 地下鉄東西線の門前仲町で下車するのは、いったい何年ぶりだろう。

 この前、富岡八幡宮を訪ねた時は半蔵門線の清澄白河で降りて、東京現代美術館に寄ってから歩いてきたのだった。

 だから、相当に以前のことになる。

 1番出口を地上に出ると、そこが深川不動堂への参道で、「人情深川御利益通り」の幟がそこかしこに立っている。これも例の地名の洒落言葉で、「人情が深い」と「深川」がかけてある(そんなこと誰だって分かるか)。


 参道の中程右側に、古びた小さなお寺があって、これが永代寺だ。こんな小寺で、成田不動尊の出開帳の際に間に合ったのだろうか。

 説明板が建っている。


「真言宗大栄山永代寺

 寛永4(1627)年、富岡八幡宮の別当寺として永代島(現永代橋東詰)に建立された(だから、現在のこの場所ではない―筆者)。明治元(1868)年、廃仏毀釈により廃寺となる。名刹であったので廃寺を惜しまれ、明治29(1896)年に、塔頭11寺のうちの一つ吉祥院を永代寺と改称して、現在に至る。」


 現在の地図で永代1丁目に当たる土地に建っていた大きなお寺だったのだ。

 とすると、現深川不動堂との関係はどうなっている(いた)のだろうか。

 深川不動尊に参詣して、説明板を探す。あいにくの雨模様でメモが取りづらい。



「深川不動堂は真言宗で、成田山新勝寺の出張所として明治11(1878)年に当地に遷座され、同14(1881)年に堂宇が建立された。

 元禄期(1688-1703)初めごろより、江戸で成田不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16(1703)年、御本尊が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳された。以来、出開帳の度にその様子が錦絵に描かれ、出版されるほどになった。」

 廃寺された元の永代寺と深川不動堂との関係は一切分からない。というより、永代寺が廃寺になってから、別個に深川不動堂が建立されたということか。

 ネットで検索の世の中(時代)だから、ここまでは深川不動堂のHPを開けば分かる。だから、出かけてみるまでもない?

 いえいえ、寺社は出かけて参詣してみないと参道の両側も含んだ雰囲気は分からないのである。昔からあるうなぎ屋や深川めし屋や土産物屋にはさまれて、洒落たカフェが何軒もあって、新旧混じり合った良い雰囲気なのだ。

 『成田不動霊験記』には、最初の出開帳のことが次のように記されている。

 「越えて元禄16(1703)年の4月27日から6月27日まで、深川永代寺に於いて、当山御本尊の最初の江戸開帳が奉修されたのである。

 この出開帳を奉賛する意味もあったろうか、初代団十郎は、倅の九蔵とその他有名役者とともに、同年4月になって、森田座で自作の『成田分身不動』を興行している。」

 つまり、永代寺は富岡八幡宮の別当寺として建立され、後に新勝寺別院となったから、神仏習合の江戸時代、出開帳が催されたのが富岡八幡宮でも永代寺でも同じことなのである。ただ、場所は元の永代寺だったということだ。

 駅前の中華料理屋で大好きなマーボーナスの昼食を取っているうちに雨が上がった。

 以前から散歩してみたかった江東区の湾岸部越中島へ行ってみることにした。江戸時代、榊原越中守の別邸が建てられたことで、この名がある。昔ながらの街並みで静かだ。現在は東京海洋大学の広大な越中島キャンパスがあり、明治丸が停泊しているが、残念ながら修復中で見学できない。

 晴海放水路に架かる相生橋に立って、佃島、月島を見ると景色が一変する。

 高層マンションが林立して視界が遮られる。頭の中が元禄時代のままで、視界は超現代で、クラクラしてくる。

 月島の路地の中へ入れば、まだ昔ながらの長屋が残っていてホッとした。

<2014.0923>


第81回〈不動の見得〉

実を言えば、歌舞伎は苦手。特に昭和30年代から古典演劇化して、客が集まる名作中の一段を抜き出して並べて演目とする、現在の歌舞伎は好きではない。

 役者の芸の巧拙なんて、だからてんで分からない。

 歌舞伎はいつから、誰のせいで、こんな演劇になってしまったんだろうか。

 そんなわけで、この分野に踏みこむとロクなことにならないような予感がした。

 その通りだった。成田山の続きが全く書けなくなってしまったのだ。おまけに間違いまでやってしまったのである。

 成田山の回の最後に、舞台で成田不動の役を初めて演じたのは七代目団十郎だった、などと書いてしまったが、初代団十郎がすでに息子の九蔵(後の二代目団十郎)に演じさせていたのである。

