江戸亡霊地                            武田清

連載コラム「江戸の亡霊地」 付録篇

第39回〈江戸東京地名辞典〉

 この3月は寒くて一度も散歩に出かけていない。おまけに自分の本を出す仕事で忙しく、締切のないコラムのことを思い出さなかった。

 それで、こんな文庫本があったんだ! という話でウォーム・アップすることに。

 『江戸東京地名辞典 芸能・落語編』北村一夫著(講談社学術文庫)である(以下、長いから「地名辞典」ね)。

 以前、日本史の先生と話をしていて、話題が浅草寺のことになった時、

 「ところで、浅草寺の宗旨は何宗か知ってますか?」

と聞かれて、はたと困ったことがあった。考えてみたこともなかったからだ。確か、この寺は江戸時代に入ってから上野の寛永寺の支配下に入ったはずだから、

 「天台宗ですか」と答えたら、

 「意外と知られてないんですが、聖観音宗(しょうかんのんしゅう)と言います」

と教えられて呆気にとられたことがあった。

 浅草寺は、徳川家康の祈願所として貞享2(1685)年に寺領500石が与えられて、寛永寺の支配下に入り、境内に多くの神仏が勧請(かんじょう)され、庶民の信仰を集め、奥山(寺の裏手)は江戸最大の盛り場として栄えた、と覚えていたから。

 現在の特別23区に限って、約1600の項目のつまった「地名辞典」を早速引いてみると、

 「浅草寺 台東区二丁目

  金龍山浅草寺。昭和25(1950)年、子院・末寺を引きつれ天台宗から離れ、聖観音宗を起こし、総本山となった。本尊は、いわゆる浅草の観音様で、聖観世音菩薩。江戸、東京を通じて、庶民に最も親しまれた寺院である。落語に登場する社寺のなかでも、ずばぬけて数が多いが、多くは“浅草の観音様”であって、“浅草寺”の呼び方は数が少ない。その呼び方にも庶民的な香りがする。」

 先の日本史の先生によると、戦後、お寺は何宗を名乗ってもよいことになったのだそうだ。新しい宗派を名乗った寺もあって、天台宗の総本山であった寛永寺の支配を受けることを嫌い、離脱することにした浅草寺は「聖観音宗」を名乗って、自ら総本山となったのだと言う。

 へーえ、なるほどね、という事柄が歴史には多くて面白い。面白いといえば、私たちは浅草寺といえば、雷門をくぐって仲見世を通り、突き当たったところの、ようやく修復なった大きな本堂が浅草寺だと思っているが、そうではない。あれは観音様が祀られた文字通り、観音堂なのである。

 では、お寺はどこにあるのかというと、観音堂の裏手、言問通りとの間に、ふつうの住宅のように密集した一画があって、その戸数二十余り、それが全部寺で、その集合が「浅草寺」なのである。

 ついでに言うと、毎年5月に催される三社祭(さんじゃさい)は、厳密に言うと浅草寺のお祭りではない。観音堂に向かって右側奥にある浅草神社のお祭り。ここに祀られている三人の祭りである。

 三人とは、628年に隅田川で小ぶりな金の観音像を網で引き上げた漁師の檜前浜成・竹成(ひのくまはまなり・たけなり)兄弟と、それからこれも漁師で戸長の土師真中知(はじのまつち)のことで、彼らがお堂を建ててこの金の観音像を安置したのである。

 再び「地名辞典」で引いてみると、

 「三社 台東区浅草二丁目

  浅草神社。現存している。もと三社権現といったが、明治元年に三社明神、同6年2月に浅草神社と改称、現在に至っている。祭神は、浅草の観音像を浅草川(宮戸川=隅田川のこと。当時は海か?)から拾いあげた土師真中知、檜前浜成、檜前竹成三人の漁師を権現さまとして祀った。浅草の総鎮守である。三社の祭礼は隔年3月18日ときまっていたが、現在では5月17,18日を中心に行われている。」

 4月に入ってようやく暖かくなってきた。江戸東京散歩を再開しよう。

<2012.04.03> 

 

 

第38回〈芸者の言葉〉

 私たちが日ごろ「丁寧」の意味で用いる「です・ます」のうち「です」は、江戸時代には下品な言葉だったと知って、ちょっとショックだった。

 田中章夫の『日本語雑記帳』(岩波新書)を読んで知った。それによると「です・でし・でしょ」など活用のある「です」は、幕末の江戸の町人たちが使い始めたもので、それ以前は芸者が使う花柳界の言葉だったとか。

 男芸者(幇間・たいこもち)の使う「~でげす」もその一種で、卑しい言葉と見られていたのが、明治維新後は「芸者に限らず、町娘にも用いられ、明治の初めには、外国人向けの日本語テキストにも登場しているが、たしかに、品のいい言葉としては迎えられていなかった」のだ。

 では、一般の人は何と言っていたのかというと、「~であります」か「~でございます」と言っていたのである。

 これは日本国語大辞典(電子辞書)の出番です!

 助動詞の「です」は「でさうらふ」の略された「でさう」が変化したものと言われる。狂言で大名や鬼や山伏の名乗りの際に、尊大な語感を伴って用いられるが、この場合「~です」の形だけで、活用しない。

 推測されている変化のプロセスは、「でござります」→「でござんす」→「であんす」→「でえす」→「です」だろうと。

 江戸中期には、遊女・男伊達・医者・職人など限られた人々の間で、ほとんど文末の終止にだけ用いられた。「でしょう」や「でした」など、未然形や連用形で用いられるのが一般化したのは江戸末期で、遊里・芸人の語とされ、明治に入ってから広く一般に用いられるようになったが、しばらくは上品でない語感を持っていた。

 一般化するのに力があったのは、アメリカの女流作家バーネットの『小公子』(若松賤子訳)だったというのが面白い。たとえば、「なぜかといふと、馬と荷車が置いて在ったからです」というように使われた。現在だと、ごくふつうの語感だが、当時はそうではなかったという。もう想像できる域を越えている。よく分からない。

 「です」は長いこと活用語には接続しないと考えられていて、だから「おいしいです」や「なつかしいです」といった使い方は、戦前まではまだ正統な日本語として認知されていなかったとか。「きれいです」とか「平気です」など、形容動詞の語幹に「です」が付いた形は、丁寧体として語尾「だ」の代わりに用いられると、学校文法では教えているそうである(私の記憶には、そんなことちっとも残っていない)。

 田中章夫の本には恐ろしいことが書いてある。「これまで久しく問題となっていた形容詞の結び方―たとえば「大きいです」「小さいです」などは平明・簡素な形として認めてよい。」となったのが、何と昭和27(1952)年に国語審議会が発表した『これからの敬語』においてだったという。呆れてしまう。

 今回は芸者のことでした。

 芸者とは、遊芸に巧みな人・芸能者のことで、市中に住んで宴席に出て芸を披露することを生業とする者のことをさす。男芸者と女芸者がおり、前者は幇間(たいこもち)と呼ばれ、江戸では町芸者といえば、女芸者を指した。

 遊女とは区別され、「芸は売っても身体は売らない」のを建前にしていた。

 江戸の町芸者で有名なのは深川の芸者で、寛永年間(1624~1644)に深川八幡宮の境内の茶屋女として客をもてなしたのが初めだという。深川の芸者は辰巳(たつみ)芸者といわれ、きっぷのよさが江戸の人々に好まれた。彼女たちは足袋(たび)をはかなかったという。

 明治に入ってからは、深川に代わって新橋や柳橋の芸者が有名になっていく。ブロマイド写真の売上人気ナンバーワンは芸者のものだったという。

 これも想像の追いつかない世界(時代)のことである。

<2012.03.07>

 

 

第37回〈消えた町・まだ〉

 西浅草の、ちょっと行ってみたかった神社とは矢先(やさき)稲荷という。今は松が谷二丁目になっているが、旧町名を松葉町といった。

 訪ねてみたら、ちょうど祭日の初午祭だった。

   江戸幕末のころ、この神社の周辺に〈乞胸・ごうむね〉と呼ばれた、いっぷう変わった被差別芸能民たちが集住していた。頭がいて、山本二太夫(にたゆう)といった。この人たちは、元は武士だったと言われる。

 乞胸とは変わった名だ。一説には、「胸をたたいて憐れみを乞う」たからだと言われるが、よく分からない。元は武士だったが、藩が取りつぶしになって失職し、再就職(仕官)もままならぬまま、乞食同然の境遇に落ちてしまったのだろうと言われる。

 幕府は失職した武士(浪人)にきわめて冷酷であった。一切の救済措置を取らなかった。時代劇に出てくる傘はり浪人などというステロタイプは本当にいたのか?

 問題は、身分上は武士のままであっても、大道で芸をして見せて施しをもらうのは非人にあたるというところにあった。そのため芸をする時は非人頭車善七の支配下に入り、それ以外のときは武士(正確には仕官していないので町籍)に戻るという奇妙な存在になった。

 江戸社会のマイノリティの一種である。初めは上野山下の山崎町に集住していたが、幕末になって浅草の外れに移住させられた。

  元は武士といっても乞食同然の風体だった。浅草寺の奥山や両国の橋のたもとで曲芸をし、三味線で説教節を語り、鳥の鳴き声を真似したりして、わずかな施しを得ていた。こういう生計の人たちはみな非人の身分であったのに、彼らだけは武士だと主張したのである。哀れなことにそれだけが彼らの最後のよりどころだったようだ。

 前に紹介した塩見鮮一郎の『解放令の明治維新』によると、明治4(1871)年の「解放令」によって乞胸たちも平民になるという通達があって、以後勝手に暮せと言われたに等しかった。

 うるさく言われず、差別されなくなって、良かったか?

 翌明治5(1872)年秋、東京府知事大久保一翁は「こじき禁止令」を出し、乞食同然の風体で街頭に姿を現し、施しを求めることを禁止した。乞胸は江戸と明治で二重に差別されたのである。

 塩見は言う、「きたない者、くさい者、猥雑な者への弾圧が『解放』の名でおこなわれ、それを進歩的な新聞も応援したというのが、維新直後の一般である」と。

 賤民身分から「解放」された乞胸の多くは完全に生計の道を断たれ、路頭に迷い、やがて家族を連れてスラムへ流れこんでいった。

 つまり、浅草の町から姿を消したのである。

 それにしても、と思うことが二つ三つある。一つは、「こじき禁止令」は欧米を視察して帰国した政府のお偉方たちが、彼の地の都市に乞食を見かけなかったことが根拠になっているのだが、排除されていただけで、ふだんはかなりいることに気がつかなかったということだ。現在だって、ヨーロッパに旅すれば、堂々と施しを要求する(なぜなら、あなたがたは裕福なのだから)乞食をよく見かけるのだ。要するに一つの職業になっているのである。

 二つは、禁止すれば消えていなくなると思っている行政の思考・態度が現在まで全く変わっていないことだ。公園のブルーシート小屋を禁止すれば、よそへ移動するだけで決していなくなるわけではない。それに彼らは決して施しを求めない。

 三つは、芸能民を見る私たちの視線がなぜか賤視構造になってしまうことだ。大道芸人をヘヴンアーティストと言いかえても同じことだ。芸を見せて金をもらうのは意識上、江戸の昔から非人の所業のままなのである。

 最後に、稲荷神社って何だろう? なぜ全国くまなく至るところにあるのだろう? と思って調べてみたら、これも驚くべき自分の不勉強を恥じることになった。

 帰化人秦氏が氏神として稲の神(稲荷)を祀ったことから信仰が普及したのだという。稲作が広まるのにつれて、全国へ広がっていき、さらに真言宗と結びついて多様な性格を持つようになっていった。

 狐は稲荷神の使いであって、御神体ではなかったのである。

<2012.03.02>

 

 

第36回〈江戸の町は寺だらけ〉

 西浅草にちょっと行ってみたい稲荷神社があって、道順を確かめようといつも使っているポケット地図で「合羽橋道具街」を開いた。

 この地図は『大きな字の地図で東京歩こう』(人文社)という、システム手帳ほどの大きさの縮尺7000分の1のものだ。昨今の散歩ブームを反映して、地図上にさまざまな名所・史蹟が印刷してあって、とっても便利だ。

 それで、その見開きの右側のページを見て驚いたのだった。寺の名前のその数の多さに。

地名でいうと、台東区松が谷二丁目から南へ蔵前四丁目と三筋一丁目までの空間に、暇にまかせて数えてみたら、何と70の寺が載っていたのである。

 江戸の町は寺だらけ、なのではなく、この地区に寺が異常に多いのだ。その中には、戦時中、落語家たちが廓噺などを自粛し「禁演落語」として封印した「はなし塚」のある本法寺も含まれている。石塀に寄席の名や落語家の名が彫られて赤色が入れてあって面白い。

 

 それにしても、なぜこんなに寺が沢山なのだろう。この地区には浄土真宗の東本願寺があって、その周囲に末寺(脇寺)がいくつもあるのだが、浄土真宗の寺だけではない。

 左側のページにも寺はやはりいくつもあって、日蓮宗の本覚寺や曹洞宗の祝言寺(開祖が太田道灌)など有名で立派な寺がある。

 今、自分の墓をどうするか、あれこれ思案中なので、それで寺のことが気にかかるのかもしれない。郷里の寺に実家の墓はあるのだが、家を出た(分家した)子どもたちは入れないのだという。なぜだかは分からない。

 つまり、なぜ一家庭に一つずつ墓を用意しなければならないことが当たり前の社会慣習になっているのかが分からなくて、考えているのである。今や都会の郊外は墓地・霊園だらけだ。そのうち日本は墓だらけになって滅びるのではないか。

 こんな時には、なぜか良い本にめぐり会う。中野剛次の『葬式仏教の誕生』(平凡社新書)である。この本には実に恐ろしいことが書いてある。

 奈良、平安時代には仏教は国家宗教であったため、僧侶は官僧(国家公務員宗教職)で、葬儀は執り行わなかったのだという。死者(人の死)に立ち会うと「死穢(しえ)」を帯びてしまい、それを清めるために一ヶ月公職を休まなければならなかった。だから、葬儀には一切関わらなかった。

 葬式は坊主の専売特許ではなかったのである。

 では、死んだ者や死にかけた者はどうしたのか? 町外れの空き地や川原に連れて行かれて放置された。つまり、捨てられたのだ。

 僧侶が葬儀を執り行うようになるのは鎌倉時代に入ってからで、自ら官僧身分を捨てて、俗世に戻り「聖」となった僧が葬儀を執り行って「往生」させるようになったのだという。

 例えば、法然は比叡山延暦寺の優秀な官僧であったのに、その身分を捨てて世俗に戻り、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えるだけで極楽浄土へ行けるという浄土宗を始めたのだった。異端の仏教だったんだね。

 だが、まだ墓はなかった。同業者たちがグループ(講中)を作って、五輪塔や宝塔を建てて、死後は塔の地下にある室に葬られた。大きな石は山へ行かなければ手に入らないし、手に入れて塔を建てるには多額の金が入用だったろう。死んだら家族や仲間と一緒の墓に入ることになっていたのである。寂しくなくていいね。

 江戸時代になってから、人々は家単位でいずれかの寺の檀家として登録されることになった。現在の戸籍に当たる人別帳が作成され、それぞれ檀家寺が管理した。宗旨を問わず家毎に寺に属し、そこに家の墓を建てて、死後はそこに葬られることになった。私のように家を出た者は、戸籍から外れて、新たな戸籍を立てるわけだから、どこかの寺に属してまた新たに墓を建てなければならなかったのである。

 墓は制度だったのだが、家という制度が崩壊しかかっている現在、墓は新しい形態を持ったものとして考えてみたくなった。

<2012.02.21>

 

 

第35回〈雪駄〉

 今年こそ、本物の雪駄を買いに行きたい。

 やはり浅草のひさご通りの履物屋だろうなあ。意外に本物は値が張るものなのだ。町中の履物屋で商っている雪駄様のアレは偽物で、雪駄風のゴム草履でしかない。

 辞典によると、「竹皮で編んだ草履表に、裏に牛皮などを縫いつけた履物。千利休の創意という。のち踵(かかと)に裏鉄(うらがね)を付けた」とある。裏が牛皮でないと本物ではないのだ。

 江戸時代には主として「雪踏」と表記され、その生産・流通は近世の都市における需要の増大とともに発展したのだそうだ。そして、雪駄の生産と修理は、長吏(穢多、皮多)身分の人たちの一手に担われていた。

 話が変わるけれど、映画『男はつらいよ』で車寅次郎がつっかけている草履、あれが雪駄である。踵に裏鉄が打ってあるので、歩くとアスファルトの道路にカチッカチッと音を立てる。初期の『男はつらいよ』では集音マイクがその音を正確に拾っていたが、いつ頃からか拾わないようになっていく。車寅次郎のイメージがヤクザっぽい香具師(テキヤ)から、愛すべき面白い小父さんへと変えられていってからのようだ。雪駄は今でも祭りなどで男たちが普通に履いているのだが、ふだん履いているのがヤクザっぽい人たちになってしまったからだろう。

 ところで、底というか裏が牛皮だというのは大事なことなのである。

 なぜか?

 江戸時代、牛は田畑を耕す労働力として飼育されていた。今のように食用牛、乳牛として飼育されていたのではなかった。だから、絶対数が少なかった。そのうえ、事故や病気で死んだ場合、農民は原則として自分で牛を(馬も)処分してはならない決まりになっていた。村の決められた廃棄場所へ持っていって捨てなければならなかった。

 捨てられた牛馬を処分するのは穢多・皮多身分の人たちだった。差別であると同時に一種の特権でもあった。

 なぜなら、牛や馬の皮を剥いでなめして皮革にすると、その用途は武具から太鼓の皮、そして雪駄まで幅広いからである。皮革は武士にはなくてはならないものだった。だから、牛皮を雪駄の裏底に縫いつけて加工できるのは、この身分の人たちだけだったのである。

 問題は「肉」である。江戸時代より以前から肉食は禁止されていたからである。死んだ牛馬の大量に残った肉はどうするのか。

 肉食が禁止されていたからといって、一切口にされなかったわけではない。禁止令がたびたび出されていたということは、かなりに食されていたことと表裏にあるからである。

 冷蔵庫のない時代、ぐずぐずしていると肉は腐る。だから、さばいたら干し肉にするか、味噌漬け肉にした。毎年、将軍家へ献上されたものもあったという。

 だが、庶民は肉を口にしてはならなかったのである。だから、肉類は穢多・皮多身分の人たちが食していた。少しばかりの農地を持っている者もいるにはいたが、農民ではなかったので、食糧が足りない時は肉を食べざるを得なかった。ずいぶんと栄養がついたことだろう。事実、体力強壮だったと言われる。

 いまホルモン焼きとして食されている内蔵類も、この人たちが加工して食べていた。「あぶらかす」が、うどんに添えられて一般の人たちが食べている現在からすると、まさに「隔世」である。

 1871(明治4)年、賤民解放令が発布されて、穢多・非人の人たちが順次平民になると同時に、死んだ牛馬の処理と皮革加工は彼らの特権ではなくなった。つまり、雪駄も誰でも作ってよいことになった。

 大事な生業の一つであった皮革の生産と加工が自由な競争による産業になった時、長吏頭の13代目弾左衛門矢野直樹はその技術をどう使うことにしたのだったか。彼は明治政府の軍隊の兵隊が履く「軍靴」の製造へと転換したのである。

<2012.01.27>

 

 

第34回〈新撰組〉

 新年明けましておめでとうございます。

 私が住んでいる調布も、NHK朝のテレビ小説「ゲゲゲの女房」の舞台として知られることになって、たくさんの人が訪れてくるようになった。昨年の元旦、調布駅近くの布多天神に初詣に行ったところ、参拝客の行列の長さに肝をつぶした。これまでは例年、人影もまばらだったのに。

 今年の元旦はどこに初詣に行ったらいいのか?