 私は歌舞伎のことよりも、成田不動の「霊験」のことを書きたかったのだ。つまり、江戸時代、なぜ成田山信仰があんなに盛んになったのか。霊験あらたかだったからだ。

 「霊験」とは、神仏の通力に現れる霊妙な験(しるし)、神仏の不可思議な感応、祈願に対して現れる効験(ききめ)、のことである。

 成田不動には「利剣」と「見得」ということがあった。利剣は『成田不動霊験記』の表紙の絵がそのままで、その時の不動明王のポーズ、特にその眼が見得である。

 話を元に戻す。

 初代団十郎は、元禄10(1696)年に中村座で『兵根元曽我』(つわものこんげんそが)を上演、息子に通力坊の役を当てた。通力坊は不動明王の化身である。

 これが不動明王をテーマにした歌舞伎の初演で、この興行の時から団十郎は「成田屋」を屋号として称するようになったのだという。

 旭寿山は「御本尊への祈念が成就して一子を得た有難さに、父子共演して霊徳に報いたのである」と書いている。また、この興行が「非常な大当たりで、成田村は勿論のこと、近在の人々が毎日の如く江戸まで観劇に行き、元祖の不動明王が舞台に現れると、見物から御賽銭が雨の如く投げられて毎日十貫文以上あったと記録に残っている」とも。

 見得(または見栄)とは歌舞伎の演技の一種で、演技者の感情が高潮したとき、動きを停止させてポーズを取る方法で、何種類もある。

 再び旭寿山によれば「歌舞伎独特の演技の中に最も形式美に富んだ見得と称するものがある。今まで動いていた役者が、一瞬美しい荒事の所作のまま停止した姿である。明王の御姿がこの静止の形である。後世『不動の見得』として固定されたのである」のだそうだ。

 私が感心したのは、この「見得」に霊験があると信じられていたことだ。

 『霊験記』のなかに、この不動の見得で難病を治した話が出てくる。

 寛保元(1741)年に、三代目に団十郎をゆずって栢莚(はくえん)となった二代目が、大坂に出演した時のこと。ある日、天満のある茶屋に上がった時、茶屋の独り娘が去年の秋から病気(おこり)になって、手をつくしたが全快しないので亭主が困り果てていた。

 二代目の「不動の見得」の御利益を噂に聞いていた亭主が是非にと頼むので、やむなく二代目は承知した。以下、引用すると、

 「(二代目は)口漱手水して手拭にて頭をつつみ、懐中せし汗手拭を出し、さして来たりし小脇差を携え、病人の寝間へ案内させ、病み疲れたる病女を栢莚命じて抱きおこさせ、我面を見さしめ給うべしと云うにより、其の詞のごとく起こして言い聞かせしかば、病女もつくつくと栢莚を見居たり、其の時に栢莚、件の短刀を抜き放し、汗手拭を握りて縛の縄にしつつ立上がり、病女をにらみし勢い誠に別人のごとく見えたり」

 そこで娘は驚き失神したが、体内から汗が滝の如く流れて、さしもの病気も即座に平癒したのであったそうだ。

 現市川海老蔵が、ときどきTVカメラに向かって寄り目の見得をしてみせるが、多分あれが「不動の見得」である。戯れだとはいえ、その迫力は大したものだ。

 「利剣」は病気平癒を祈願していると、夢の中に不動明王が出現し、持っていた剣を病者の口の中に押し入れるのである。

 病者はもちろん気絶するが、翌朝、覚醒すると、病気は癒えて、しかも布団は自分の血にまみれているというものである。

 この成田山の御本尊が、時に江戸で出開帳(でかいちょう)された。場所は深川の永代寺で、芝居の宣伝を兼ねて、当代の団十郎がプロモーションをした。大勢の参拝客で賑わったそうである。

 久しぶりに深川へ行ってみよう。

<2014.09.15>

第80回〈塩見先生!脱帽です〉

 敬愛する塩見鮮一郎氏の新刊『江戸の貧民』が出た。文春新書の「貧民」シリーズの第三弾だ。『貧民の帝都』、『中世の貧民』に続いて、ついに江戸の「身分外の身分」に生きた人々について、現代にもつながる視点で書いてある。

 早速、購入。一読、打ちのめされた。

 もう、「氏」など付けて呼べないと思った。これからは「塩見先生」とお呼びすることにした(勝手に)。とにかく脱帽したのだ。

 とはいえ、これは難しい本でも、堅苦しい本でもない。だからと言って、「面白い本なので是非お読み下さい」とお勧めする気もない。江戸の社会の最底辺に生きたマイノリティたちに興味のない人には、何のことやら、といった感想になるだろうから。

 以下、紹介がてら、私の散歩とも絡ませながら書いてみたい。

 何を書くのかって?私の「不明」を恥ずかしながら書いてみたいのだ。

 目次の前に、散歩コースの案内図が付いている。AからDまで計6コースのルート付きだ。

 上野から三ノ輪、それから南千住へ、南へ下って山谷を今戸へ、浅草を通って上野へ。いびつな三角形のエリアが舞台である。

 塩見先生が先達になって、われわれも一緒に歩いて行くのだが、不可能なことなのに、江戸の底辺に生きた人々の所を訪問して行くのである。

 まず、浅草弾左衛門(長吏、穢多頭)へ。続いて、非人頭車善七へ。それから頭と一緒に乞胸頭山本仁太夫のところへ。さらに願人坊主と虚無僧たちの宿へ。最後に浅草寺に戻って、香具師(こうぐし、やし)たちが多種の芸をして見せながら、各種の薬を売っているところへ。近くにさまざまな見世物小屋が賑わっている。

 江戸の被差別芸能民に興味を抱くようになったのは、先生の『江戸の非人頭車善七』(三一新書、今は河出文庫)を読んだことがきっかけだった。

 だから、最初から私の先生だったわけだ。

 まず、先生に付いて新町の弾左衛門屋敷を訪ねるのだが、昔の切絵図と今の地図が重ねられて、その異同を教授される。

 アッと驚く。私が〈新町の謎〉の回で、今戸神社の横から出た通りが、南北に細長いかつての新町を縦に貫く「往来」だというのだ。

 だから、都立浅草高校のグラウンドになっている所が弾左衛門屋敷跡なのであった。

 被差別民に縁の深い白山神社が、かつては新町の中にあったのだが、今は探してもない。ないはずで、昭和12(1937)年に、近くの今戸八幡と合祀されて「今戸神社」になってしまったのだとか。

 さらに読んでいくと、長吏の仕事場の一つであった「刑場」(お仕置場)について、こんなことが書いてある。

 「あらたに某ブログで、『聖天町の空き地には、千住小塚原に刑場が出来るまで、お仕置場があった』というのを目にした。判断の基準も出典も示されていない。もしかしてわたしの書いたものを参考にしているのかもしれない。気にかかるので、もういちど痕跡をさがした。」(87頁)

 先生!申し訳ありません。多分、それは私の〈江戸の亡霊地〉です。以後、出典を明記しますので、お赦し下さい(冷汗が出てくる)。

 もう本コラムで、このエリアの被差別民のことを書くのが嫌になってきた。だが、不肖の弟子はそれぐらいではメゲない。なぜなら、現代の貧困、貧民のことを考える時、江戸の貧民は欠かせないファクターになるからだ。

 メゲずに先生に付いて歩いて行く。日本堤から吉原へ入らずに、その少し先の道を南に入って行く。非人頭車善七の居宅兼仕事場があって、その少し先に「溜(ため)」が見えてくる(あくまで架空の散歩です)。

 非人についても少し誤解していた。非人たちは、浅草、品川、深川、代々木の四カ所で頭の下に集住していたとばかり思っていたが、市中に住まって各種雑多なお勤めに従事する者も多かったのだという。