 私の家から東に通り一本隔てると、地名が上石原と変わる。新撰組という今回のタイトルで、しかも上石原と聞いて、すぐにピンときたあなた、かなりのマニアですね。そう、新撰組(二代目)隊長近藤勇の生地です。

 だからというわけでもないのだが、今年の元旦は調布七福神の一つ大黒天がなぜか割り当てられた、上石原の西光寺にまずは出向いて初詣することに。ふだんは墓地経営がやたらにうまいお寺としか認識していなかったし、前を通りすぎるばかりで本堂まで入っていったことがなかった。

 古い門がある。

その前の左側に、なぜか近藤勇の座像がある。

数年前、NHKの大河ドラマで「新撰組」が放映された時、観光客を当てこんで慌てて造ったのだが、ようやく今ごろになって古びが出てきて良い色合いになった。

 その奥に鐘楼を兼ねた門がもう一つある。

浅草寺のように門が二重にあって、そこを通って本堂に達する寺はかなりに古い由緒ある寺である。住職だろうか、境内を掃除している僧がいる。こういう時は訊ねてみるに限る。

 それによると、この西光寺は天台宗のお寺で、深大寺と本末(本山と末寺)の関係にあって、末寺の一つとして18世紀初めに創建されたのだという。先代住職の時、深大寺とともに調布七福神めぐりを企画し、大黒天が割り当てられたのだとか。天台宗というのは商売がうまいねえ。

 近藤勇の座像があるのは、彼の生家がこの寺の檀家だった縁で造立されたのだという。観光客目当てではないと言わんばかりだったが、思ったほど観光客でうるおわなかったからだろう。

 私は別に新撰組が好きなわけではないし、隊士の誰それの人生にロマンも感じない。ただ近藤勇が農家の生まれだということにいくばくかの興味がある。日本歴史大事典(電子辞書)を引いてみる。

 近藤勇(1834-68)、武蔵国多摩郡上石原村の農業宮川久次郎の三男に生まれる。幼名勝五郎、通称勝太。天然理心流試衛館(しえいかん)主の近藤周助の養子となって近藤勇と名乗る。1863年、同門の土方歳三、沖田総司らと幕府徴募の浪士隊に加わり上洛、京都郊外の壬生村(みぶむら)に屯集した。後、新撰組を結成、二代目隊(局)長となる。1864年の池田屋事件で名を挙げ、1867年に幕府召し抱えとなる。翌年の鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸へ引き揚げ、甲斐勝沼で官軍と交戦するが敗走。下総国流山で投降して捕らわれ、江戸板橋の庚申塚で処刑され、首は京都三条河原にさらされた。墓は東京三鷹市の龍源寺などにある。

 近藤勇に興味があるのは、武芸に秀いでていたとはいえ、農家の三男が将軍の身辺警固にあたる佐幕浪士隊として幕府に召し抱えられていくという、江戸幕末の流動する時代の様相が見えて面白いからだ。支配階級にあった武士は意外なほど実戦に疎く、弱かったのだ。代わって身分の低い層から取り立てられる者の方が、豪胆で強かったのだという。

 このコラムでも何度も登場している長吏(穢多)にしても、13代目弾左衛門は賤称廃止(醜名除去)を求めることと引きかえに、長吏たちによる銃隊編成の計画を進めていた。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れて江戸に戻ってきたので、その必要がなくなっていた。この戦いで、自分が粛清したかつての仲間に撃たれて負傷した近藤勇が、医師松本良順に伴われて、治療のため新町の弾左衛門屋敷を訪ねている。

 そんなことを塩見鮮一郎の『解放令の明治維新』(河出ブックス)を読んで知った。近間の初詣も意外にいいものだ。

<2012.1.6>

 

 

第33回〈内藤新宿・続〉

 やはり実際に足を運んでみないと分からないものだ。気になる寺のもう一つ、天龍寺のことである。

 本やインターネットで調べれば何ほどかのことは調べられるのだろうが、行ってみないと分からないことというのが確かにあって、それは寺本体だけのことではなくて、寺にまつわることがらや寺の周囲のことにまで拡大していくのである。

 江戸切絵図ではあんなに広大な境内を誇る大寺だったのに、現代の地図では名前すら載っていなかった。その境内の広さはおそらく、新宿御苑の新宿門からシネコン・バルト9の入った丸井や都立新宿高校をふくみこんで、高島屋タイムズスクエア辺りまでもあったろう。なぜこんなに広大な境内を所有していたのだろうか。

 結論から先に言うと、この寺が内藤新宿の象徴的な中心だったからである。太宗寺ではなかったのだ。あれは内藤氏の菩提寺であるにすぎなかったのである。たまたま宿の中心にあったというにすぎない。

 それに対して天龍寺は門構えからして、まことに立派な寺である。

なぜこんなに立派なのか。本堂の左右の扉には、葵の御紋が金色に輝いている。

いったいこの寺は何なのだ。そもそも宗旨すらどこにも書いてない。門柱に護本山天龍寺とあるだけである。

 たまたま寺の事務所から出てきた上品な高齢の女性にぶしつけながら訊ねてみた。

 「このお寺の宗旨は何宗なんですか?」

 「曹洞宗です。本山が福井の永平寺の」

 「禅寺なんですね?」

 「そう、古いお寺なんですよ。徳川家康の母親の菩提寺なんです」

 「ああ、それで本堂の扉に葵の御紋がついているんですね」

 「そう、上野の寛永寺と並んでね。このお寺は新宿の中心だったんです。あの門も重要文化財」

 「ええ、見事な門ですものね」

 そんな会話を交わして、なぜこの寺がかつてあんなに広大な境内を保有していたのか、納得がいったのだった。今では門前を明治通りが、西側を甲州街道が走っている。多分、都市整備事業のせいで境内が削りに削り取られたのだろう。

境内に鐘楼があって、そのそばに新宿区教育委員会の建てた説明板が立っている。それによると、この鐘は「時の鐘」と呼ばれていたのだそうだ。またしても書き写す。

 元禄13(1700)年に牧野備後守成貞により寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」である。(中略、この鐘は)三代目のもので、明和4(1767)年の鋳造である。

 天龍寺の時の鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々を追い出す合図であり、「追出しの鐘」として親しまれ、また江戸の鐘のうちここだけが府外であり、武士も登城する際、時間がかかったことなどから三十分早く時刻を告げたという。

 なお、上野寛永寺、市ヶ谷八幡とともに「江戸の三名鐘」と呼ばれた。

 惜しいことに「追出しの鐘」が打たれたのが何時だったのか書いていない。岡場所で一晩中遊んでいた人たちがしぶしぶ家路についたのは何時ごろだったのか。

 現代の新宿は今も激しく変貌しつつある都会である。近年ガラリと変貌したのが南口で、天龍寺とJRの線路の間の一帯はかつていかがわしいホテルや旅館が立ち並ぶところだった。今はもうない。ただ天龍寺と都立新宿高校に挟まれた一帯に古くさいビジネス・ホテルが立ち並んでいて、ここら辺が昔どんなところだったかを偲ばせてくれる。

<2011.12.24>

 

 

第32回〈蕎麦(そば)切り〉

 蕎麦のツユのことなど書いたら、無性に「むき蕎麦」が食べたくなった。生まれ故郷の郷土料理である。

 むき蕎麦がどんな料理かご説明する前に、質問を一つ。「蕎麦」と聞いて、どんな料理を思い浮かべますか。そば粉を水とつなぎで練ったものを薄く延ばして、折りたたんで細く切ったものを茹でて、冷水でぬめりを取って、しめて、それからツユにつけて、あるいは熱い汁をかけて食するもの、ですか?それは「蕎麦切り」という料理ですね。実に手間のかかる料理です。

 昔、内田百閒が弟子を連れて、「近くに美味いそば屋があるから行こう」と言ったら、弟子が「どんなそばが美味いんですか」とたずねた。そしたら、百閒先生一言「そばです」と答えたのだとか。先生の頭にあったのは多分この「蕎麦切り」のことだったと思われる。

 ちなみに、もりそばのことを「せいろ」と呼ぶ店があるのは、昔、そばを蒸籠(せいろう)で蒸して出したことの名残である。ざるそばはザルに盛って出したからで、もりそばは皿に盛って出したからだ。今ではもうみんなごっちゃになっている。

 そばの料理にはこの「蕎麦切り」の他に、そば粉を熱湯で練って、そのまま味をつけてか、味噌味の汁に入れて食する「蕎麦がき」と、もう一つ「むき蕎麦」がある。

 外皮を取った蕎麦の実(米で言うと玄米にあたる)をそのまま茹でて、十分に火が通ったらザルにすくって、そのまま冷ましておく。その前に汁を用意しておく。出汁を取って醤油とみりんで薄く味をつける。干し椎茸を水で戻したものを煮て味をつけておく。後で椎茸は細切りにして具にします。あと、ネギを薬味として刻んでおくこと。これでむき蕎麦を食べる用意ができました。お好みできざみ海苔をかけてもいいです。

 茶碗蒸しに使うような器に、茹でて冷ました蕎麦の実を適量入れ、これも冷ました汁をかけて、椎茸の細切りと薬味をかけて、あとはお茶漬けのようにさらさらといただきます。あっさりしていて、飲んだ後のシメに最適です。郷里ではよく宴席の料理の最後に出てきます。

 

11月17日に日テレの「ケンミンショー」で、この「むき蕎麦」が紹介されたので、ごらんになった方もいらっしゃると思う。

 この稿は残念ながら、むき蕎麦のことではなく、蕎麦切りについて少し考えようと思って書き始めた。蕎麦切りは、もちろん麦切り(うどん)から来ている。そば粉はそのままではうまく練れないので、なかなかうどんのようには延ばせない。知恵者がいて、つなぎにうどん(小麦)粉や山芋をすったのを入れて練るようになって、ようやく蕎麦切りができるようになったことが分かる。

 いったい何時ごろから蕎麦切りは食されるようになったかというと、江戸の元禄期かららしい。それまでは圧倒的にうどんが食されていたのである。

 前に紹介した『風流・江戸の蕎麦』(中公新書)の冒頭に、赤穂浪士討ち入りの日の謎が書いてある。元禄15(1702)年12月14日の夕刻、浪士(四十七士)は本所(両国)のある場所に落ちあって、腹ごしらえをしてから近くにあった吉良上野介邸へ討ち入りをしたのだが、彼らが落ちあったのがうどん屋なのか、それともそば屋なのか二説あって、いまだに決着がついていないのだという。

 元禄の頃の江戸は、うどんが全盛であったので、うどんが前面に出てくるのはむしろ自然なことだった。それなのにそば屋説が出てくるのはなぜなのか。それは、徐々にそばがうどんを圧倒して、江戸の人々が食する麺類といえば「そば」になっていったからだろう。

 結論を記してしまうと、うどん屋でもそば屋でもなく、彼らは浪士三名の居宅に分かれて別々に集合した後、吉良邸に結集して討ち入りをしたのだった。つまり、お店に集合したというのは一種の都市伝説だったわけだ。

 確かに想像してみれば、四十七名もの武士が一軒のうどん屋かそば屋の二階に集合して、討ち入り装束に着替え、それから腹ごしらえなどしたら、余りにものものしくて、かえってすぐに怪しまれたに違いないのである。

<2011.12.20>

 

 

第31回〈江戸の名〉

 江戸はどうして江戸と呼ばれていたのだろうか。そもそも江戸とはどんな意味だったのだろうか。

 地名にはその土地がどういった由来を持っていたかという、来歴が宿っている。あだやおろそかに考えてはならないのである。

 新宿という地名がなぜ「新しい宿」なのかということにはきちんと理由があった。板橋は「板張りの橋」が旧石神井川に架かっていたからだというが、そんな橋はどこにもあっただろうし、そもそも豪族板橋氏が支配していた土地だったということはどう考えたらいいのだろうか。千住は古くは「千寿、千手」と記されていた。多分、古い由来があることがうかがわれる。

 江戸は「入江の戸」または「江の門戸」だったからそう呼ばれたと、どの事典にも書いてある。海が陸地に深く入りこんだところの、海への出口だったというのだが、そんな地形は日本国中ざらにある。それなのに江戸は一カ所だけの地名である。

 平安時代末期、秩父から平氏の流れをくむ豪族たち五人が、なぜか関東平野の海側に進出してきた。その一つが江戸氏だったという説もあり、また進出してきて住みついた土地の名を一族の名にしたという説もある。江戸氏の他に、葛西氏、豊島氏があったという。後者二者は現在も地名として残っているが、それはどう解釈したら腑に落ちるのだろうか。

 要するに、よく分からないのである。

 こういうとき、私は敬愛する作家・研究家の塩見鮮一郎に助けを求める。彼の『賤民の場所・江戸の城と川』(河出文庫)を買ったまま読んでいなかった。これを読んだら、私の疑問など立ちどころに氷解してしまうだろう。

 ところが、詳しすぎて、逆に簡単にはまとめられないことが分かった。

 朝鮮半島から渡来してきた一族が秩父盆地に定着し、都から出張してきた貴人と結びついて、平氏を名乗っていた。それで秩父流平氏(ちちぶりゅうへいじ)という。この一族は関東にさまざまな技術を伝えたが、そのうち最重要なものに銅の生産があって、遠く都へ運ばれ、貨幣に鋳造された。もちろん、舟運によってである。荒川の水路(現在の荒川とは異なる)を確保しつつ海に出るために、一族の息子たち五人を平野部に遣わし、川沿いの要衝を支配させ、館を造営させた。

 

 塩見の本から、その系図を示すと、平重綱(たいらのしげつな)の息子三人と平清光(たいらきよみつ)の息子二人の計五人が、順次、武蔵野台地を現在の東京湾の方へ進出してきた。平重弘(たいらのしげひろ)が畠山(埼玉県大里郡)へ、平重隆(たいらのしげたか)が河越(埼玉県川越)へ、平朝経(たいらのともつね)が豊島(北区上中里)へ、平清重(たいらのきよしげ)が葛西(葛飾区四ツ木)へ、そして平重継(たいらのしげつぐ)が江戸へと進出してきて、その土地に定着して、それぞれ地名を姓名にして、畠山氏、河越氏、豊島氏、葛西氏、江戸氏を名乗ったことになる。

 塩見鮮一郎の手書きの地図を拝借して載せるが、現在の地図と全く地形が異なっている。前記の五人は、その定着した土地に館を建てて、その土地を支配したが、現在に残る城とは違って砦(とりで)とでも呼ぶべきものだった。

 江戸重継は、上野の台地に根を張っていた豪族関道閑(せきどうかん)の娘と結婚し、浅草を見渡す台地上に親戚を得て、力を増した。生まれた子が江戸太郎重長で、一族の繁栄の頂点に立つことになる。

 江戸氏は江戸湊を支配する強大な豪族になったが、相模と下総に挟まれて、その政治的な立場はつねに微妙なものだったようである。

 治承4(1180)年、源頼朝は伊豆で挙兵したが、石橋山の合戦で敗北し、箱根の山中を逃げ回り、船で真鶴を出て下総(千葉)へ逃れた。千葉県の豪族たちは頼朝という武家の棟梁と結びつくことで、京都の権力支配に一矢を報いようとした。

 頼朝軍は再度相模に入って、この地を征服するつもりだったが、進軍の途中に当たる江戸重長との衝突だけは避けたかった。そこで、頼朝は重長を「坂東八カ国の大福長者」とおだて、葛西氏、豊島氏を味方につけて、なんとか江戸氏を説得して戦いを交えることなく相模に再びはいることができた。

 鎌倉時代に入って、幕府は江戸前島(今の新橋駅から東京駅付近)を鎌倉円覚寺領にして江戸氏の勢力を殺いだ。室町時代に入って、関東管領上杉氏の家臣太田道灌が勢力の衰えた江戸氏を追放して、江戸城を建設したのが長禄元(1457)年のことである。

 江戸氏が追放されても「江戸」の名が残ったというのが、私にはいささか解せないのである。江戸氏は今の世田谷区喜多見に退いて、そこで衰亡したことになっているからである。

<2010.10.25>

 

 

第30回〈内藤新宿〉

 新宿に来ている。より正確には新宿2丁目、最寄り駅は地下鉄新宿御苑前である。

 気になる寺が二つある。一つは太宗寺(たいそうじ)、もう一つが成覚寺(じょうかくじ)、前回現代の地図に載っていた寺々だ。本当はあと天龍寺(江戸切絵図に載っていた)にも寄りたいのだが、今日は余裕がないだろう。

 新宿の中心ってどこだろう、と考えたのが今回の散歩のきっかけだった。ふだん漠然と新宿駅が中心だろうと考えていたが、鉄道そのものが明治期にできたものだから、江戸時代に中心であったわけがない。

 地図を見ていたら、新宿御苑の中に「内藤町」の文字があって、大木戸門の辺り一帯がそう呼ばれていたことが分かった。調べるなら、地下鉄曙橋駅近くにある新宿区立歴史資料館に行ってみれば、多分一発ですべてが分かるのだろうが、知識として分かってもちっとも実感が伴わないだろう。行ってみなければ。