先生は車善七に尋ねる。

 「非人のなりわいはいかに」

 「非人になりわいなどございません。なりわいのないのが非人でござる」

 禅問答のようになった。

 「溜」についても誤解していた。小伝馬町の牢屋敷から送られてくる未決囚を容れておく「牢屋」だと思っていたのだが、貧民の病院でもあったのだ。

 飢饉で困窮した貧民が救われる、いわば最後のセーフティ・ネットだったのである。だから、土地と資金は幕府から出ていた。

 残念ながら、もう紙幅がつきた。私は別に香具師(テキヤ)の話題も準備中だったのだが、これも先生に先を越されてしまった。

 今夏一番の衝撃を受けた読書でした。

<2014.09.05>


第79回〈徒労の市村座跡探し〉

 江戸の浅草は吉原遊廓と猿若芝居町と、人を魅了し享楽させるが、堕落させ滅亡させもする、悪所(場)を二つも有する地だった。

 その悪所(場)だが、芝居町も遊廓も初めから浅草にあったのではなく、日本橋にあったこと、幕府によっていわば江戸の鬼門に当たる浅草へ追いやられたのであったことは、何度もくり返し書いてきた。

 特に芝居町は、江戸も後期の天保12(1841)年に市村座が今の猿若町二丁目へ移転し来て始まったのだった。翌年、続いて一丁目に中村座が、さらに翌年三丁目へ河原崎(森田)座が移転してきた。

 いわゆる幕府公認の「江戸三座」である。

 悪所として、いわば隔離されていたに等しい。

 ところで、明治の時代に入って、歌舞伎の芝居小屋は浅草猿若町に居なければならない理由(必然性)がなくなった。許可さえ下りれば、どこに建てて興行してもよくなったのである。

 事実、三座とも浅草を出て行くのだが、それぞれのその後がどうなったのか、よく知られているのは森田座だけである。

 座元の十二代目守田勘弥は進取の精神にあふれた(目先が利いた)人で、明治5(1872)年にはもう浅草を出て、現在の中央区新富町へ移転して、守田座の名で開場した。明治8(1875)年には新富座と改称したが、翌年、焼失。

 明治11(1878)年には、椅子席の欧風劇場として新開場、「団・菊・左」(九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次)の名優たちを擁して、全盛を誇った。

 だが、明治22(1889)年に歌舞伎座が開場して後は、経営不振に陥る。

 大正12(1913)年の関東大震災で焼失、翌年再建されたが、映画館としてであった。昭和20(1945)年の空襲で焼失するまで建物は残っていたという。

 次に浅草を出て行ったのは中村座で、明治11(1878)年に中村家との縁が切れ、都座と改称した。明治16(1883)年に、現台東区鳥越一丁目に移転し、猿若座の名で開場。以後、中村座→鳥越座と改称し、明治26(1893)年に火事で焼失して後、再建されなかった。

 最後まで浅草に残っていたのが、最初に移転してきた市村座で、座元は代々市村羽左衛門だった。

 市村家との関係は明治5(1872)年に絶えたが、劇場はそのまま浅草にあった。

 浅草を出て行ったのは明治25(1892)年だから、ずいぶん長く同地にあったことになる。移転先は台東区の下谷二長町(したやにちょうまち)だった。

 明治41(1908)年に、田村成義が経営するようになって、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、七代目坂東三津五郎らの若手歌舞伎で大正・昭和初期の全盛期を迎えた。

 この劇場も関東大震災で焼失、再建されたが、昭和20年の大空襲で焼失し、再建されなかった。

 私にとって問題は、下谷二長町とは現在のどこなのかということである。

 こんなときに頼りになるのが例の地名辞典で、二長町と引くと、現在の台東区台東一丁目の東側三分の二に当たる、と出てくる。

 秋葉原駅と浅草橋駅との中間ぐらいのところである。

 行って探してみよう。銘板か、猿若町のように小さな柱が建っているかもしれない。

 なぜ、こんなに気になったかというと、買ったまま読んでいなかった『芝居の神様―島田正吾・新国劇一代』(吉川潮著、ちくま文庫)を読んでいたら、この劇場のことが出てきたからだ。

  新国劇は、早稲田大出身の澤田正二郎が大正6(1917)年に創設した劇団で、新しい国民劇を目ざして、「国定忠治」などの演目で実に幅広い客層に支持されて、一世を風靡した。

 通称「澤正」が昭和4(1929)年に急逝すると、その跡を継いだ若手俳優二人、島田正吾と辰巳柳太郎が第二期の黄金期を作り出して行く。

 この若手二人の修業時代、よく使われていたのがこの市村座で、「二長町」の名でしばしば登場するのである。

 それで訪ねてみたくなったのだ。

 いつものコースを辿る。御徒町から春日通りを東へ行き、清洲橋通りに出たら右折する。しばらく歩くと台東一丁目になる。この東側三分の二を、右へ左へと曲がりながら探し歩くのだが、一向にそれらしき銘板も説明板も見つからない。

 散歩者の勘で、高層マンションが建っている辺りにあったのだろうと見当は付くのだが、いかんせん、証拠が見つからないのでは散歩はいつまでも終わらない。

 お盆すぎの土曜日で、おまけに猛暑日である。ペットボトルのお茶をちびちび飲みながら歩くのだが、汗が全身に吹きだして、熱中症になりかかっているのが自分でも分かるのだ。

 危ない、思わず近くにあったスーパー・ライフへ飛び込んで涼を取る。

 無理だな、諦めて帰ることにしよう。盆休みで閑散として人気のない浅草橋の商店街を歩いて駅へ向かう。

 徒労に終わる散歩も実は多いのだ。よって今回は、残念ながら写真はナシである。

<2014.08.25>


第78回〈本に誘われて成田山〉

 5月下旬の日曜日、家族でお昼を食べに出たついでにブックオフに立ち寄った。数少ない演劇書の棚に、ついぞ見かけたことのない一書があった。

『成田不動霊験記―市川団十郎と名優たち―』(旭寿山著、成田山仏教研究所)である。税込たったの108円。

 

 市川団十郎家の屋号が成田屋で、成田山新勝寺と浅からぬ縁を持っていることは知っていた。初代団十郎に後継ぎの男児が生まれなかったため、成田山に参詣し、願をかけたところ見事に授かった。これが二代目団十郎となったとか。それが縁で、今でも毎年2月3日の節分会には団十郎家の歌舞伎役者たちが豆まきに出かけるとか。その程度のことは知っていた。

 ところが、その関係はそんな浅いものではなかったことを、この本を読んで知って、驚いたのである。

 そういえば、私は成田山新勝寺に参詣したことがなかったのだった。いつも成田国際空港への行き帰りに通過するばかりだった。

 とはいえ、成田へは一度行ったことがある。高大連携プログラム(高校と大学はもっと近づいて、大学への進学がスムーズに行くよう、生徒に色々な働きかけをしましょう。補助金がでますよ。by文部科学省)の一環で、私立成田高校へ出張授業に出かけたことがあったのだ。

 授業が終わったら新勝寺へ参詣するつもりでいたのだが、終了後の接待が実に念入りで、終わった時にはもう暮れかかっていて、諦めて帰ってきたのだった。

 『成田不動霊験記』を読んで、無性に成田山へ行ってみたくなってきた。

 江戸の昔、成田山へは男の脚で一泊二日の行程だったという。途中、船橋宿で一泊して遊ぶのが楽しみだったとも。何して遊んでいたのだろう。

 今ではJR日暮里駅で京成電鉄に乗り換えると、特急でちょうど一時間で京成成田駅に到着する。

 駅を出て、ゆるい下り坂になった参道を歩いて行く。両側に土産物店が軒をつらね、幾つもあるうなぎ屋から美味しそうな匂いがあふれ出てくる。中途に、重要文化財級の江戸期の旅館らしき建物が残っている。

 参道のここかしこにコスプレをした若者たちがいて、観光客の求めに応じてポーズを決めている。コスプレ大会が行われているのだ。

 何か不安になってくる。成田山へ行ってみたって、何かが分かる訳でも、何かが発見できる訳でもない。成田山新勝寺のHPでも読んでみた方が、より実りが得られそうな気持になってくる。

 山門前に着く。向かいが成田山信徒会館になっている。ここから山へ登って行くのだ。

 本堂に至って、靴を脱いで入らせていただく。御本尊の不動明王は思ったより小ぶりで真っ黒だ。これが江戸深川の永代寺へ度々「出開帳」された御本尊なのだろうか。

 本堂の中に「不動明王御真言」が印刷されたカードが積まれている。梵字(サンスクリット)で書いてあって、右側に読み方が振ってある。ありがたい御真言なので書き写す。

 