 地上に出て、目の前の花園通りを渡るとすぐに太宗寺が見えてくる。宗派は浄土宗で、何だか境内ががらんと広い寺である。

 慶長元(1596)年ごろに僧太宗によって開かれた草庵が前身なのだそうで、後に信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展したのだそうである。あっさりと内藤新宿の中心に達してしまった。ちなみに、内藤家の下屋敷だったのが、現在の新宿御苑である。

 この寺の門前町が、内藤新宿の下町、仲町、上町と三つに分かれていた宿の中央だった仲町に当たる。宿は今の花園通りの両側に、東西九町十間余り、約千メートルにおよんでいた。四谷大木戸(現在の四谷4丁目)から追分(現在の伊勢丹デパートの筋向いの追分だんご本舗)まで続いていて、追分で青梅街道と分岐していたのである。

 仲町に宿の中心である本陣とそれから問屋場があった。さぞ繁盛していたことだろう。本来、甲州道中の第一宿は高井戸にあったのだが、遠すぎるというので、元禄12(1699)年に幕府に許されて宿が設けられ、正式に江戸からの第一宿となった。宿場として繁盛しただけでなく、周辺の武士、町人、農民相手の岡場所(私娼街)として発展しすぎたため、享保3(1718)年には早や廃止になってしまった。

 再開が許されたのは明和9(1772)年になってからで、以前を上回る繁盛を始めたと言う。19世紀半ばには旅籠屋24軒を数え、約二千人の人口の半分以上が女性だった。その大半が、前回紹介した飯盛女である。彼女たちは、なぜか「子供」と呼ばれていたのだそうである。

 吉原の遊女たちが多く葬られた浄閑寺があるように、新宿にも飯盛女=遊女たちが葬られた成覚寺がある。確かめられなかったが、宗派はきっと浄土宗だろう。現在は靖国通りに面している。

靖国通りは、ここ新宿で甲州街道に接続するのである。境内に「子供 合埋碑」が建立されていて、ここに弔われている。

その向い側に、江戸の六地蔵のミニチュアが並んで建っている。

浄閑寺のような陰惨な感じがしないのが、せめてもの救いである。

 太宗寺といい、成覚寺といい、そして天龍寺も、昭和30年代の道路拡張・建設のための区画整理で境内の面積が三分の一に縮小されてしまったのだそうで、江戸時代にどんな寺であったかは、想像力を駆使して頭の中で拡大して行くしか手がない。

 さて、新宿2丁目と言えば、かつても今もオカマ・バーの凝集した街である。現在はこれにホスト・クラブやら何やら風俗店が加わって、すごいことになっている。櫛の歯のように並んで建つ雑居ビルの中には、上から下まで全部バー、クラブで埋めつくされているのが多い。

 訪ねてみたのが昼間でよかった。もし、これが深夜であったら、うす暗い路地のあちこちにゾクッとするような美女たち(男)の姿をみることになっただろう。

 帰りは新宿3丁目に出て、世界堂に寄ってみると面白い。何が面白いのか、って? 行って見れば分かります。

 では、また。

<2011.10.12>

 

 

第29回〈江戸四宿〉

 日本橋を起点にして、西へ北へと延びる五街道。東海道、中仙道、甲州道中、日光道中、奥州道中。日光と奥州は途中まで同じなので、奥州道中に替えて水戸道中を加えることもある。いわゆる江戸の五大幹線道路である。

 徒歩で旅するのが当たり前だったから、最初の宿はまだ武蔵の国の中である。東海道なら品川宿、中仙道なら板橋宿、甲州道中なら内藤新宿、日光、奥州道中なら千住宿で、これらを江戸四宿(えどししゅく)と呼んだ。というより、これらの宿から実質上それぞれの街道が始まるのである。

 昔の街道って思っていたより、ずい分幅が狭いものである。北品川の旧東海道を歩いたときそう思った。昔の街道はあと板橋に残っているのだが、まだ行ったことがない。そのうち訪ねてみよう。

 内藤新宿に至っては、どこが宿だったのか、今ではさっぱり分からない。江戸切絵図では天龍寺という大きな寺の上の辺りだが、現代の地図にはその寺さえ乗ってない。旧甲州街道は残っているが、新甲州街道(国道20号線)ができるまで自動車道になってしまっていたので、昔の街道の面影は残っていない。

 さて、宿って何だったのだろう。

 正確には宿駅と言って、整備されたのは近世(江戸時代)に入ってからである。交通ルートの結節点であるとともに、周辺村落の諸生産物の集散・売買や文化・情報伝播の拠点であり、地域社会の一中心地として重要な役割を果たした。事典ふうに解説するとそうなる。

 これは思っていたより大ごとで、宿と言っても街道筋に旅館が立ち並んでいただけではなかったようである。想像力をたくましくしてみる。

 まず旅をする者が必ず持っていた通行手形を改める関所という役所が要る。今で言うパスポート・チェックで、俗に「入り鉄砲に出女」と言われたように、幕府は地方諸藩の動向に神経をとがらせていた。さらに宿駅というように、駅ごとに馬が何十頭か用意され、火急の際の情報伝達に早馬で乗り継げるよう、準備がなされていた。これが駅伝制度である。

 旅人が宿泊する旅籠(はたご)街を束ねる本陣があって、参勤交代する大小名や貴人などが休泊する大旅館だった。本陣の周囲に大小の旅籠が立ち並んでいただろう。事典には、無料の休泊所もあったとある。

 旅館があれば、周辺に飲み屋や遊興場があったこと、容易に想像できる。

 飯盛女(めしもりおんな)と聞くと、頬っぺたの赤い健康そうな若い女性が茶碗いっぱいにご飯を盛っている様を想像してしまうが、実体は遊女である。つまり、それぞれの宿には公認の遊郭があった。吉原から苦情が出るほど繁盛したのだとか。そこまでは、なかなか想像できない。

 周辺の村落から生産物が集まってきたから、それらを扱う問屋場が設けられて、荷がさばかれた。当然、商品を小売りする商店も多くあったことだろう。

 要するに、宿場町と言ったら、現代の繁華街と大して変わらない、一大宿泊産業遊興地へと、私の想像力の中ではふくらんでいく。というより、一つの都市だったと見た方が現実に近い。

 まだ宿の有り様から抜け落ちている者がいる。諸生産物が集積したから、それらを運搬したり、仕分けしたりする人足(労働者)が多数いたこと。馬の世話をしたり、売買したりする博労(ばくろう)もいたことだろう。このコラムではもうおなじみになっている、都市の清掃業者たる非人たちも溜を作って居住していたのである。

 さらにもう一つ付け加えるなら、都市には近郷で食いつめたり、何らかの事情で居住していられなくなった人々が貧民として流入し、宿場町の周縁に貧民街(スラム)を形成していたことである。

 以上のような諸施設や多様な人々をひっくるめて、江戸の四宿だったのである。現在、それら宿の跡はどうなっているのだろう。私は皆さんをご案内はできないが、一人で訪ねてみるつもりでいる。

<2011.10.7>

 

 

第28回〈蕎麦(そば)のツユ〉

 漱石の『吾輩は猫である』の中にこんな場面があったとは覚えていなかった。鈴木健一の『風流江戸の蕎麦』(中公新書)で知った。

 作中、苦沙弥先生の細君に友人迷亭君が蕎麦の食べ方を講釈するのである。

 滑稽な場面だから全部引きたいのだが、省略して、まず迷亭君は「初心の者に限って、無暗にツユを着けて、さうして口の内でくちやくちや遣つて居ますね。あれぢや蕎麦の味はないですよ」と言ってから、「この長い奴へツユを三分一つけて、一口に飲んで仕舞ふんだね。噛んぢやいけない。噛んぢや蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込む所がねうちだよ」と教えるのである。

 この「江戸っ子の蕎麦の食べ方」が私は以前からキザで嫌でたまらなかった。真似てその通りに食べている人を見かけると、ますます嫌でたまらなくなった。蕎麦ぐらいどう食べたっていいだろうと。

 落語が大好きだった漱石は、落語家がエアでやって見せる蕎麦の食べ方を自分が創った登場人物迷亭君にやらせて見せて、笑っていたか、江戸っ子と称する人たちをからかっていたのではないかと思い始めたのは最近のことである。

 だって、江戸っ子の食べ方をすると蕎麦はうまくないものね。先代(6代目)の柳家小さんがいつだったか、蕎麦屋で蕎麦にたっぷりツユをつけて食べてみたいもんだが、人目があるもんだから、と言っていたのを思い出した。周囲の人たちは、彼が落語でやって見せるのと寸分たがわぬ食べ方をするのを期待して、小さんを見ていたからだろう。

 なぜ蕎麦にたっぷりツユをつけないで食べるのか、その理由が分かったのは、昨年、千三屋君と浅草の並木の藪(やぶ)でせいろを食べた時のこと。藪の蕎麦は甘皮を取らずに粉にするので薄緑色をしているが、そば猪口にツユが少ししか入っていない。そもそもツユがたっぷりつけられないようになっているうえに、蕎麦は硬めにゆでてあり、ツユがひどく濃厚で辛いのだ。江戸っ子でなくたって、迷亭君が教えるように食べることになる。食後、そば湯で割って飲んでちょうどよいようなツユの濃さ、辛さであった。

 藪蕎麦の元祖とされるのは、雑司ヶ谷の鬼子母神にあった「爺が蕎麦(ぢぢがそば)」だったそうで、当時「藪の内」と呼ばれていたのだとか。意外なことが書いてある。

 「藪の中爺がそばとて、雑司谷の路辺藪の中に小家有りてそばを拵へ売れり。生そばにてまじりなしとて、人々大きに賞し、手前より汁を拵へたづさへ往きて食する者あり。田舎そばはよろしけれ共、汁悪敷故也。」

 藪蕎麦もツユはまずかったから、家でツユを作って、ツユ持参で蕎麦を食べに行ったのだというわけだ。

 浅草にもっともっとうまい蕎麦屋は幾つもある。だが、蕎麦のうまさとツユのうまさと、それから人あしらいの心地よい蕎麦屋はめったにあるものではない。

 たかが蕎麦なのだが、されど蕎麦なのである。

<2011.9.22>

 

 

第27回〈消えた町・続〉

 浅草から消えてしまった町は、長吏(穢多)たちの新町だけではない。他に幾つもあった。

 江戸三座と呼ばれた歌舞伎の芝居小屋があった猿若町も、いまはない。江戸切絵図で見ると、浅草寺の裏手(北側)すぐそばにあったのである。

現在は言問通りが通って隔てられているので、なおさらその近かったことが感じられなくなっている。

 もっとも、芝居小屋が悪場所として浅草へ移転させられ、明治時代になってから消えていった経緯は、これまた複雑である。

 浅草寺裏の観光バスの駐車場には、9代目市川団十郎の「暫(しばらく)」の銅像があり、18代目中村勘三郎は今年も隅田公園に平成中村座を建てて(もう何度目だろう)、興行すると言っているし、浅草公会堂では毎年歌舞伎初春興行が行われているので、浅草と歌舞伎の縁はずい分深いように感じているが、果たして本当にそうだろうか。

 歌舞伎の劇場が水野忠邦の天保の改革の一環で、浅草猿若町へ強制移転させられたのは天保12(1841)年のことである。まだ幕末ではないにしろ、明治維新まであと26年という近さである。

 江戸切絵図で見ると、浅草寺に近い方から中村座、市村座、川原崎座と並んでいて、その裏側に糸操り人形芝居の結城座と、もう一つ何と書いてあるのか読めないが、もう一座ある。

 今の浅草六丁目に当たる。馬道通りと江戸通りに挟まれたところで、行ってみても何もない。目立たない石碑「市村座跡地」が建っているだけだ。

すぐ近くに舞台道具制作、小道具貸出の藤浪があるので、ああ芝居町だったんだなと、わずかに納得するだけであった。

だが、スカイツリーの影響というより墨田区の観光事業に学んだのだろう、屋根提灯風の説明柱が新設されていた。

 周辺に人をほとんど見かけない。浅草だとは思えない静けさである。

 江戸三座は、中村座(座元・中村勘三郎)、市村座(座元・市村羽左衛門)、森田座(座元・森田勘弥)だとあるが、江戸切絵図では森田座が川原崎座になっているのは、三座に支障があったときの控櫓(ひかえやぐら)=代理だったのか。幕府から公式に興行を許された歌舞伎の劇場で、俗に大芝居と呼ばれる。最初はこれに加えて山村座があって四座あったのだが、正徳4(1714)年にスキャンダル(絵島生島事件)を起こして廃絶させられた。浅草に移転させられた時はすでに三座になっていた。

 浅草に移る前は、日本橋の東、堺町、葺屋町、木挽町にそれぞれ座を構えていた。

 中村座は明治8(1875)年に3代目中村仲蔵へ座元を譲ったが不振続きだったそうで、明治26(1893)年に火災で焼失して廃絶された。

 森田(守田)座は明治5(1872)年、12代目守田勘弥が猿若町から京橋区新富町へ移転させ、明治8(1875)年に新富座と改称した。わが国初の洋式劇場となるのは明治11(1878)年のこと。守田勘弥は当時劇界の大立者(おおだてもの)だった。

 何だか日本演劇史の授業のようになったので止めるが、要するに浅草猿若町(芝居町)といっても明治の初年にはもう見る影もなくなっていたということだ。浅草と歌舞伎の縁はそれぐらいのもので、私は余り過大評価しないようにしている。

 歌舞伎役者の身分は士農工商から外れたもので、はじめ非人層に属していた。非人は長吏(穢多)頭の弾左衛門の支配を受けていた。従わないと劇場の打ちこわしに遭ったので、歌舞伎役者はその支配からしきりに脱したがった。それが実現したのが宝永5(1708)年の勝扇子(かちおうぎ)事件だが、もうくわしく述べている余裕がなくなった。

 同じ浅草寺の北に住まいしていながら、長吏と歌舞伎役者の仲はきわめて悪かったのである。

<2011.9.13>

 

 

第26回〈人力車〉

 前に一度紹介した井上理津子の「旅情酒場をゆく」第20回に、浅草雷門前で乗ったのだろう若い女の子二人が千束二丁目の吉原観音の前にやって来たとき、車夫が花魁のことを彼女たちにこう説明していたという箇所があった。

 「今の風俗街とは全然違って、吉原は教養深い花魁が高級武士を相手にしたところだったんですよ。」

 それに対して井上理律子が心の中でつぶやくのだ、「半分正解で、半分間違っているよね。別にいいんだけど。」

 そう、別にどうでもいいのだが、花魁がすべてそうだったわけでもなく、相手にしたのはすべて高級武士だったわけでもない。話は分かりやすい方がいいのだが、どうも歴史の記憶をわざと歪めて、できるなら余計なものは消し去ろうとする作為が感じられてならない。

 もっとも、江戸時代最も教養のある女性は吉原の花魁だったろうと、私もよく言うことがあるので気をつけなければならない。確かに、漢詩を作ったり、英会話ができたりした花魁もいたのだそうである。全員がそうだったわけではない。妓楼の看板になる御職女郎が花魁で、当然数は限られていたのだ。

 それに明治に入ってからは、芸者の方が数の上では圧倒的に多くなり、吉原芸者は柳橋や深川の芸者よりワンランク上に見られていたのだそうである。

 浅草雷門前で客引きする人力車の車夫たちの縄張り争いや強引さが一時問題になったことがあって、車夫といっても独立稼業は少なく、雇われている者がほとんどだが、彼らの間で話し合いがついて、現在のような形での営業になったのだ。

 ところで、人力車っていつごろからあったのだろうか。

 人力車は、明治2(1869)年に和泉要助が鈴木徳次郎、高山幸助とともに舶来馬車の形から考案して、「新造車」として開業を出願したのが始まりだとされている。私は、人力車は西洋の馬車とは似ても似つかないと思うけれど。

 翌年、許可されて日本橋で営業が始まり、初めは「人車」とも呼ばれたが、後に人力車という呼名が定着した。当初は大八車(知ってますか? 人力で引っぱる二輪車のこと。リヤカーとは違います)式のものに四本柱を立て、周りに布を張る形態だった。後に、秋葉大助という人が改良を加え、木輪に鉄を張ったものからゴム輪に替えて乗り心地を良くし、外部を黒漆塗りにして絵を描いて高級感を出したのだそうである。

 中国や東南アジアにも「洋車」として多く輸出されたのだそうで、日本でも明治8(1875)年に11万4000台、明治29(1896)年には21万台を数えたほど大流行した。だが、明治も後期になって路面電車が発達するにしたがって次第に数が少なくなって、1900年以後は花柳界など特殊な世界以外では廃れていった。つまり、芸者がお仕事の行き帰りに乗るものになっていった訳だ。

 忘れてならないのは、人力車を引っぱる車夫は都市の「貧民」の代表的存在でもあったということ。要するに、失業した者が生活していくために仕方なしに就いた職業になっていったということだ。

 このごろ大学の学生サークルにも、この人力車を引くのが普通に見かけられるようになって、彼らは所属サークルを聞かれると誇らしげに「俥屋」ですと答えたりしているが、以上のような人力車の経緯を知っているものだから、なぜ彼らがよりによって「車夫」をやらなければならないのか、しばらく解せなかった。

 彼らの頭の中では人力車の車夫は、東京の個人営業の観光案内業に見えているのだろう。格好良い職業だと思っているのだろうか。

 時代も変われば変わるものである。こう言うのを今昔の感に堪えないというのか。

〈2011.08.20〉

 

 

第25回〈歩いて行ける距離〉

 江戸時代には電車やバスなどの公共交通機関はもちろんなかった。馬車はあったが、人ではなく荷物を運んだ。だから、人々はどこかへ行くとき歩くしかなかった。駕籠は幾種類もあったが、通常身分の高い者が利用するもので、町人が利用するのは火急の場合か、顔姿を隠してどこかに行くときに限られたようである。

 制作終了が告げられたテレビ時代劇『水戸黄門』で、黄門様が杖を手に、助さん格さんたちと街道を行くのはドラマならではの趣向で、現実にはありえない。が、黄門様は町人のようにひたすら歩くのである。あの番組の長寿の秘密の一端がこんなところにありそうである。

 それより、江戸の歩いて行ける距離のことだった。〈人骨〉の回に、小塚原の火葬場の臭気が、直線距離で2キロ余りにあった上野寛永寺に参詣していた将軍綱吉のもとに漂ってきたという話を紹介して、「この江戸の歩いて行ける距離感覚がまだ身につかない」と書いたことがあった。この感覚は、公共交通機関を利用している限り、いつまでも身につかない。江戸の人々と同じように歩いてみるしかないのである。