 のーまく さんまんだー

 ばーざらだん せんだー

 まーかろしゃーだー

 そわたや うんたらたー

 かんまん

 

 これが何かと関係があるのかというと、例の本によれば、名優七代目団十郎と深い関係があるのである。

 七代目は天保の改革時に「江戸十里四方追放」を申し付けられた役者で、かつ初めて成田山の御本尊の不動明王を演じた役者であった。

 江戸を追放されて上方へ行くことになるのだが、その前に成田山へ身を寄せていたのである。

 御真言との関係は、また次回にでも。

<2014.06.21>

 

第77回〈綺堂随筆〉

 さて、春木座がどこにあったかは分かった。JR御茶ノ水駅から神田川をわたって、歩いて十分ほどである。

 綺堂の観劇記へ移ってもよいのだが、文京区教育委員会の説明板に見逃せないことが書いてあったので、先にそれに触れておこう。

 春木座に改称したころ、浅草猿若町の芝居小屋が焼失したため、歌舞伎俳優の出演が多くなったと書いたが、何と名優九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎も出演していたのである。人気を集めたわけだ。

 本郷座と改称した明治35(1902)年、川上音二郎一座がヨーロッパ巡業から帰国した。音二郎・貞奴は翌年、明治座で翻案『オセロ』を、本郷座で翻案『ハムレット』を立て続けに上演しているのである。

 もっとも、説明板には「新派の川上音二郎一座が『ハムレット』を上演して盛況をきわめたりして、新派全盛時代を築いたのも本郷座の時である」とあるだけだが、元々の奥田座が春木座と改称したのは、ここの地名が「春木町」に変更されたからである。

 

 

 本郷座に改称したのは、ここが近代区制35区の一つ本郷区になったからだ。

 綺堂(敬二)少年が芝居見物に通ったのは、まだ春木座と呼んでいた明治20年の頃である。彼は『怪談牡丹燈籠』を観に行ったのだ。

 「その当時、私は十六歳、八月は学校の暑中休みであるから、初日を待ち兼ねて春木座を見物した。一日の午前四時、前夜から買い込んで置いた食パンをかかえて私は麹町の家を出た。」

 なぜこんなに朝早くに出発するかというと、午前七時までの入場者には半札(今のチケットの半券のようなものか)をくれ、それを持参すれば来月の芝居は半額の三銭で観られるからだ。

 「芝居は午前八時から開演するのであるが、そういうわけであるから木戸前は夜の明けないうちから大混雑、観客はぎっしり詰め掛けている。どうしても午前五時頃までに行き着いていなければ、好い場所へは這入られない。」

 春木座の『牡丹燈籠』は面白かったと綺堂は書くのだが、驚いたことに彼は原作者三遊亭円朝の高座も聴いているのであって、春木座の舞台には円朝の高座で聴いたような凄味は感じられなかったと書くのである。

 「私は先月の半札を持参したから、木戸銭は三銭。弁当は携帯の食パン二銭、帰途に水道橋際の氷屋で氷水一杯一銭。あわせて六銭の費用で、午前八時から午後五時頃まで一日の芝居を見物したのである。金の値に古今の差はあるが、それにしても廉いものであったと思う。」

 しかし、午前八時開演の芝居に、一体どんな人たちが通えたのだろう。

 円朝の高座での口演速記本を元に、歌舞伎に脚本化した人気演目だったとはいえ、誰が、それもそんなに大勢観に行けたのだろうと、私は不思議でならないのだ。

 明治政府の官僚たちが歌舞伎を近代化しようとして、「演劇改良会」なるものを発足させたのが、この前年、明治19(1886)年のことである。

 明治に入って二十年が経過しても、劇場の慣習(上演形態)は未だ江戸のままだったのだ。歌舞伎は江戸の庶民が観に行ける演劇ではなく、町人階級(ブルジョワジー)の好み支える演劇だった。

 もう一つ驚かされるのは、寄席で人気の口演をすぐさま脚本化して上演する、目の利き方、抜け目のなさである。

 春木座だから、だったのではない。明治25(1892)年には、歌舞伎座も『牡丹燈籠』を上演しており、その際には大々的な宣伝活動を繰り広げたのだという。

 大川(隅田川)の川開きには、牡丹燈籠二千個を流して宣伝し、これが効を奏して、この興行は大好評の大入りを占めたのだという。

 綺堂随筆への興味は尽きない。

<2014.05.13> 

第76回〈春木座〉

 明治期の演劇について書かれた本を読んでいると、よく出てくる劇場に本郷の春木座がある。

 日本橋中州の真砂座と並んで、新派の本拠地であったというのだが、どちらも今はなく、現在のどこいらへんにあったのか、気になるのだ。

 こんな時にも例の地名辞典は活躍してくれるのである。

 かつて、劇場は下町にあるものだった。それが山の手の本郷にあったというのだから、余計興味がわいてくるのだ。

 

 「春木座(文京区本郷3丁目)

 本郷春木町1丁目にあった。明治6(1873)年、春木町3丁目の地主奥田登一郎が新築して奥田座の名で開場。明治9(1876)年春木座と改称。この頃猿若町の芝居小屋が焼けたため、歌舞伎俳優の出演が多くなり、山の手の劇場として栄えた。

 明治23(1890)年6月に火事で焼け、翌年12月、2500人収容の洋風大劇場にして開場した。明治31(1898)年、再び焼けて、翌年7月に新築開場。明治35(1902)年に本郷座と改称した。

 以後新派がここに拠って『不如帰(ほととぎす)』、『己が罪』などで名を売ったが、明治43(1910)年、松竹の経営となり二世市川左団次一座で栄えた。

 関東大震災で焼け、翌1924年バラック建てで復興、昭和2(1927)年に新装、昭和5(1930)年4月、松竹映画館となる。戦災で焼亡、以後復興されていない。」

 まるで、劇場焼亡史のようである。

 

 『半七捕物帳』で知られる岡本綺堂(1872-1939)は、実は劇作家、劇評家で、数多の戯曲を書き、二世市川左団次と組んで『修禅寺物語』、『番町皿屋敷』など「新歌舞伎」というジャンルを確立した人である。彼はまた名随筆家で随筆集も多く刊行している。

 その一冊に『綺堂随筆 江戸のことば』(河出文庫)がある。10年前に買ったまま忘れていたのだが、この中に十代の綺堂(敬二)少年が春木座へ麹町から歩いて芝居見物に出かけた話が記されているのである。

 そのことはまた次回くわしく書くとして、彼の随筆の中に見る面白いことばについて、ひとこと触れてみたかったのだ。

 こんな言葉が出てくるのである、「鳥渡」、「我殺」。何と読むと思いますか。そう、「ちょっと」と「がさつ」です。驚いてしまう。

 学生の答案やレポートの中に「真逆」なる言葉を見つけたのは、もう何年ぐらい前だろう。何と読むのか分からなかった。どうやら正反対という意味で用いているらしいのだが、辞書を引いても出てこないのである。

 「まぎゃく」と読むと知ったのは、TVの「報道ステーション」で、古館キャスターが正反対ですねのニュアンスで「まぎゃくですね」と言っているのを見た時である。

 ところが、綺堂はその随筆の中でこの「真逆」を使っていたのだ。

 「と云って、相当に身分のある方々は、真逆に町の銭湯へも行かれまい。「夕涼み能くも男に生れたり」私は此点だけは貧乏人に生れた自由を喜ぶ。」(「新浮世風呂」)

  もちろん、綺堂は「まぎゃくに」などと使っていない。「まさかに」と読んで使っているのである。

 だが、今私たちは「まさか」とは使うが、「まさかに」とは使わない。

 そんな使い方があるのかと、辞書を引くとこれがあったのだ。慣用表現なのだという。

 「(打消表現に用いる場合)いくらなんでも、どうあっても」

 言葉はどんどん古くなり、どんどん新しい言葉が出現してくる。言葉も生きている証拠だろうか。

 春木座があった本郷3丁目なら、またしても職場から歩いてすぐだ。散歩に行ってみよう。

 本郷3丁目14番6号、本郷通りに面した大きなビルの前に、文京区教育委員会が設置した説明板が見つかった。

 昭和20(1945)年の戦災で跡かたもなく焼失し、昔日の面影を伝えるものは何も残っていないという。

<2014.05.08>

 