 で、試してみることにした。徒歩なら縦横だけではなく、斜めにも進めるというものである。寄り道したり、近道が見つかったりするかもしれない。

 上野山下で昼食を取ってから出発する。一応の目的地は浅草橋だ。

 昭和通りを横断して東上野に出る。東へ一本通りを入ると、コリアンタウン(通称キムチ横丁)になっている。道一本ずつさらに東へ寄りながら、南下して行く。御徒町駅前を通っている春日通りに出ると、向いにアーケードのある佐竹通り商店街が見える。ここを端から端まで歩くのは初めてだが、こんなに長い商店街だったのか。

 このアーケード街を抜けると清洲橋通りに合流する。この通りを少し南へ行くと、道路の向い側におかず横丁入口のアーチが見えてくる。もう鳥越に着いたことが分かる。

 おかず横丁はよくテレビ番組に登場するが、ここも端から端まで歩いたことはなかったので歩いてみることにする。両側に庶民的なお店が百軒近くあるのだが、あいにく今日は日曜日、開いている店がほとんどない。この横丁を通り抜けると鳥越神社に出るはずである。

 鳥越神社で一休みしよう。この近辺には古くて趣のある神社が幾つかある。ちょっと注意したいのは、この神社の辺りが周囲より少し高いことだ。実は江戸時代には丘のようになっていた。そこを切り崩して、その土で隅田川岸を埋め立てて、幕府の御蔵を幾つも建てていった。今、蔵前と呼ばれている地名の由来は分からなくなっているが、その御蔵の前から来ている。御蔵があったのは、現在の都下水道局、浅草税務署、蔵前警察署のある辺りになるか。

 蔵前を南北にのびる江戸通り。蔵前から駒形にかけては玩具問屋が立ち並んでいて、寄ってみるのも面白い。一番北の端にバンダイの本社がある、

 蔵前から浅草橋にかけては人形問屋や手芸用品の店が立ち並んでいる。手芸が趣味(仕事)の人々の人気スポットである。ここも楽しい。

 JR浅草橋駅に到着する。鳥越神社で長めに休憩したけれど、ここまで約1時間半である。思っていたよりずい分近いのだ。道を知っていたらもっと早く歩けることだろう。

 浅草橋駅の高架の下をくぐって少し行くと、すぐ神田川に出る。船宿が何軒もあって、何艘もの屋形船が係留されている。神田川はあと少しで隅田川へ合流するが、そこに橋がかかっていて「柳橋」という。高級料亭と芸者で知られた街である。もっとも今は寂れて見る影もなくなったが。

 今日はなにしろ暑いのだ。とっとと帰ることにしよう。

〈2011.08.16〉

 

 

第24回〈消えた町〉

 ときどき、ふっと浅草の周縁を歩きたくなることがある。

 もっとも、浅草へはときどき行っている。この6月にも田原町にある演劇集団円のステージに芝居を観に行ってきたし、5月には御徒町からある所を探して歩いているうちに、浅草通りに出てしまって、奥山に少し寄っただけで地下鉄に乗って帰ってきた。

 だが、ふっと歩きたくなるのは、もっと人に知られない、いや江戸時代にはうんと知られていた周縁である。

 神谷バー(台東区浅草1丁目1番地、電気ブランという酒で知られる)から出発して、北へ行く。花川戸と呼ばれる地区は靴のメーカーや問屋が軒を連ねていて有名だが、これは偶然そうなったのではなく、ちゃんと言われ(来歴)があるのだが、後で触れる。花川戸と言えば、歌舞伎脚本「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)、通称「助六」が知られているが、これにもずっと後で触れることになる(かな)。

 今戸に来て、待乳山聖天(まっちやましょうでん)を過ぎたところで、左へ曲がる。両側に桜の木が植えられた公園になっているが、ここはかつて山谷堀と呼ばれた運河で、隅田川とつながっていた。左側(南側)を走るのが日本堤通り(通称、土手通り)である。

 花見の候は美しい公園である。観光客にめったに出会わない、隠れた穴場である。だが、今日は花見に来たのではない。

 

 山谷堀に入ってすぐの上側(北側)に、江戸切絵図で見ると縦長に白抜きの町があって、中が空白になっている。文字が逆さになっているので読みにくいが「穢多村(えたむら)、俗ニ新町ト云フ(ぞくにしんちょうという)」と書きこまれている。彼らは長吏(ちょうり)と名乗ったが、非人層を支配した身分の人たちが、この寺々に囲まれた土地に集住していた。

 

 この町がかき消されたようになくなっている。現代の地図で見ると、ちょうど都立浅草高校がある辺りが、新町への入り口であった。今この辺を歩いても、昔を感じさせるものは何一つない、ふつうの町になっている。区の教育委員会が立てるおせっかいな説明板もない。完全に消えた町なのだ。

 平安時代後期から穢多または皮多(かわた)の蔑称で呼ばれた人々は、江戸時代に入ると長吏として、都市の重要な役割を担う人々として、体制に組みこまれた。身分名の「吏」が表すように下級の役人なのである。だから彼らは穢多と呼ばれることを極度に嫌がって、長吏と呼ばれることを望んだ。

 彼らの重要な役割は主として二つ、一つは死んだ牛馬の処理―皮を剥いで皮革になめし、さまざまな製品(太鼓の皮や雪駄)に加工すること、もう一つが重罪人の処刑の補助と死体の処理であった。小塚原刑場や小伝馬町の牢で処刑された者を埋葬していたのは彼らであった。

 彼らは元から浅草新町に居住していたのではなく、刑場の移転に伴って、日本橋から浅草鳥越へ、それから浅草新町に移り、明治に入ってしばらくはそこに生活していた。

 賤称廃止令(解放令)が突然公布されたのが明治4(1871)年で、彼らは新平民となり、形上は平民身分となって人々の中に紛れていったように見える。だが差別はなくならなかった。そのことについては別の回で述べることにしよう。

 新町には長吏職にある者が四百数十世帯集まって暮らしており、中には長吏と支配下の非人たちを管理する役所があった。長吏の頭は代々弾左衛門と名乗って13代続いた。その支配は関八州を越えて、伊豆、三島、白河にまで広がっていた。

 人が嫌がる仕事を押し付けられている分、特権も持っていた。照明に使う灯芯の専売、および雪駄の製造は一手に彼らだけのなし得る仕事で、その上現代で言う税金を免れていた。が、一方で江戸城(幕府)に対して数々の労役を担わせられていた。

 この稿、以後続きがときどき現れます。

〈2011.0808〉

 

 

第23回〈太宰治〉

 6月19日は「桜桃忌」、太宰治の命日だった。昭和23(1948)年6月、愛人山崎富栄(やまざき・とみえ)と体を紐で結び合って玉川上水に入水した遺体が発見された日で、奇しくも太宰の誕生日だった。

 高校3年の時、友人の紹介で太宰の小説と出会って虜になった。東京に出る機会ができたら、ぜひ行ってみたいと思った所が二つあった。一つは太宰が眠る三鷹の禅林寺で、もう一つが入水した三鷹の玉川上水だった。

 私の父は、私が東京の大学へ進むことを許してくれなかった。生活費がかかりすぎるというのがその理由だったが、後年になって、東京に出たら帰ってこなくなるだろう、手元に置いておきたかったのだと本音をもらした。まあ、結局その通りになったのだから、父の危惧は当たっていたわけだ。

 なるべく東京に近い県の大学に入った年、東京で浪人をしていた、太宰を私に紹介してくれた友人を頼って上京し、桜桃忌にその「行ってみたかった二つの場所」を訪ねた。そしてどちらにも失望することはなはだしかった。

 禅林寺の境内には、そこかしこに若者が来ていて、文庫本で太宰の作品を読みふけっているフリをしているのがわざとらしくて、嫌気がさした。花束に埋もれ、線香と煙草がけむる太宰の墓に詣でて、即座に寺を後にした。そして、井の頭公園近くの玉川上水へ向かった。再び呆れた。こんな小川のような、幅4~5メートル、深さ2メートルほどの、しかも底をちょろちょろ水が流れているだけのところで、人が自殺などできるものかと。

 友人がバイトから戻るのを待ち合わせて、吉祥寺駅前の飲み屋で酒をくみ交わし、太宰のことを色々と話した。そっちの方がはるかに楽しかった。

 その日を境に、私の太宰の作品に対する心構えが変化した。簡単に言うと、作品中の「私」と作家太宰治が限りなく離れて行った。

 ただし、玉川上水に感じた失望は私のまったくの勘違いであった。まさか上水がすでに地中の巨大な鉄管の中を流れるようになっていたとは、知らなかった。

 玉川上水はJR青梅線羽村駅の南にある多摩川取水堰(しゅすいぜき)から発しているのだが、ここを訪ねて行ったのはもう三十代の終わりごろ。幅10メートルほどの上水路を音立てて流れるものすごい水量を見て、これなら簡単に自殺できると変に納得した。

 若い時ってどうしようもないものだ。

 玉川上水は承応2(1653)年、玉川庄右衛門、清右衛門兄弟が幕府に命じられて六千両で開削を請け負い、翌年(!)四谷大木戸まで竣工したもので、江戸城西部の町々と江戸城への飲料水を供給し、併せて防火用水の役割をも持っていた。幕府から給付された費用は高井戸まで掘った時点で使い切り、以後は兄弟の持ち金二千両と家屋敷を売り払った千両で、延々43キロの工事を進めたのだった。兄弟は上水完成の功により、玉川の姓を名乗り、帯刀することが許され、玉川上水永代水役を命じられた。

 玉川上水の水は江戸の武家方、町方だけでなく、途中の村々にも農業用水として利用され、利用する村々は毎年玉川家に水料米を支払ったのだそうである。

 羽村の取水堰を上ったところに「水神社」があって、祀られているのは玉川兄弟ではなくて、水が神格化されて祀られている。この辺り一帯は旧家が多くて、今でも江戸時代の名残が感じられてよい。一度ピクニックがてら出かけてみませんか?

 今回は太宰治から玉川上水の源まで話が飛んだけれど、誤解してほしくないのは、私が太宰治その人と作品に失望したのではなかったこと。彼の小説は今でも好きで、特に『津軽』が大好きだ。その冒頭一行目から読者を作品世界に引きずりこむ、彼のあの文体がたまらなく好きである。

〈2011.0709〉

 

 

第22回〈白酒〉

 都会の中にも江戸は思わぬところにひっそりと残っている。気をつけないと見えているのに気づかない。

 職場にある私の部屋は建物の九階にあって、窓から見下ろすと錦華公園という小公園が見える。隣に御茶ノ水小学校が建っているが、以前は錦華小学校といって、漱石夏目金之助が一年ほど学んだことで知られる。敷地の角にそのことを刻んだ碑が建てられている。 

 錦華公園の猿楽町通りをはさんだ向いに、豊島屋本店という小さな酒屋がある。店じまいして下ろしたシャッターに「金婚正宗 豊島屋本店」とあって、これを見て初めてこの大きなビル全体が本店であることに気がつく。店開きしている小さな売店だけの小さな酒屋だと思ってしまうのは勘違いなのである。地元に昔からある酒屋の一つだろうと思っていたが、とんでもない、江戸以来の有名な店だったのである。

こんなに近くにある酒屋の来歴を知ったのは、前に一度紹介した荒井修の「江戸東京下町の歳時記」の中でのこと。春の桃の節句にまつわる行事に触れたところに出てくる。

 「この日にいちばん繁盛するのは、人形屋に貝屋に、蕎麦屋と酒屋。今でも神田猿楽町に、豊島屋っていう酒屋がありますよ。江戸時代にそこの白酒がいちばんうまいっていわれて、たいへん人気があったんだ。太田蜀山人の『千とせの門』によれば、二月の十八から十九日の朝までに、千四百樽売ったっていうんだね。千四百樽ということは、一升瓶で五万六千本だよ。」

 そうして当時の江戸名所図絵に載った、この日の賑わいの有様を描いた木版画が見開きでついている。しばし目を閉じて、眼前の小公園のところに江戸の人々が蝟集して白酒を飲んでいる様子を想像してみる。

  この豊島屋本店の売店も、コンビニで酒類を販売できるようになってからは商売が上がったりらしく、店を閉めている日が多くなっている。江戸時代、江戸の人々が消費する酒の量の多さを現代の比ではなかったらしく、酒屋がどんなに繁盛したかはもう想像することもできないぐらいだった。

 三月三日の桃の節句といえば、女の子の祝いで、この日に食されるお菓子に菱餅がある。桃色(ピンク)が入るようになったのは近代に入ってからで、江戸時代には緑・白・緑の三段重ねだったそうだ。荒井修は「菱っていうのは子孫繁栄の意味がある。それから菱餅はかたいでしょう。女性のお祭りですから、このかたさが〈身持ちがかたい〉にかかってるんですね」と意味深かつ曖昧な言い方をしているが、何のことやら分からない。

 実は、菱餅の「菱形」は女性性器を象徴したもので、これを女性のお祭りに供えることが子孫繁栄を祈ることにつながっているのであって、菱餅がふつうの餅より固いのが身持ちの固さにかかっているというのは地口の類(もち・と・みもち)にすぎないのである。

 桃の節句は正式には上巳(じょうし)と言って、五節句、一月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽)、の一つ。この日には神祭りを行い、供物を供え、人と神とがともに飲食を行う大事な日だった。節句はまた農事の生産暦とも深いかかわりのある儀礼の行われる日だったが、生活の変化に従って、災厄を払う呪術的なものに関心が寄せられるようになって、親が子供の成長を祝うための日として、人生儀礼の性格をより強調するように変わっていった。

 桃の節句がすぎたら即座に雛人形(お雛さま)をしまわなくてはならないとされるのは、元々人形(ひとがた)に罪と穢れとを託して水に流す祓いの思想(流し雛)と結びついているからで、節句の祝いが呪術であったことがこんなところに残っているのが面白い。

〈2011.6.29〉

第21回〈毒婦/悪女〉

 毒婦はもう死語なのだろうか? かといって毒婦は悪女と同じではないらしい。

 大辞泉で引いてみると、毒婦→人をだましたり、おとしいれたりする無慈悲で性根の悪い女、と懇切な説明がなされているが、悪女→性質、気立てのよくない女、器量の悪い女、醜い女、とあって人をだましたり、おとしいれたりするというニュアンスはなく、明らかに両者は違う。

 だが、日本国語大辞典で引くとこんなふうになる。毒婦→悪知恵にたけた女、腹黒く人に害を与える女。悪女→1.容貌の醜い女、2.心の悪い女、性質のよくない女、毒婦、3.男を魅了し、堕落させるような小悪魔的な女、男を手玉に取る女。とまあ、結局違いはよく分からない。

 〈稀代の毒婦〉と書いてしまった高橋お伝について手取り早く知るには、綿谷雪(わたたに・きよし)の「近世悪女奇聞」(中公文庫)が好適だ。お伝の罪状は色仕かけで金を奪い取ろうとした計画的殺人で、特別に驚くほどのものでも、猟奇的なものでもない。結局、男が用心深くて、金ははした金しか奪えなかった。ただ、裁判の過程でしぶとく嘘を重ねて、言い逃れに終始し、かつ演技の限りを尽くして法廷を手こずらせた。それが、格好の新聞ネタになって、実質をはるかに超えた大悪女に仕立てられてしまったのである。

 斬罪(首切り)に処せられたのは明治12(1879)年2月、その年の6月にはもう河竹黙阿弥(当時は新七)の筆で「綴合於伝仮名書」(とじあわせおでんのかなぶみ)の外題で、新富座で上演されて話題を呼んだ。お伝を演じたのが、新しもの好きで知られた五代目尾上菊五郎で、わざわざ裁判所を参観して写実味を出そうとしたというから、法廷の場が一つの見せ場だったのだろう。脚本を読んだことはないのだが、明治初期の時代背景や当時の庶民風俗が実にうまく描かれているそうである。

 お伝の首の無い死体は、司法解剖を受けてから、いったん小塚原回向院に埋められた。2年後、彼女の情夫であった小川市太郎がお伝の養父高橋九右衛門の依頼を受け、小塚原から谷中墓地への改葬の儀をその筋に出願して許され、市太郎となぜか落語家の柳亭燕枝が催主に、仮名垣魯文が補助を勤めて建碑、法要が営まれた。

 予想したのとは大分違っていたけれど、小塚原回向院に墓を立てたのはどうやら歌舞伎関係者らしく、谷中墓地へ改葬したのは元情夫であったにしても、今も碑が残っている訳が分かってよかった。仮名垣魯文は草双紙にお伝のことを書いてかなり儲けたのである。現在谷中霊園にある碑は歌舞伎関係者が再建したものだった。

 先に紹介した文庫に解説を書いている山本博文によると、男が女を殺すのはそれほど珍しいことではなかったが(!)、女が男を殺すと特別なニュースになった。そのキーワードが「毒婦」だったという。「毒婦という存在はなぜか男心をそそり、詳しく知りたいと思うようである」と述べている。

 高橋お伝(1847-1879)は上野国(現在の群馬県)の百姓の娘で、高橋波之助と結婚して幸福に暮していたが、波之助に癩(ハンセン)病の症状が出て、地元にいられなくなったようだ。夫婦は良医を求めて東京に出るが、横浜に外国人の名医がいるからと聞いてそこに移った。お伝は献身的に夫に尽くしたことが分かっている。だが、癩病に効くといわれてもらった薬を飲んだ波之助は苦痛の果てに死んでしまう。

 夫と死別した美人の妻がどうやって一人で生きていけるだろう。現代と違うのだ。裕福な男の妾になるより生きて行く手立てはない。ただ、お伝は美人であることを武器にして、男を手玉に取ってのし上がって行こうとする強さを持っていた。これが「毒婦」と呼ばれる条件なのであるが、それも情夫で仕事がことごとくうまく行かない小川市太郎と二人で暮らして行くためだった。

 処刑される時、半狂乱になって叫んだのが情夫市太郎の名前だったという。哀れではないか。

〈2011.06.17〉

 

 

第20回〈大相撲改革案〉

「なかった昔にはもどれない」というのはエッセイスト故山本夏彦の十八番(おはこ)の一つ。前に「何々が」と付けると、どんな場合にも使える便利な言い回しだ。たとえば、「携帯電話がなかった昔にはもどれない」のように。

 だが、大相撲について私はあえて「江戸の昔にもどるべし」と呟いてみる。それしかあるまい。

 技能審査場所という変な名称の興行は、無料の入場券にダフ屋が出現して花を添えてくれて、終わった。変だなと思うのは、これまでの本場所がまるで技能の審査を行っていなかったと白状しているように聞こえるからだ。技能の審査とは、勝敗の差で来場所の番付が決まること以外にないではないか。それとも、八百長相撲がないかどうか監視したという意味なのか。

 親方と力士あわせて25名を引退に追いこみ、ある者は解雇して、大相撲改革は「八百長問題」にケリをつけて、問題解決、幕引きということになるのだろうか。ちょっと待ってほしい。大元の問題、八百長相撲でも故意の無気力相撲でもどちらでもいいが、それを生みだす源になった問題には手がつけられていないままである。一大相撲ファンとしては一言だけ言いたい。

 それは本場所(技能審査場所)数の削減である。年六回、二カ月に一回ではいかにも多すぎる。個人競技で優勝者(チャンピオン)が決まる大会が年六回も開催されて、90日間出場するスポーツ種目があるだろうか。一度怪我をしたらおしまいだ。治している暇がない。いかなスポーツでも怪我したら、治るまで出場しない、させないのが当たり前である。プロ野球なら登録抹消になる。サッカーなら故障で出場停止は当たり前すぎる措置である。ドイツ・ブンデスリーガの香川選手をごらんなさい。

 なぜ大相撲だけ、休場すると番付が下がるのか。本場所の取組で負傷して休場しても、番付が下がらない公傷制度は廃止されたままだ。それなのに、なぜ年六回の本場所興行にそれだけこだわるのだろうか、日本相撲協会は?