第75回〈下谷と入谷〉

 前に一度散歩したところへ、もう一度行ってみたくなることがある。
 いつものように御徒町で買い物をして、上野の丸井裏の中国飲茶の店〈楼蘭〉で昼食を取ってから、「さて、今日はどっちへ歩いてみようか」と考えて、頭に浮かんできたのが、「おそれ入谷の鬼子母神」だった。
 昭和通りに沿って、今日は右(東)側の裏道をブラブラ北へ歩いていく。途中、上野ストアハウスという小劇場を見つけたりする。
 以前、訪ねた時はどう歩いたのだったか思い出せない。確か、鴬谷駅から歩いていったら、偶然そこへ出たような記憶がある。
 北上野を過ぎて、地下鉄日比谷線入谷駅が見えてきた。そこから昭和通りを横断したところに鬼子母神はある。

  ところが、なんとそこは入谷ではなく下谷なのであった。
 えーっ、おそれ入谷の鬼子母神じゃないの?
 以前、下谷神社のことを書いた時に、今は住居表示上の「下谷」はない、などと書いてしまった。ごめんなさい。ちゃんと存在します。
 鬼子母神が祀られているのは、日蓮宗の仏立山眞源寺。万治2(1659)年、日融上人によって創建された。
 鬼子母神(きしぼじん、または、きしもじん)とは、インド仏教上の女神の一人で、サンスクリット語でハーリーティーと呼ばれる鬼女だった。釈尊在世の頃、この性質邪悪狂暴な鬼女は、他人の子供を奪い取っては食べてしまう悪神だった。
 釈迦は鬼女を教化しようと、女神の末子愛奴を隠したので、鬼子母は探し出すことができず悲嘆にくれた。そこで仏は、一子を失うにさえ悲嘆懊悩するのに、汝に子を食われた親たちの胸中はいかばかりかと説いて子を返し、改心させた。
 以後、鬼子母は「小児の神」として児女を守る善神となり、安産子育ての守護神として信仰されるようになった。
 今では善神の意で、ツノを取った「鬼」を使って表記され、手に吉祥果(ざくろ)を持つ天女の姿で表される。
 下谷にあるのに入谷なのは、これが江戸地名の洒落言葉だからで、「おそれいる」の地口になるようになっているからだ。
 例の地名辞典には、他にも山ほどあったとして、「よろずよし原山谷堀」「嘘を築地の御門跡」「酔うて九段の坂の下」「腹がちょっぴり数寄屋河岸」「なんだ神田のお玉ヶ池」など紹介されている。
 入谷は朝顔市発祥の地で、近辺にあった植木屋数軒が栽培を始めたのだと言われるが、入谷名物になったのは明治に入ってからである。
 眞源寺の裏手には、関東大震災後に建てられた復興小学校の一つ、坂本小学校があるが、残念ながら今は少子化のため廃校になっている。

  現在は地区住民の交流の場になっているようだ。校舎の中は、かつてはモダンだったのだろうが、今ではレトロに見える。

  言問通りを渡ってもう少し北に歩く。道路が拡幅されて、歩道もついて、地区が分断されて見えるが、元は一帯であったのだろう。浅草の観音裏と同じようなことになってしまったのだ。
 ここに仲入谷の小野照崎神社がある。

  小野篁(おののたかむら)命が祭神で、菅原道真命を配神として、寛永年間の東叡山寛永寺の草創期にこの地へ遷宮したのだとか。地元の住民に愛されているのが一目で分かる良い雰囲気の神社である。
 おやっ、境内に富士塚のようなものが。これは下谷坂本の富士塚で、文政11(1828)年に建造されたものだという。

  今は柵で厳重に囲まれて、立ち入ることができないが、下谷に生まれ育って、坂本小に通ったという職場の同僚の話では、子供たちの格好の遊び場だったそうで、登ったり降りたり楽しかったと、懐かしそうに話してくれた。
 帰りは、台東区のバス「めぐりん」(百円)に乗車して、三ノ輪橋へ出るつもりが、浅草へ連れて行かれてしまった。

<2014.05.02>

『江戸の亡霊地』のバックナンバーを読む →   

 

武田清著作一覧はこちら!

連載コラム「江戸の亡霊地」 付録篇