 NHKのテレビ中継が入るからである。莫大(かどうか知らないが)な放送権料、つまり金が入ってくるからである。「テレビ中継がなかった昔にはもどれない」という訳だ。

 大相撲の興行はもと勧進相撲として、深川の富岡八幡宮の境内で行われていた。勧進とはチャリティのことで、寺社の改修の資金などを調達するために行われた「芸能」のことで、それがために相撲が神事であるかのように誤解されるようになったが、力士が毎取組で行う所作は神事ではなく、相撲に付随する芸能の所作なのである。

 江戸の人々はこの年二回の勧進相撲の興行を一体どんな思いで楽しみにしていたのだろう。大会ではなく「興行」だというところに、相撲が伝統芸能であり、見世物の一種だったという特徴が良く出ている。しかも、興行場所が両国へ移されたのは、そこが浅草と並ぶ江戸の二大遊興地であったからで、人々が集まりやすい土地だったからだけでなく、他にも色々と楽しい施設が周囲にいっぱいあったからである。相撲を観に行くというだけで浮き浮きした気分になるのは、今とほとんど変わりがなかったろう。

 現在でも、本場所以外に大相撲トーナメントやチャリティ大相撲が行われていて、それぞれ優勝者が決まって賞金が出るが、番付の上がり下がりには一切関係がない。つまり、地位や給与には影響しないのである。

 十両以上の力士を関取と言って、幕下以下とは待遇がまるで異なってしまうので、その地位を守ることが関取にとっては大問題になる。そこが大相撲問題の大元なのである。確かにプロ野球にも一軍と二軍があり、JリーグにもJ1とJ2とそれから下に色々とある。

 大相撲が問題を抱えているのは、所属チーム(部屋)を移籍する自由も慣習もないまま、幕下以下の力士はプロではないことになるということだろう。力士は所属部屋と契約して土俵に上がるプロ選手(芸能者)であるべきで、もちろんそうしたら、戦力外通告や契約更改交渉が生じてくるだろう。それでいいのではないかと思う。公傷制度を復活させて、三段目以下はすべて育成力士にする。

 残る問題は、沢山いる幕下力士とその地位をどうするかだが、これについては芸能である以上名案はない。地位が低くても芸が達者で欠かせない役者というものがいるからである。

〈2011.06.02〉

 

 

第19回〈相撲〉

 日本相撲協会が大揺れのまま技能審査場所が始まった。協会は揺れてもかまわない。揺れたおかげで今まで知らなかった色々なことが分かってきたから。例えば、協会は文部科学省所管の公益法人であったこと、つまり相撲はスポーツだと見なされていたわけだ。

 相撲がスポーツだと思っていなかったのか、ですって? そう、思っていなかった。複合的要素から成り立った、それこそ「相撲は相撲です」としか言いようがないものだと思っていた。スポーツ的、見世物的、格闘技的、神事芸能的、その他色々の要素が融合した日本的な文化の一つだと思っていた。伝統芸能的文化と言ってもよい。

 内田樹は「武道的思考」(筑摩書房)の中で次のように問いかけて自ら答えている。「相撲は神事なのか? 武道なのか? 格闘技なのか? スポーツなのか? スペクタクルなのか? 伝統芸能なのか?」そして、それらが渾然一体となった「なんだかよくわからないものという特殊な様態のうちにあるような気がする」と答えている。

 私も賛成である。相撲を訳の分かるものにしてしまったら相撲でなくなる。格闘技スポーツにして、15日間ガチンコ勝負を続けたら、無事で済む力士は一人もいなくなるだろう。負けたら退場してしまうトーナメントならファンはどうやって応援していいか途方に暮れるだろう。花相撲や初切(しょっきり)や相撲甚句という見世物的芸能的サービスがあって毎年広く各地を巡業するというのは、もう文化そのものなのである。

 国技という呼称だって、国がそう名乗ることをいつ認めたのか確たる証拠はないのだし、力士たちが自分たちのやっているのは国技ですと名乗った訳でもないのである。分かっているのは、天保4(1833)年から両国回向院境内で、掛け小屋(仮設)で定場所として年2回の興行を行うようになったこと。年2回の本場所というのは双葉山が活躍していた頃までそうだったということだ。

 明治17(1884)年に明治天皇の行幸を得て、ようやく人気が復活するが、それ以後も何だかよく分からないもののままだった。明治42(1909)年に仮設から脱して国技館が建設されたということになっているが、当初は「両国元町常設館」という名であって、翌年から「国技館」という呼び名が定着し始めたと言われるが、相撲関係者が自ら「国技」だと名乗ったかどうか、しつこいようだが、確かではないのである。

 野球賭博で解雇された元大関琴光喜は、結局不起訴処分になった。賭博罪は、賭博を開いた者も加わった者も現行犯逮捕されることが立件の原則だから、罪に問われなかったということになる。協会はどうする気だろう。

 八百長相撲だって、言葉の使い方が間違っている。そもそもは囲碁の勝負で相手の機嫌を取って喜ばせるためにわざと負けてやって勝敗を五分五分にしてやることが八百長さんの作戦だった。七勝七敗で千秋楽を迎えた対戦相手に、すでに勝ち越している力士が人情で負けてやることがどうして八百長だろう。星一つ何万円で金に換算したから、訳が分からなくなって、いや分かるようになってしまったのである。

 相撲部屋を廃止したら、どうやって次世代の力士をスカウトし、養成するのか。行司は審判だから部屋から離れて独立機関にして? そうしたら年寄(親方)たちの審判部は不要になるのか? 往年の人気力士の現在の姿を見るのも楽しみの一つだったのに。スポーツだったら力士たちの土俵入りは不要だから廃止するのか? ちょんまげを結っている意味はなくなるから、やめるのか? 見ただけで相撲の力士だと分かるから伝統文化なのに。

仕切りの所作は単なる儀式だから止めていいのか? 立ち会いは行司の掛け声で両者一斉に立たなければならないことにするのか? 両者の呼吸で始まるスポーツなど他にあっただろうか。

 日本相撲協会に改革が必要なことは分かっているが、改革して必ずしも良くなるという保証はどこにもないのである。改革で相撲自体が萎縮してしまわないことを、一相撲ファンは祈っている。

〈2011.05.17〉

 

 

第18回〈鎮魂〉

 興安寺を探す前に二カ所寄り道しよう。

 一つは再び三度両国回向院だ。海難殉死者の慰霊碑があって、そこに大黒屋光太夫他の名も刻まれているのはおかしい、彼は帰還できたのだからと書いたが、どうやら私の早合点だったらしい。

 吉村昭の小説中にこんな一節がある。光太夫たちの乗った神昌丸が消息不明になって二年後、もう生存の見込みは全くないと判断されて、木綿問屋の有志によって江戸の回向院に光太夫以下全員の名を刻んで追善碑も建立されていた、と。

 だが、待てよ、消息不明になって二年後と言えば、天明4(1784)年のことになる。ところが、現在回向院にある碑は、正確には「海上溺死群生追福之塔」といい、文政10(1827)年創建、安政3(1856)年再建と刻んである。光太夫が死去したのが文政11(1828)年だから、死の前年に建立されたことになって、話のつじつまが合わない。まあいいだろう、このお寺は色々分からないことだらけなのだ。なぜか、浄瑠璃の義太夫節を創始した竹本義太夫の墓があったりするのだ。

 もう一カ所は本である。大黒屋光太夫(と磯吉)について書かれた小説、研究書、資料集は数多いが、私が最初に読んで彼に関心を抱いたのは、山下恒夫の「大黒屋光太夫―帝政ロシア漂流の物語―」(岩波新書)である。様々な図版や地図や絵が(光太夫の肖像画まで)収められて、小説を読むより面白い研究書だった。海洋だけでなく帝政ロシアの地をも漂流して、日本に奇跡的に帰還できた彼の人生を余すところなく、と言いたいが本にはそれぞれ好いところがあって、二つの小説もまたいいし、「北槎聞略」を脇に置いて本書を読まれることをお勧めする。

 それより興安寺のことである。本郷の、とあったから、東大のある本郷三丁目近辺を地図上に探したが見つからず、地名は本郷でも水道橋の近くにあった。都立工芸高校の裏を、宝生能楽堂のある坂を上りきって、中学受験女子御三家の筆頭桜蔭学園をぐるっと左に回ったところにあった。予想していたのと違って、近代的な建物、全くお寺には見えない立派なビルになっていた。宗旨は確か浄土真宗だったような、違っていたらごめんなさい。

 中に入って驚いた。墓地などあるものではない。ハイテク寺になっていた。両側にずらりと並んだ位牌堂の前にテンキーが設置してあり、墓参する人が暗証番号を打ちこんで確認キーを押すと、その家の位牌が出てくる仕組みになっている。合理的と言えば、余りに合理的な寺である。

 事務所に寄って係の人に尋ねると、「光太夫さんがこのお寺に葬られたという記録は残っているんですが、お墓はないんです。よく訪ねて見えるかたがいらっしゃるんですけれど」とのお答だった。光太夫の墓に詣でて合掌し、その霊を弔うつもりでいたのに、そのまますごすご退散するしかなかった。これだから、東京の寺は油断がならない。鎮魂なんて、気取ってみるんじゃなかった。

 せっかく探し訪ねて来たのにこのまま帰るのもしゃくだからと、本郷界隈を少し散歩することにした。だが、地図は持ってこなかったし、目的はもう消滅している。当てもなくお茶の水方面へ出ようと歩いていると、見えてきたのが何やら屋上庭園のようなもの。上がってみると、東京都水道資料館であった。

 そうだ、水道だ、江戸を語るのに実は欠かせないもの。家康が入府して以来、拡大し続けた江戸の町とその住民にとって、死活問題だったのが水道だった。興安寺にはがっかりさせられたが、ついでの散歩で絶好のテーマが見つかった。

 早速入ってみることにしよう。

<2011.05.11>

 

 

第17回〈傷寒〉

 大黒屋光太夫は、ロシアの極東・シベリアで彼らが何年も味わわねばならなかった寒さ、特に日本人の体が寒さにやられることを「傷寒」と表現した。「しょうかん」と読むのだろうが、私は経験しているだけに「さむさにいたむ」と読んでしまう。光太夫に対する関心の核にあるのは、私の場合どうやらこの「寒さ」であったようだ。

 ロシア語で零下20度を下回る寒さのことを「マロース」と言う。日本語に訳しようがないので「極寒」と訳しているが、実感としては「傷寒」がぴったりだ。零下20度を大きく下回ると、日本人の体には空気が凶器じみたものに感じられてくる。呼吸して鼻に吸いこんだ寒気が強烈に「痛い」のである。光太夫たちも、傷寒にやられて何人の乗組員が命を落とし、片脚を失くしたりしたか。厳しい風土に対する耐性が日本人の場合はきわめて低いのだ。

 大黒屋光太夫に対する関心の核に「漂流」そのものがあって小説にしたのが、吉村昭の「大黒屋光太夫」(新潮文庫)である。井上靖と違って、彼は徹底的に史料を集めて読みこみ、帰国後の人生までを考証的に描いた。ただし、読物としての面白さは、この場合無関係ではあるのだが。

 江戸へ送られた光太夫と磯吉の二人は、神田雉子橋の厩舎明屋敷に入れられて吟味を受けていたが、将軍家斉が二人を引見することになった。最初、桂川甫周が、ついで高井清寅が質問に当たった。キリシタン禁制下の日本へ、二人がキリスト教に帰依して戻ってきたかどうかを彼らは最も恐れた。疑いは晴れた。

 高井の、「赤人の国(ロシア)で何か恐ろしい目にあったか」との問いに、光太夫はこう答えた。

 「ただ恐ろしいのは、なんと申しましてもオロシアの寒気でした。わが国の寒さとは全く異なった錐を刺しこまれるような、鋭い刃物で切り裂かれるような激しいものでした。すでに申し上げましたように、耳、鼻が腐って落ち、手足もおかされて切断せざるを得ない状態となり、これほど恐ろしいものはございませんでした。」

 やがて、南町奉行所より沙汰が下りた。光太夫へは金30枚、磯吉には金20枚が下賜され、江戸に留まることを命じられて以下の三条件が付加された。(小石川療養所と書いたのは誤りでした。)

一、 番町の薬園内にある住居に暮らすこと。月に金3両を光太夫へ、金2両を磯吉へ支給する。

一、 妻帯し、安楽に暮してよい。

一、 ロシアの様子をみだりに人に話してはならぬ。

 彼らは、行動に全く拘束を受けず、自由に市中を歩き、人に依頼されて集まりに招かれ、ロシアでの見聞を話すことも間々あった。桂川甫周は大槻玄沢らと芝蘭堂新元会(蘭医の勉強会)という集まりを開いており、ロシアの医学の知識を得ようと度々光太夫を招いて話を聞いた。

 光太夫は寛政7(1795)年、45歳の時、18歳の商人の娘まきをめとって、一男二女にめぐまれた。また、享和2(1802)年には願い出て帰郷を許され、20年ぶりに伊勢国若松村(現・亀山市)に帰り、唯一の親族であった姉と再会を果たしている。

 それからさらに彼は20年を生きた。その間にはロシアと日本の外交に大きな問題が次々と持ち上がった。その都度、彼は意見を求められている。

光太夫は、文政11(1828)年4月に、老衰のために死去した。行年78、十分に長生きしたと言ってよい。吉村昭は晩年の光太夫の姿をこんなふうに描いている。

 「彼の身に老いがしのび寄り、ロシアで激しい寒気にさらされたためか、足がしびれるようになり、外に出歩くこともできず、座敷に坐ってうつろな眼を空にむけたりしていた。」

 遺体は本郷の興安寺に葬られた、と書いてある。磯吉はそれから10年間を生き、天保9(1838)年11月に73歳で没している。彼も光太夫と同じ興安寺に葬られた。

 興安寺を探してみなければ。

〈2011.05.09〉

 

 

第16回〈おろしや国〉

 ロシア語でロシアのことを「ろしあ」とは発音しない。「らっしーや」と発音する。ロシア語のエルの音(英語のアールの音)は舌をルルルと震わせる、いわゆる巻き舌で発音するが、この音は口を閉じたままでは発音できない。直前に口を開けねばならず、開けた時少し息がもれる。注意して確かめると、その音は「あ」または「お」に聞こえる。つまり、「ぁらっしーや」と発音されていることになる。

 江戸時代、船が難破し、漂流してロシアの領土に漂着した日本人がロシア人と出会い、ここは「らっしーや」だと言われた彼らの耳に「おろしや」と聞こえたとしても不思議ではない。「ろしあ」とは絶対に聞こえたはずがないのである。

 ロシアの歴史や文化に興味を抱いた日本人の多くが関心を向ける日本人に、伊勢の国(三重県)の船頭、大黒屋光太夫(1751―1828)がいる。その関心の核にあるのは文化交流であったり、漂流であったり、言語学であったり、ロシアの外交政策であったり、彼らが味わわねばならなかった極寒であったりとさまざまだが、私の場合は何だろう。考えてみたが答えが出ない。

 両国回向院の境内を紹介した時、ここには海難犠牲者を慰霊する碑もあって、大黒屋光太夫の名も刻まれていると書いたが、実は彼は海難の犠牲者ではない。17名の乗組員中、彼と水夫の磯吉の2名だけが10年後日本へ帰国できた。もう一人は蝦夷地を目前にして死亡した。

 彼らは鎖国していた日本から余儀ない事情で離れ、ロシアへ漂着してそこで暮らし、ようやく帰国を許されて蝦夷地にたどり着いたのだが、江戸に護送されてしばらくは軟禁状態に置かれて様々な取調べを受けた。取調べに当たったのが桂川甫周(1751―1809)という蘭学者で、奇しくも光太夫と同い年、その調書(というより人類学的記録)は「北槎聞略」(ほくさぶんりゃく)という題名で、今は岩波文庫で読める。

 光太夫の波瀾万丈の生涯は何人かの小説家の関心を引き、その一人井上靖の筆で「おろしや国酔夢譚」(文春文庫)という作品になった。光太夫の耳には「おろしや」と聞こえたのか、それとも江戸時代にはそう呼ばれていたのか。

 これを原作にして、1992年佐藤純彌監督によって日ソ合作で映画化(角川映画)された。製作している間にソ連が崩壊してロシアに戻ってしまっていた。ずいぶん豪華な日露のキャストだが、受ける感銘は原作小説の方が上なのは悲しい。光太夫には緒方拳、女帝エカテリーナ2世に扮したのは、モスクワ・タガンカ劇場の主役俳優ウラジーミル・ヴィソツキーの妻でフランス人女優マリーナ・ブラディ、ペテルブルグの宮廷人の一人に扮したのが、現モスクワ・マールィ劇場の芸術監督ユーリー・ソローミン、イルクーツクで親切に光太夫を世話し、首都まで連れて行ってくれた博物学者キリール・ラックスマンにオレーク・ヤンコフスキーと重厚な布陣である。

 そんなことより大黒屋光太夫のことである。帰国を度々願い出てもなかなか許可されなかったので、冬、遠路はるばるペテルブルグまで赴いて、女帝に直訴に及んで、ようやく許可が下りたのだが、なかなか許可してくれなかったのは何故だったのか。

 18世紀の半ばにはすでにロシアは、太平洋側を航行する船舶の食料と水の補給地として日本に目を付け、ゆくゆくは国交を樹立しようと思い、その時の通訳の養成のために日本語学校を設立していた。ロシアに漂着した日本人は手厚く保護され、文官(今でいう文科省の役人)に高給で取り立てられて日本語教育に当たらせられた。そのため帰国を願い出ても許されず、反対にロシア正教に改宗してロシア人になることを勧められていたのである。だから、光太夫たちが帰国を許されたのは異例中の異例だったわけである。

 井上靖の小説では、望郷十年、ようやく願いが叶って帰国を許されて日本に生還したにもかかわらず、鎖国中外国へ渡ったとのことで罪人扱いされ、江戸に護送されて小石川療養所に軟禁状態で取調べを受けつつ、余生を暮らした、で終わっているがそれでいいのか。1792年に帰国して、1828年に亡くなるまでの25年余をどのように生きたのか。そして、死後はどこに葬られたのか。

 出かけてみるしかあるまいね。

〈2011.05.02〉

第15回〈町人〉

 司馬遼太郎の『街道をゆく36・本所深川散歩神田界隈』を読んでいた時のこと。彼がしばしば「町人階級」と書いて、その都度「ブルジョワジー」とルビをふるので、おかしいなあ、何で町人がブルジョワなのだろうと訝しく思った。町人と言えば江戸の庶民のこと、武士でも農民でもなく、士農工商の工商にあたる様々な商売や職人仕事に携わる人たちのことだろうと思っていたからだ。落語に登場する熊さんや八つぁんみたいな人たちのことだろうと。

 こんな時、電子辞書があって良かったとつくづく思う。四十の声を聞くと同時に老眼が始まって、辞書特に広辞苑を引くのが嫌になっていたので、発売された時はずいぶん高価だったにもかかわらず飛びついた。VHSビデオテープよりまだ大きかったが、液晶が高価だったので表示窓は情けないくらい小さくて、それでもこんなに小さい箱の中にどうして広辞苑と研究社の英和と和英中辞典その他が入るのかと、不思議でならなかった。

 二度ほど買い換えて、今は英語に特化したのとロシア語が引けるのと2台手元に置いて重宝していた。事が起こったのは今年のこと。大学院の授業時に、登場するイギリス歴代の俳優たちの情報を次々に引きだす学生が出現して、何を使って引いているのかと尋ねたところ、何とブリタニカ百科事典ですと答えたので、慌てた。とんでもないことになっているのだった。

 その日の夕方、帰りがてら三省堂本店のカシオショップに寄って、そのソフトを買おうと思ったら、店の人が言うには「現在、ブリタニカ百科事典は標準装備です」と。う~む、3台目を購入するのか、無駄というものではないか。そこで、何かもっと変わった(面白い)のはないのかと尋ねたところ、店の人が持ってきたのは国語と英語の辞書は当然のこと、そのうえにブリタニカ百科事典と日本国語大辞典と近代文学事典と、それから日本歴史大事典とが収められたものだった。言葉を失った。すごいことになっているのだった。

 アウトレット品なのでずいぶん安かったのに、一晩考えて翌日買いに行った。面白くて面白くて、日本歴史大事典で思いつくまま次々とテーマを引いていって、ある日重大な発見、自分が無知だったことを発見したのである。それは「町人」と引いてみた時のこと。

 町人とは、とある。前近代社会において都市に居住し、主に商工業によって生計を立てた者。狭義には屋敷を敷地とともに所持する家持(いえもち)のみをさす。町人を広義にとらえ都市に居住する者としたとき、家持以外に、家持の代理人たる家守(やもり)、土地は地主から借用して家屋敷は自費で建てる地借(じがり)、土地・家屋とも借用する店借(たながり)の各階層がいる。

 知らなかった。落語に出てくる熊さんや八つぁんは正確には町人ではなかったのだ。ただの店借、借家人だった。なぜなら、町人には本来「町」を形成した時から各種の義務や責任がつきまとったからだと。

 武家領主に対して町人が負担する役には、職種に応じた労役、製品の提供、町人足役としての普請や掃除などがあり、また町の運営主体となった町人たちは、道路や橋の修復や消防、塵芥処理などの都市の公共的機能を担わせられた。領主側は一切これらに関与しなかった。

 要するに町人階級はブルジョワジー、マルクス的に言えば生産手段を所有している階層の人々だった訳である。家屋敷は町人の最も重要な身分的資本であり、その所有に基づいて、互いに財産や営業が保証されもした、とも書いてある。

 長屋の大家さんはただの家守であって、義務のない店子(たなこ)たちは気楽だったはずである。むむ、江戸の社会も奥が深いぞ。

〈2011.04.19〉

第14回〈鼠小僧の墓〉

 翌週、私はその女子学生に回向院へ行ってみたかと尋ねた。すると彼女は行ってきましたと答えて、「鼠小僧次郎吉ってホントにいたんですね」とにっこり笑ってうれしそうに言った。う~ん、ちょっと焦点がずれてるなあ。本当は、次郎吉には太郎吉という、盗みなどできそうにない善良な兄がいたというところ(冗談)で笑うというのが、授業の肝だったのだ。次郎吉など本当はどうでもいいのである。

 それにしても、なぜ鼠小僧次郎吉の墓があって、しかも「中村治良吉」と彫られているのか不思議である。盗賊で、捕らえられて獄門(三日間のさらし首)に処せられた人間の墓を建てることは禁止されていたはずだから。さらに、一介の町人に「中村」という姓があったはずがない。墨田区の観光ガイドは、父親が中村座の下足番だったから「中村」を姓にちょうだいしたのだろうと言っていたが、それは都合のよすぎる解釈である。しかも生まれた年まで分かっている。これは捕らえられて取り調べ(吟味)を受けた際に、本人が寛政7年に生まれたと答えていれば、記録に残るから分かるだろうが。一番分からないのは、なぜ鼠小僧の墓が両国の回向院にあるのかということだ。

 ひょっとすると謎を解く鍵は、現在この墓が受験生の合格祈願のメッカの一つになっているという事実にあるのかもしれない。写真を撮った日も、多くの女子高生でずいぶん賑わっていた。鼠小僧の墓石を削って、その破片を袋に入れてお守りにし、身につけておくと「すべらない」のだそうである。

 この俗信は本来、墓石を欠き、破片を財布や袂に入れておくと金回りが良くなる、あるいは持病が治ると信じられたのが始まりのようだ。それで願いが成就した人々が新たな墓石を奉納したのだそうで、今は墓の前に大きな石が置かれ、それが削りに削られ、数年おきに建て替えられているのだとか。

 墓の前に立てられている墨田区教育委員会の説明板には、河竹黙阿弥が明治18(1885)年に書いた歌舞伎脚本「四千両小判梅葉」(しせんりょうこばんのうめのは)の中の台詞に、この信仰のことが触れられているとあるが、始まったのはそんな後年のことではあるまい。何もかも分からないことだらけである。

 分からないと言えば、実は鼠小僧の墓は小塚原回向院にもあるのであって、多分こちらが先に建てられたのではないかと思う。ただし、こちらの墓石は全く削られていない。稀代の毒婦と言われた高橋お伝の墓と並んで建っている。おそらく、これが鍵だろう。歌舞伎脚本の題材に採り上げられて評判になり、役者と興行師が霊を弔うため(と当たり狂言の御礼)に墓を建てたのであるまいか。歌舞伎狂言が当たって、それ以後、墓石を欠いて身につけていると御利益があるという俗信が生まれたのだろう。刑死者を弔うのも回向院の役割の一つだったから、後になって墓を建てることが許されたと考えてもおかしくはないのである。歌舞伎の関係者が二つの回向院に立て続けに建てたのか。

 それにしても、金回りが良くなるとか持病が治るという俗信は地蔵信仰につきものだから、鼠小僧が地蔵扱いされたのだと考えればいいとしても、そこに受験の合格祈願がつけ加わったのはなぜなのか、いつごろからなのか。不思議と言えば不思議である。鼠小僧に願かけに来るひまがあったら、寸暇を惜しんで勉強した方がいいだろうと、私は思うのだが。

 ここまで想像をたくましくしたのは、頭にある記憶が浮かんできたからだ。高橋お伝が鍵だろうと書いたのは、この女性もさんざん歌舞伎脚本の主人公に採り上げられたからで、役者や興行師が多数連名で、大きくて立派な碑を谷中霊園の入り口を入ってすぐ右側、焼失した五重塔の前方に建てているからである。この女性の墓を削ってお守りにしても何の御利益もないだろうし、もしあったら大変だ。

 そのうち、毒婦(悪女)について書くのも一興かも。

〈2011.04.08〉

 

 

第13回〈鼠小僧〉

 勤務先の大学で2年生を相手に「笑いとおかしみの研究」というゼミをやっていたことがある。織田正吉の『笑いとユーモア』(ちくま文庫)という絶好の教科書があって、私も学生もともに笑いの本質とメカニズムを調べては、楽しめた。笑いの連続に終始するゼミ授業なんて、めったにあるものではない。

 ある年、韓国から来た留学生がゼミ名の前に「お」を付けて、学部パンフレットに登場して紹介してくれたため、「お笑い研究」のゼミがあると一時全国的に知られた(ようである)。

 教科書が品切れになり手に入らなくなって困った。ある年、故河合隼雄がペンネーム大牟田雄三(おおむだ・ゆうぞう)で書いた「次郎物語」(『日本の名随筆〈冗談〉』に所収)を題材にしたことがある。この「冗談」は、一口に言えば、日本に数ある太郎にはみな次郎という弟がおり、次郎には太郎という兄があること石原慎太郎・裕次郎兄弟の如くであるといって、太郎次郎兄弟を以下次々とでっち上げるというものだ。金太郎には勉強好きな金次郎という弟がおり、働きながら本が読めるというので二宮家へ養子に入って、二宮金次郎となった。桃太郎には桃次郎、浦島太郎には浦島次郎という弟がいて、性格が全く違っていたため世に知られなかった。哲学者中村雄二郎には雄太郎という冗談が好きで、人を煙に巻いてばかりの兄がいた、という具合である。

 そして、鼠小僧次郎吉にも太郎吉という兄がいたという件にさしかかった時、ある学生が尋ねたのだ、「鼠小僧次郎吉ってなんですか?」と。呆気に取られた。鼠小僧次郎吉を知らない大学生が出現したのか。ゼミクラスの学生たちに尋ねてみると、何と知っている者は誰一人いなかったのである。

 よろしい、紹介しましょう。

 鼠小僧、通称次郎吉(1795-1832)は江戸後期に出現した盗賊で、元々は江戸堺町(天保12(1841)年に浅草へ移転させられる前の芝居町)の劇場中村座の木戸番の息子だったと言う。鳶となったが身を持ちくずして盗賊となった。身の軽いことで知られ、文政6(1823)年以来、不用心な武家屋敷ばかりを狙うこと28カ所、32度に及んで盗みに入り、文政8(1825)年に捕らえられ、入墨の上、追放の処分を受けたが、その後も71カ所、90度にわたって武家屋敷を荒らし、終に天保3(1832)年に捕らえられて浅草で獄門に処せられた。

 「盗みはするが非道はせず」の愛すべき盗賊と言われたのは、怪盗稲葉小僧との混同によるもので、盗んだ金を貧しい町人の家にばらまいて歩いたというのは、後世の講談や芝居での脚色である。江戸の庶民間で愛すべき盗賊として一気に有名になったのは、安政4(1857)年に歌舞伎作者河竹黙阿弥(1816-1893)が浅草猿若町の市村座に「鼠小紋東君新形」(ねずみこもんはるのしんがた)、通称「鼠小僧」の外題で書き下ろし、市川小團次が鼠小僧を演じて人気を博し、90余日間打ち続けてからであるらしい。

 分かりましたか。そういえば、この頃テレビの時代劇でも時代劇映画でも鼠小僧が取り上げられなくなっている。今時の大学生たちが知らないのも無理はない。私だってテレビの時代劇で知ったのだった。それでと、私は門前仲町に住んでいるという女子学生に言ったのだ。鼠小僧が実在の人物かどうかまだ疑っているようだから、バスに乗るか自転車で、両国に行ってみなさい。両国駅の近くに回向院というお寺があって、その境内に鼠小僧の墓がちゃんとあるから、と。

 果たして、この女子学生は両国回向院へ出かけたのである。多分、半信半疑のままで。

<2011.04.02>

 

第12回〈消火〉

 何年前の何月何日号だったのかまるで記憶にないのだが、「週刊文春」に(私にとっては)実に衝撃的な写真が載ったことがある。それは、関東大震災の犠牲となった吉原の遊女たちの遺体が折り重なった写真であった。

 吉原のほぼ真四角の敷地の南端、水道尻と呼ばれた出口の右側に昔はひょうたん形をした池があった。その池の中に、震災で巻き起こった炎と熱風に煽られるように飛びこんで折り重なった、彼女たちの裸の遺体が写っていたのである。

 今、改めて思い出すと、決して「煽られるように飛びこんだ」のではなかったことが分かる。なぜなら、彼女らは衣服を剥がされたように例外なく裸体で、しかもほぼ水平にその遺体は折り重なっていたからである。熱と炎から逃れようと池に飛びこんだのではなく、煙と炎に巻かれて絶命してから、衣服を剥がされて、池に投げこまれたのであったことが分かる。

 吉原は大火や震災や空襲で何度も焼き払われ、その都度甚大な被害を受け、多くの人命が失われてきているが、なぜいつもそんなに犠牲が大きかったのか。私は今まで、彼女たちに行動の自由―勝手に逃げる―がなかったからだろうと漠然と考えていたが、どうもそうではなかったらしい。

 荒井修の『江戸・東京下町の歳時記』(集英社新書)は季節毎の下町の風俗行事を語って、実に趣のある楽しい一書だが、その中にこんなことが書かれている、「すぐそばで火事が起こっても、吉原の者は手伝いに行かない。逆に言えば、行かないだけに吉原が火事になってもだれにも手伝ってもらえない。だから、一気に全部燃えちゃうんだね」。そうだったのか。

 定火消(じょうびけし)が設けられたのは明暦の大火の翌年万治元(1658)年のことで、今も出初め式で勇姿が見られる町火消(まちびけし)が町奉行大岡忠相(越前守)の命で編成されたのが享保3(1718)年のことである。さらに、い組から始まる47組の町火消が編成されたのは、その翌々1720年のことであるという。幕末期には町火消の全盛期を迎え、江戸城炎上の際は消火活動の主役となり、黒船来航の際は市中警備を命じられたし、戊辰戦争の時は市中の治安維持をも任された。

 火消しの姿は「火事と喧嘩は江戸の華」と、もてはやされたというが、歌舞伎や浮世絵に盛んに取り上げられたのは実は幕末近くになってからであったことが分かる。消火活動とは言っても放水による消火は初期消火だけで、火が燃え広がったら風下に回って延焼を食い止めるため、燃えている家を倒す破壊消火が主だったから、火消しの活動も勇壮というより、ずいぶん危険だったことだろう。町火消が出動してくれない取り決めになっていた吉原に火が燃え移ったら、従ってあとは燃え尽きるまで放っておかれたのである。

 吉原のひょうたん形の池は、今は埋め立てられて広い駐車場になっており、池畔に当たったところに亡くなった遊女たちを慰霊する、何と形容してよいのか、全く江戸的でない、バタくさい顔をした弁財天の像が慰霊塔として、神社のそばに建立されている。まあ、弁財天は外人でインド神話中の一神だから、バタくさくても仕方がないというか、当然なのだが、あれはあの場所にはそぐわないなあ。

 三ノ輪の浄閑寺について触れた時、関東大震災の折りにはもう投げ込む寺さえない惨状を呈したと書いたのは、この写真が記憶に残っていたからである。それにしても、あの写真、もう一度見てみたいような、もう二度と見たくないような。インターネットで何でも調べられる世の中、どうにか検索して出てくる可能性はないものだろうか。

 と、パソコン後進国の住人の私は思案投首の体である。

 <2011.02.13>

 

 

第11回〈ルンペン〉

 昨年12月、下北沢で劇団東演の若手公演、田中澄江の一幕劇『あきこの顔』を観てきた。他に岸田國士の『留守』も併演されたのだが触れない。東演パラータの「パラータ」とは下村正夫の命名なのだそうだが、ロシア語で「病室、病棟」という意味である。よくぞ付けたものだと思うが、古い意味には「大広間」があって、この二重の意味に命名者は注目したのだろう(たぶん)。

 劇中、24歳にもなって結婚もせず(!)、スケッチ旅行にばかり行っている画家志望の娘あきこ(劇中に登場しない)を案じて、母のり子が娘のことを「嫌だわねえ、ルンペンみたいな格好をして」と嘆く場面がある。

 「ルンペン」かあ、懐かしい言葉だなあ、もう現代では死語になっているんだろうなと思った。思ったと同時に一体何語だろうと。調べてみたらドイツ語で、「ぼろ切れ、ぼろ服」の意から、それを身に纏った「浮浪者」の意味が生まれたのだそうだ。

 懐かしかったのは、1970年代に「ルンペン・プロレタリアート」の形で盛んに使われた言葉であったからだ。資本主義社会の最底辺に位置する浮浪者的な貧民層を指すマルクス主義の用語である。ルンペンの語源なのか、ルンプで「ろくでなし、ごろつき」とも出ている。

 ルンペンの語で連想したのは江戸の野非人(のびにん)のことであった。農村で食いつめた農民が江戸には始終流入し、管理できない無宿人と化して、いつも町奉行所の悩みの種であった。この野非人を捕らえて、郷里へ追い返したり、強制的に配下に入れて清掃業に当たらせたのが非人だった。追い返しても、またすぐに流入してきたし、強制労働させられるのが嫌さに脱走したりもした。

 何しろ、非人の仕事は汚れ仕事全般。溜(ため)に連れていかれて、食事を与えられてもしばしば脱走したのは、非人の仕事がそれだけ辛いものであったからだし、嫌なものであったからだ。紙屑拾いとその再生、水路のどぶ浚いの他に、刑死した罪人の死体の処理、運搬と埋葬も非人の仕事であった。

 『鬼平犯科帳』で知られる長谷川平蔵(1745ー95)は実在の人。江戸後期の幕臣で、松平定信の寛政の改革開始後に火付盗賊改に任命され、無宿人の更正、授産対策に石川島人足寄場を建策し、1790年人足寄場取扱を兼務した、と日本歴史大事典に出ているが、この無宿人というのが前述の野非人のことである。

 非人が掃除、池浚、道路普請、草履作りや芸能などに従事し始めたのは中世後期からで、寺社権門に従属して、単なる被差別民というより一種の特権を持ってもいた。それが寺社の管理から外れていったのは江戸時代に入ってからで、やはり都市というものは常にこうした作業(汚れ仕事)に従事する人々が必要だったからである。

 この事情は現代の都市でも変わりがない。私たちは家庭で出るゴミを自分では処理できないのである。よって路上に出すしかない。つまり捨てるしかない。収拾して回るのが非人か、それとも地方自治体の委託を受けた清掃業者かの違いがあるだけなのである。ヨーロッパでも事情は同じ、いやそれ以上で、都市生活者は道路はゴミ捨て場だと思っている節がある。気軽にゴミをポンポン捨てている。毎日毎日道路掃除夫という職業の人々がきれいに掃除してくれているのである。

 非人は江戸に特有の、不可欠な民衆カテゴリーであったことが分かる。

<2011.02.04>

 

 

第10回〈下町〉

  下町とはどこなんだろう。どうも戦後すぐに建てられた古い木造の家並が続いているところは全部下町だと勘違いされているらしい。下町と山の手は対概念(低地と台地)で、歩いてみれば一目瞭然なのである。うるさく定義などしないで実際に歩いてみよう。

  JR総武・中央線の御茶ノ水駅を御茶ノ水口に降りる。改札を出て、交差点を左に歩くと緩やかな下り坂になっている。この通りも今は明大通りと呼ばれているが、いつからそう呼ばれるようになったのだろう。

  歩いてすぐ左側に薄緑色と灰色の建物が見えてくる。杏雲堂病院なのだが、表の生垣の中に石碑があって「大久保彦左衛門屋敷跡」と彫られている。あの講談や時代劇で知られた〈天下のご意見番〉はここに住んでいたのである。通りの両側一帯は神田駿河台といって、その名の通り台地になっている。ここは山の手で元武家屋敷が並んでいた。さらに坂を下りて行くと駿河台下交差点に出る。ここは既に下町の神田神保町なのである。

  交差点の正面に〈すずらん通り〉のアーチが見える。かつてはこの通りが神保町古書店街だった。今、靖国通りに沿って古書店街として知られている通りは、関東大震災で周辺

一帯が焼け野原になって以後、敷設された道路である。

  どうですか、山の手と下町の区別がもう分かったでしょ。えっ、まだ分からない? 困った人ですねえ。山の手は台地で、下町は低地なのです。えっ、それは分かる? どうして山の手と下町の区別ができたのか? うーん、その説明は難しいですねえ。

  16世紀末に徳川家康が入府するまで江戸はそんなに大きな都市ではなかった。人口は約30万人程だったと言われる。町人は江戸城の東から北へ広がる低地に集住していた。台地は武家屋敷と寺院が占めていた。水路が発達していた低地の方が町人には商売がしやすく、住みやすかったのである。

  もちろん、江戸に幕府が開かれ、1603年、家康によって数度に亙る天下普請(土木工事)が行われ、また駿河や摂津から住民が移り住んできてから、居住地域は拡大を続けた。つまり、下町も山の手も拡大し続けた。下町の語は17世紀半ばから使われていたようだが、初めは京橋、日本橋、神田周辺に限られていた。都市化が進んで下谷、浅草、芝辺りまで広がり、幕末、明治に入ってからは隅田川を渡って本所、深川まで、現在では足立、荒川、葛飾、江戸川の各区まで下町と呼ばれるようになっている。

  江戸の人口の五割は武士が占めていたのだから、下町には町人が、山の手には武家がと住み分けていた訳ではない。人口密度がきわめて高かったから、武家も町人も例えば神田では混住していたのである。これに対して、麹町、四谷、牛込、赤坂、小石川、本郷などを山の手というと辞書を引くと出てくるが、町人も住んで商売を営んでいたので、厳しく区分されていた訳ではない。だから、元に戻って、台地が山の手、低地が下町、江戸の町と覚えればいいのである。

  〈本郷も兼康までは江戸の内〉、兼康という薬種・小間物屋があるのは現在の本郷三丁目交差点の所で、16世紀後半には商家が軒を連ねていたというから、武家も町人も一緒に住んでいたんだね。

  天下のご意見番、大久保彦左衛門こと大久保忠敬(ただたか・1560ー1639)は実在の人。講談や時代劇中では、筋を通すことや規則に厳しい口うるさい老人として登場するが、創作ではなく実際その通りの人であったと言う。時代劇では、江戸っ子気質で義侠心に富んだ魚屋一心太助がセットのようにして登場するが、どうやらこれは政談で創作され、後に歌舞伎の主人公に仕立てられた人物らしい。まあ、ちゃんとモデルはいたんだろうけどね。

<2011.01.25>

 

 

第9回〈両国〉

  改めて考えてみると、両国というのは地名としては変である。かつては本所と呼ばれたりしていた。本来は隅田川をはさんで東岸西岸併せて両国と呼ばれていた。旧国名の武蔵の国と下総の国を結ぶ土地で両国なのであって、西岸の両国が東日本橋と改称されるようになって、東岸の両国だけになり、意味が分からなくなった。このニュアンスは(下)総と武(蔵)の国を結ぶJR総武線に残っているだけである。当時の両国を描いた浮世絵を見ると、ちゃんと両岸が浅草と並ぶ繁華な遊興地として描いてある。

  今はスカイツリーが着々と建設中で、地元の墨田区は沸き立っているが、それ以前は地元の住民ですら、なぜ墨田区は数多く残る江戸の史蹟を大事にして宣伝しないのか、と怒っているような土地だった。現在は観光散策客で賑わっていて、まことに慶賀の至り(でも、ちょっとハイテンションすぎないかい)である。

  両国の名所は一に回向院、二に両国国技館、三に江戸東京博物館、四にシアターX(カイ)と続けたいところだが、この劇場は余り知られてなくて残念である。前々回紹介した一幕劇『根岸の一夜』はこの劇場で上演されている〈名作劇場〉で観たものだ。

  さて、名所の一つ両国回向院について蘊蓄を傾けてみたい。ここは諸宗山無縁寺と号する、これまた浄土宗のお寺である。号がすごいでしょ、「無縁」だもの。これが全てを物語っている。今でこそ、愛玩動物(ペット)の慰霊塔と鼠小僧次郎吉の墓があることで知られているが、元々は明暦3(1657)年の大火後、10万8千人とも言われる犠牲者を回向するために幕府によって(四代将軍家綱の代に)開かれた寺院である。その後も度重なる火災、天明3(1783)年の浅間山噴火、文化4(1807)年の永代橋崩落、安政2(1855)年の大地震、それから大正12(1923)年の関東大震災の犠牲者、それだけでなく牢死者、刑死者、行倒人などの回向も担わされた。刑場が小塚原に移されるまでは対岸の鳥越にあったからだ。

  ちょっと興味深いのは海難者も慰霊されていることで、遭難して十年後の1792年に(江戸に着いたのは翌年)ロシアから帰還した大黒屋光太夫たちの名も刻まれた碑が建てられている。

  回向院の境内では天保4(1833)年から勧進相撲の興行が催されており、これも江戸の遊興地ならではのスペクタクルだったろう。これが縁で、明治42(1909)年に、この地に国技館が建設された(今の国技館の場所ではありません)。戦後は占領軍に接収され、後に日大講堂になり、昭和58(1983)年に解体された。現在は住友不動産の手でシティコアという高層二棟の建物が建てられている。その一つの事務所棟の一階に入っているのがシアターXで、劇場入口前の駐輪場に金属で巨大な円が描かれているが、これは元の国技館の土俵の跡を記念したものだ。そう言えば、回向院の境内に入ってすぐ左側に力塚があって、力士たちの霊も弔われている。碑の裏側に建立した親方(年寄)たちの名が刻まれているが、北陣親方(元麒麟児)の名だけ新たに付け加えられたように刻まれているのは何故だろう。

  えっ? もっと面白い所や話はないのかですって? 一杯ありますよ。回向院の右隣のビルの一階には江戸花火資料館があって、両国の花火の歴史が知られます。

  不思議なのは、地下鉄大江戸線が敷設される時、両国駅の次は当然隅田川の下を潜って浅草へ向かうはずが、なぜか急カーブを描いて蔵前へ向かってしまったこと。そもそも、江戸東京博物館は中に歌舞伎の中村座の芝居小屋が復元されていることからも分かるように、本来浅草に建てられてしかるべきだったのに、これまたなぜか両国に建てられたこと。浅草には十二階こと凌雲閣があったのだから、スカイツリーはなおのこと。JRや東武電鉄の所有していた土地があったから、というのはどうも後で付けられた言い訳のようである。

<2011.1.5>

 

 

第8回 〈習慣〉

 われわれの日常生活の行動の95%は習慣からできている。今朝、起きてから今までの行動で、どうしよう、どれにしようかと考えたり迷ったりしたものが幾つあるか、と考えてみると良くわかる。問題なのは、この習慣が非日常の行動にも、また思考にも、実に遺憾なく実効することだ。

 墓地散歩に通じるには、例えば都立霊園の場合、入り口の管理事務所で「著名人の墓案内マップ」をもらうとよいと知る。事実、実に便利である。これを使うとどうなるか。自分の知っている著名人幾人かを選び出し、その墓に詣でて、今日は充実した散歩ができたと満足して終わりになるのである。そうではない。墓地散歩だけではなく、散歩の醍醐味は、泉麻人の言うように迷うことにあるのだ。迷って歩き回るうちに思わぬ物や人に出くわすのである。

 偉そうに言っているが、私もこの習慣に陥って、当てもなく歩き回ることを忘れてしまうことがある。

 浄閑寺でのことである。このお寺も現在本堂が修築中で足場が組んであって、出入りがちょっと不自由になっている。そうなっていなかったら、多分ここにこんな人の墓があるなんて気づかなかったろう。墓地入り口の右側、本堂寄りにひっそりとその墓はあった。

 〈角海老 若紫の墓〉である。角海老と聞いてピンとくるあなた、通ですなあ。でも、現在、千束(元の新吉原)にあるソープランド角海老は遊女屋(貸座敷)角海老楼とはあった場所も異なるし、経営者も別だそうであるので、念のため。若紫はこの角海老楼の太夫(花魁)だったのである。歴史(の裏側)にその名の残る太夫は、きちんと墓に名が刻まれて弔われている。他の太夫たちが眠る寺にもいずれ詣でてみたいものである。

 よって習慣は恐ろしいと知る。「著名人の墓案内マップ」は使わないに越したことはない。ましてや江戸の亡霊地散歩なのである。どこに何があるか、分かったものではない。

 こうやって私はある話題に入るのを避けている。新吉原のことである。この亡霊地がいつまで現役だったかと言うと、昭和33(1958)年2月末までそのままだったのだ。まだ〈生がわき〉なのであって、どこから触れても厄介なことになるのである。三十六計逃げるに如かず。

 筑摩書房のPR誌「ちくま」の12月号に、井上理律子の隔月連載「旅情酒場をゆく」第20回が載っている。今回は吉原と日本堤通りの〈ますみ寿司〉が舞台だから読んでみるとよい。実に具体的に今の吉原(変な表現だなあ)が、町屋に残るかつての装飾まで丹念にルポしてある。

 吉原は時代の推移と共にその内実を実に激しく変質させて来ている。ただ単に「江戸以来の遊廓」でしたと言っても何も言ったことにならないのである。それよりも吉原は複合的な商業施設地だったと言った方がよい。風俗、服飾、美容、理容、飲食、履物、建築、修繕、衛生そして娯楽の一大集積地で、それらの仕事に従事する多くの人々が住まい、また出入りする土地だったのである。これを忘れると、吉原は単なる風俗(売春)の地だったと誤解されてしまう。

 吉原について書かれた本が、多くその起源から歴史的に記述されていくのも、また遊女たちの暗く悲しい運命だけに焦点が当てられるのも、ここが一体どんな土地だったのか実に捉え難いからなのである。

 私が東京へ出てきた時、もちろん既に吉原の紅灯は消えていた。それなのにソープランド(前名トルコ風呂)街になって生き残っているように思うのは幻影なのである。もし、生き残っていたら、ソープランドが暴力団の資金源になることなど恐らくなかっただろう。

 時代に取り残された千束の人々の悩みは深いのである。

<2010.12.27>

 

 

第7回 <紙屑> 

  江戸の町内はきれいだったという。紙屑ひとつ落ちていなかったと。生活で不要になったものは屎尿(しにょう)に至るまで回収(買取)されて、再利用されたからだ。俗に「屑屋お払い」と呼ばわって集めに来たのだと言う。

  本当だろうか。われわれは、故杉浦日向子がテレビ・メディアを通じて熱心に語った究極のリサイクル社会という表の江戸世界を信じこんでいるだけではないのか。

  実は町内にも水路(江戸は水路の四通した都市だった)にも、掃除をしてくれていた人々がいたからなのである。この階層の人々を<非人>といった。裏の江戸世界を支え(させられ)ていた人々である。

  私は故杉浦日向子が嫌いではなかった。NHKの番組では語れないことも多かったろうし、何より彼女がそういった話題を避けて、もっと生活感あふれる話題を好んで語っているのが察せられた。火鉢に入れる灰は、荒物屋で売っていたといった類の話題である。

  非人のことをさっきしようがなくて、「この階層の人々」と書いたが、彼らは決して一つの身分でもなく、階級でもなかった。色々な事情から非人という民衆カテゴリーに入れられていたにすぎないので、<貧人>が訛った呼び名だと思った方が分かりが早いとも書いたことがある。現代の大道芸人とも違うし、ホームレスの人々とも違うのである。非人は江戸の各所(浅草、深川など)にあった<溜(ため)>と呼ばれた場所に集住していた。

  非人の頭は代々、車善七と名乗った。車という姓から、映画『男はつらいよ』で渥美清が演じた車寅次郎を連想する人が多い。監督山田洋次は大阪の生まれ育ちだが、下町に興味を持つようになって(映画『下町の太陽』かららしい)、この非人頭のことが頭に浮かんだのだろうと。残念ながら車寅次郎は香具師(やし)――テキヤのこと――で、香具師は一時非人のカテゴリーに入れられそうになった時、強烈に反抗して免れている。彼らの言い分は、芸を見せて施しをもらっている(非人)のではなく、芸を見せて物品(主として薬)を販売しているのだ、だからわれらは商人だと言うものであった。非人に落ちるのを忌み嫌ったのである。非人は、町人と違った風体を強制されていたものらしい。

  紙屑の話に戻る。非人は様々な市中の労役に就かされたが、その一つが紙屑回収と再生だった。和紙だから回収した紙屑を水に溶かして漉き返し、再利用できるようにした。これを<浅草紙>と言った。百科事典には「すきがえし紙の下等品。主におとし紙に用いる。江戸時代に、多く浅草山谷や千住辺から産出したからいう。」と出ている。今でいう再生紙のトイレットペーパーである。

  この浅草紙に思わぬ本の中で出会った。三砂ちづるの『オニババ化する女たち――女性の身体性を取り戻す』(光文社新書)である。著者は、かつて女性が日常的に和服を着用していた時代、月経時は和紙を丸めて膣内に浅く挿入し、筋肉で回りを締めて月経血をコントロールしていたことを紹介し、この姿勢が「小股の切れ上がった粋な女」を作り出していたと述べている。この習慣が廃れたのは明治の中頃、新しい衛生思想が宣伝され始めてからのことで、その証拠に明治21(1888)年発行の「婦人衛生雑誌」第1号に載った次のような一節を引用している。

  「月経の手当ては、必ず新鮮清潔のきれでつくるべきこと。膣内に紙の珠を挿入するのは有害である。『スキカヘシ』一名浅草紙というものを挿入するものがあるが、はなはだ有害で、治しがたい子宮病を発することが多い。」

  やれやれ今回は話題が杉浦日向子から生理用品の話まで散らばってしまって、非人の話に戻れなくなってしまった。本当は、池田大伍という作家の一幕劇に『根岸の一夜』という作品があり、画家酒井抱一が元吉原の花魁と所帯を持った雨華庵に、元大店の若旦那で吉原の遊女と心中を図って失敗し、捕らえられて非人に落とされた男というのが訪ねて来る場面があって、それを紹介して終わるつもりでいたのだ。文章の展開が下手だなあ。

<2010.12.21>

 

 

第6回<人骨>

  人骨を見ても気味が悪いだとか、哀れだとかいった感慨を抱かないようになったのはいつ頃からだったろうか。記憶の糸を手繰ると、ずいぶん昔、少年時代のころにそうなったような気がする。多分、孤独な少年がひとりやっていた「墓遊び」のせいだろう。墓の前には供花台の石があり、これをずらすと中にお骨が見えて、子供ながらに人は死ぬと皆こんなふうに骨になるのだと、知らずしらず納得したからだろうか。まあ、過去は物語としてしか存在しない。物語はそうして、いかようにも創作できるものだから、わが事ながら信用がならない。

  <刑場>の回に、「恐ろしい数である。毎日毎日、死体をどう処理していたものだろう」と書いたが、説明板の文章にあった通り、悲惨なものであったようだ。常磐線で東京に出る人々が車窓から首切地蔵を見て、気味が悪かったと語るのも肯けるものがある。

  それで再開発の時代が来る。常磐線を通す時も、地下鉄日比谷線を通す際も、工事で地面を掘り返す度に夥しい数の人骨が現われたと言われる。小塚原回向院の墓地を区画整理した時もそうだったろうし、今、延命寺の墓地を区画整理している現在も同様なのだろう。だが、ちょっと気にかかることがある。

  小沢信男の『東京骨灰紀行』(筑摩書房)を読んでいると、この近辺につくばエクスプレス(TX)を通す工事(地下を通すからトンネルを掘った時か)をした時のことが出てくる。

  「そして平成10(1998)年から、未来をひらく常磐新線つくばエクスプレスの工事開始。ここらは地下トンネルでくぐり抜けたからたまらない。平成14年の中間報告では、約130平米のA区からでた頭蓋骨が二百点強、四肢骨千七百点。約32平米のB区からは頭蓋骨だけで六十点、他は推して知るべし。いまでこそ史蹟として調査記録をするけれど、それも限定区間ですからね。」

  そして、「地の下には仕置場がまだ眠っている」と小沢信男は言うのだが、最初はその人骨の夥しさに圧倒されるにしても、ちょっと頭が冷えてくると、おかしいと思う。小沢信男は大好きな作家だから、いちゃもんを付ける気は毛頭ない。ただ「地下トンネルでくぐり抜けたからたまらない」という箇所に引っかかったのだ。

  地下鉄銀座線浅草―上野間のような比較的浅いところを掘削したのなら話は分かるが、つくばエクスプレス(TX)は一体地下何十米のところを掘削したのだろうか。そんなに深いところにまで人骨が埋められていたのだろうか。もしそうだとすると、死体を埋めて土をかぶせた上に、また死体を埋めて土をかぶせた上に……小山のように盛り上がっていくではないか。小沢信男の言う「中間報告」というのは、地上への出入口を造る幾つかの工区で掘削したら、ということではなかったのか。それなら話はわかる。一体どれほどの範囲の土地に刑死者が埋められたのか、現在の地図では分からないし、切絵図ならもっと分からない。

  この問題は、読み出しながら中断してしまっている鈴木理生の『江戸の町は骨だらけ』(ちくま学芸文庫)をじっくり読み通してから、改めて紹介することにしよう。

  同書によれば、江戸時代、武家は原則的に土葬されていたし、それ以外でも火葬は一般的でなかったという。江戸の火葬場が初めて小塚原に設立が許可されたのが寛文9(1669)年のことで、その後、次第に火葬場は増えていった。

  小塚原の火葬寺として挙げられているのは計14寺、他所に比べて圧倒的な多さである。第五代将軍綱吉(在職1680-1709)が「寛永寺に参詣して休息をしていると、当時の郊外だった小塚原のソレが臭ってきた。直線距離で約2.25キロだから無理はない現象である。」と『江戸名所図会』中の記述が紹介してある。

  この江戸の歩いて行ける地理感覚がまだ私には身に付かないのである。まだまだ修業が足りない。

<2010.12.13>

 

 

第5回 <荷風>

  三ノ輪に来たら浄閑寺、浄閑寺と言えば(遊女)投げ込み寺で、遊女たちを慰霊する「新吉原総霊塔」があって、花又花酔の「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の墓碑というのか銘版が付してある。昭和4(1929)年の建立である。横になぜか窓が切ってあって、そこから中に夥しい数の骨壷が見える。この塔は供花と線香が絶えない。水をかけて手を合わせる。

この塔の真向かいに永井荷風(1879-1959)の碑がある。「震災」(「偏奇館

吟草」より)と題する詩が彫ってある。全部書き写す。

 

 今の世のわかき人々           →或年大地俄にゆらめき

 われにな問いそ今の世と          火は都を燬きぬ。

 また来る時代の藝術を。          柳村先生既になく

 われは明治の兒ならずや。         鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。

 その文化歴史となりて葬られし時      江戸文化の名残烟となりぬ。

 わが青春の墓もまた消えにけり。      明治の文化また灰となりぬ。

 團菊はしをれて櫻痴は散りにき。      今の世のわかき人々

 一葉落ちて紅葉は枯れ           我にな語りそ今の世と

 緑雨の聲も亦絶えたりき。         また来む時代の藝術を。

 圓朝も去れり紫蝶も去れり。        くもり眼鏡をふくとても

 わが感激の泉とくに枯れたり。       われ今何をか見得べき。

 われは明治の兒なりけり。→        われは明治の兒ならずや。

                      去りし明治の世の兒ならずや。

 

  荷風ブームはだらだらといつまで続くのだろう。名のある評論家は誰でも一度は荷風を相手にして、その人生を論じないと気が済まないようだ。今のところ、私が感心しているのは、川本三郎の『荷風と東京―「断腸亭日乗」私註』上、下(岩波現代文庫)だけである。荷風の日記を読み込みながら、荷風の生きた時代と彼が愛した東京の細部を、彼が食べたもの、見た映画、付き合った女性、歌舞伎への愛着、特に二世左団次との親交を語って倦むことがない。

  私は荷風の人生には余り興味がない。彼の人生は私ごときの想像できる範囲をはるかに越えている。ただ、彼の人生を通して、大正から昭和戦後までの東京の風俗が垣間見られるのが実に楽しいだけである。

  ところで、先の詩碑は銘版によると、「荷風死去四周年の命日  昭和三十八年四月三十日 荷風碑建立委員会」によって建てられたことが分かる。傍らに、「この碑は墓ではありませんので線香は手向けないで下さい」との注意書きがある。はて、荷風は、死後は浄閑寺に墓を建てて葬ってくれるよう遺言したのではなかったか。浄閑寺の説明板には、「遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである」とあり、これが墓ではないことが明示してある。

  実は、荷風の遺言は守られず、本名の永井壮吉として雑司ヶ谷霊園にある永井家の墓所に葬られている。詣でる人も少ないらしく、半ば荒れたままである。

  終わりに浄閑寺についてひとこと。この寺は栄法山清光院と号する、これまた浄土宗の寺で明暦元(1665)年に開創されている。投げ込み寺と呼ばれるようになったのは、安政2(1855)年の大地震の際、沢山の新吉原の遊女の遺体が投げ込み同然に葬られたからだと言う。大正12(1923)年の関東大震災の際には、もう投げ込む寺すら見つからない惨状を呈した。

 仏教は6世紀に日本に伝来した時から支配階級が帰依する、国家統治の為の宗教だった。最澄の開いた天台宗、空海の真言宗も同じで、国家の手厚い保護を受けていた。社会の下層民や被差別民衆は布教の対象ではなかった。彼らをも対象としたのが、平安時代末期に異端の仏教と呼ばれた法然の浄土宗と、その弟子親鸞の浄土真宗であった。

  檀家寺制度でがっちり管理された江戸時代にあって、大火、地震など災害の犠牲者や重罪を犯して刑死した者たちの霊を弔う役割は、従って上に挙げた二宗が担う外なかったのである。南無阿弥陀仏。

<2010.12.6>

 

 

第4回 <刑場>

 江戸切絵図(古地図)は読み難い。

 ある一定の法則があるのだろうが、地番はもちろんないし、居住者名、寺社名は面した通りから下へ縦書きで、それが縦、横、斜めに入り混じっているのである。

  『江戸名所図会』(全6巻、ちくま学芸文庫)に、別巻1『江戸切絵図集』、別巻2『江戸名所図会事典』が付いていて、これを利用して見てきたようなことを語っているのだとお思いだろうが、残念ながらそうではない。『江戸東京切絵図散歩』(山川出版社)を折に触れ開いている。このムックは見開き二頁に、右に江戸の切絵図、左に現代の地図が、ほぼ同縮尺で並んでいて、おまけに右図は横にイ、ロ、ハが、縦に一、二、三が、左図は横にA、B、Cが、縦に1、2、3が付いていて、イの二はBの2といったふうに探したい場所が現代地図上に特定しやすい利点があるからだ。

  小塚原刑場は今の浅草馬道通りを北へ行って、南千住の手前左側、田んぼの只中に長方形に区切って、ただ「仕置場」とあるだけだ。これが現代の地図上に極めて特定しにくいのである。常磐線の線路を渡ってすぐ右側、都バスの南千住ターミナルがあるところ辺りではないかと推測する。切絵図上は仕置場の西方に、なぜか「火葬寺」という寺名が見える。火葬場のことなのか、分からないことだらけである。

  江戸時代、刑場(仕置場)は二つあって、一つが小塚原、もう一つが品川の鈴ヶ森であった。仕置とは、刑罰、特に死刑に処罰することを言った。重罪人の死刑執行場のことだ。

  百科事典には、明治初めまでに約20万人が刑死したとあるが、二か所合計で20万なのか、それともそれぞれ20万人ずつで合計40万人なのか。それぞれで20万人として、引算と割算をしてみる。小塚原回向院が開設されたのが1667年、明治維新まで約200年、割算すると(盆と正月は休みだったのだろうが)、一年当たり約1000人、一日当たり3人となる。恐ろしい数である。毎日毎日、死体をどう処理していたものだろう。

  小塚原は骨ヶ原から転じた呼び名だという。刑場(仕置場)は、間口六十間(約百八米)、奥行三十間(約五十四米)の面積だった。とても夥しい数の死体を埋葬できるに十分な広さではない。空いている土地に滅多やたらに埋めたのではないか。重罪人の死体をわざわざ火葬にしたとも思われない。多量の薪が要りようになるからだ。

  延命寺の説明板には実はこの有様が書いてあった。刑死者の死体は、完全なものも、首と胴体バラバラのものも、土を掘って埋めて上から土をかけただけであったそうで、辺りに漂ったであろう異(腐)臭は想像に余りあるが、乾燥して風が強い日が続くと、上の土が吹き飛ばされて手足が現われ、これを野犬が貪り食ったものだという。

  回向院には、井伊直弼の安政ノ大獄によって捕らえられ刑死した、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士たちが葬られている。が、彼らは政治犯の重罪人であった。今は立派な墓に弔われているが、刑死した当時はどう葬られたのか。他の刑死者と同様ではなかったのか。

  何しろ合計20万人である。ぴんと来ない人は、昭和20年3月の東京大空襲と呼ばれる、実態はアメリカ軍の無差別空爆による殺戮の犠牲者が10万人であったことを思い合わせていただきたい。実にむごたらしい数である。

  江戸開府後しばらくは、刑場は日本橋本町にあった。処理しきれなかったのであろう。17世紀半ば鳥越と鈴ヶ森の二か所に分かれ、鳥越の刑場はその後、山谷堀に移転し、最終的に南千住に落ち着いたのだった。

  今回は陰惨な話になってしまった。まだまだ語るべきことは多いのだが、今日は帰ろう。南千住から三ノ輪までは常磐線の線路沿いに歩いてほんの十数分である。三ノ輪橋商店街で何かうまい肴で一杯やって、都電荒川線に乗って帰ることにしよう。

 浄土宗の話はする余裕がなかった。また、いずれ。

<2010.12.3>

 

第3回 <回向>

  南千住に来ている。JR常磐線南千住駅のホームに立って、南側(浅草方面)を眺めると十数本の線路が整然と並ぶ貨物専用の隅田川駅が見える、はずなのであるが、遮音壁と地下鉄日比谷線の高架に阻まれて今は見えない。まあいい、後で跨線橋の上から見てみよう。鉄道ファン垂涎のロケーションである。

  千住は、品川、新宿、板橋と併せて「江戸四宿」と言われた宿場町の一つ。日光街道、奥州街道への出入り口であるだけでなく、隅田川の水運の面からも交通の要衝であった。今、北千住(本宿と呼ばれた)は足立区、南千住(新宿と呼ばれた)は荒川区に属しているが、元は一つの宿場町だった。

  改札口を出ると、駅前は再開発真只中で、ロータリーも工事中で、何よりも高層マンションがニョキニョキ何棟も建って、昔のあの寂れた趣きはもうない。もっとも、駅前だけである。表通りを一本中に入れば昔のままである。

  線路に沿って少し戻り、浅草へ向かう通りを渡ると、目の前に小塚原(こづかっぱら)回向院がある。両国にある回向院から1667年に別院として独立した寺である。この寺には後で、改めて寄ることにする。今はも少し線路寄りのもう一つの寺、延命寺に向かう。どちらも浄土宗のお寺である。なぜ浄土宗なのか、これには深いわけがあるが、簡単に言うと他宗派ではとても引き受けられなかったのであろう。

  元は一つの寺だったのが、電車を通すために二分され、延命寺として独立したのが昭和57(1982)年だった。この寺は雰囲気がすごいのである。江戸の亡霊地そのもの……あれれ! ない! ないではないか! 小塚原刑場の由来や、処刑や埋葬の陰惨な有様を縷々解説した説明板がない。その奥に見えるはずの、かの有名な「首切地蔵」も見えないではないか。一体どうしてしまったのだ。

  実は、本堂も墓地も全面改装中で、説明板も墓石も全部一時的に撤去されていた。首切地蔵だけは、建築会社のプレハブ事務所の陰に隠れていただけで、元の場所にあった。

  荒川区はすごい、どんな陰惨な史蹟でも、歴史の点景証拠として保存し、懇切な説明を加えてる、これが台東区と大違いのところだ、と手放しで称賛するつもりだったのに。何ということになっているのだ。

  ネットの「浄土宗新聞」に延命寺のことが次のように解説してある、「現在、回向院は電車の高架により二分され、一部が昭和57年延命寺として独立したが、そこには寛文元(1741)年に建てられた高さ一丈二尺(約4メートル)の延命地蔵菩薩がある。その別名は、首切地蔵と呼ばれているが、血なまぐさい歴史の中で多くの人々を救ってきたお地蔵さんで、今でも参詣人が絶えない。」

  恐らく、工事が完成したら、隣りの回向院同様、碁盤目状に区画整理された真新しい墓地と近代建築の本堂に生まれ変わり、歴史散策に訪れた客達用に「観光資源墓」は「首切地蔵」とまとめて別区画になるのだろう。

  仕方ないか、この寺は以前から無縁墓が増えすぎて困っていたようなのだ。このままでは墓地は荒れ果てるだけで、新しい壇信徒を迎えて新しい墓を建ててもらうことができない状態だったのである。ずいぶん前から無縁になった墓は整理したいから、連絡先を知っている壇信徒は連絡してほしいと立看板が立っていた。

  こうして江戸の亡霊地がまた一つ消えていく。寺も墓地も消えてしまうわけではないが、まさかここがかつて江戸のお仕置き場(刑場)の一つで、明治の初めに廃止されるまで、重罪人が磔、斬罪、獄門などに処せられ、埋葬された場所であったことを偲ばせる雰囲気は跡かたもなくなるだろう。

  何しろ只の死者を弔う寺ではなかったのだ。今、うっかり「埋葬」などと書いてしまったが、あれが埋葬などと言える代物だったのであろうか(まるで見てきたような書きぶりであるが)。

  「刑場」について、もう一度稿を改めて書いてみなくてはならない。なお、「回向(えこう)」とは、「死者の成仏を願って仏事供養すること」を言います。

<2010.11.30>

 

第2回 <掃苔>

 「掃苔(そうたい)」が新書のタイトルになるとは思わなかった(『掃苔しましょう―風流と酔狂の墓誌紀行』小栗結一、集英社新書)。先日(11月13日)のテレビ東京の番組「出没アドマチック天国」(雑司ヶ谷編)では<墓マイラー>なる珍語まで登場していて、おまけに「掃苔」とは著名人の墓に詣でることと解説されていたが、どんでもない。

 掃苔とは「墓の苔をきれいに取り去ること。転じて、墓参り。特に盂蘭盆前の墓参りをいう」と大辞泉に出ている。元々ただの墓参り、または盆入り前の墓掃除のことである。

 墓地散歩も面白いかなと思ったのは十数年前。まだ小学生(知的障碍児)だった息子を連れて上野に遊びに行った時のことだ。ふだん息子の世話を全て引き受けている妻がママさんバレーの試合に出場する日は、何の憂いもなく発散できるよう、父は息子を連れて朝から家を出る。

 アメ横で買物をし、西郷隆盛像の真下の、今はないレストラン聚楽でいつものように昼食を取ると、その日は見たい展覧会もなかった。久しく行ってない谷中銀座にでも行ってみるかと、谷中霊園を突っ切ることにしたのである。

 彼岸でもないし、墓地散歩がブームにもなっていないから霊園内は日曜日なのに閑散としている。中央通路を半ば過ぎたころ、左側で墓石に水をかけて丹念に掃除している白髪の上品な女性が目に止まって、気になった。あんなに念入りにきれいにしてもらっているのは一体誰の墓なのか。確かめに寄るのも憚られて、付近を一回りして戻ってみると、既に件の女性の姿はなく、新たな供花と線香の煙に包まれているのは、上田敏の墓であった(上田敏については各自で調べて下さい)。

 これがきっかけになって、以後墓地散歩が趣味となったのだが、それが江戸の亡霊地と何の関係があるのか。谷中霊園が開設されたのは明治7(1874)年ではないか。その通り。だが、谷中は江戸時代以来の寺町で無数といってよい数の寺が今もある。霊園そのものは明治時代の産物なのである。人口が急激に増加したんだね。

 JR山手線内回りで日暮里を過ぎると、右手には崖が続き、崖の上は谷中霊園だが、崖の下にも墓地がある。はて、なぜだろう。実は今、何本もの線路が走るこの土地は、元十数の上野寛永寺の塔頭(大寺院の脇寺)が並ぶ寺町だったのである。鉄道を通し、上野駅を造るために立ち退かされたのだが、墓地だけが辛うじて少し残ったのだろう。

 線路の左側も崖になっていて、一段低くなっている。鴬谷駅から上野駅に向かう、この左側の一段低くなった一帯は、元下谷万年町、山崎町と言った。今はただの東上野だが。万年町と言えば、唐十郎の小説『下谷万年町物語』を思い出す人も多いだろうが、この一帯は明治を迎えてもしばらくの間、「乞胸(ごうむね)」や「願人坊主(がんにんぼうず)」と呼ばれた江戸の被差別芸能民の集住する土地だったのである。

 大道で芸をして見せて施しを乞う人々は、江戸時代の身分では「非人」に属した。江戸の非人は、平安時代以来の非人とは呼び名は同じでも非なる人々で、「貧人」が訛ったものだと受け取った方が分かりが早い。

 江戸の非人については、また稿を改めて書くことにしよう。明治の初め頃、彼ら芸能民は浅草へ追い立てられて、東本願寺の門前町へ移住したことになっている。再開発、区画整理というのは、そんな昔からあったのだ。だから、上野駅浅草口を降りて、東上野、昔の万年町、山崎町の跡を散歩しても亡霊には全くお目にかからない。鉄道で知られた岩倉学園高校の校舎には趣があって見るに価するが、新築された上野音楽大学のキャンパスの立派さに目を見張るだけである。

 掃苔でも墓地散歩でもどっちでもいいけれど、この趣味の楽しさは奥が深い。秘密にしておきたかったなあ。

<2010.11.23>

 

第1回 <周縁>

 浅草に江戸はない。

 自ら消し去って忘れたか、隠して忘れてしまったつもりになっている。

 小沢昭一が『日々談笑』(ちくま文庫)の中でこんなエピソードを紹介している。ある日、仲見世のとある店に若者が立ち寄り、「吉原にはどう行けばいいんですか」と尋ねた。店主は、「さあ、吉原ねえ…どう行けばいいのか…」と話をはぐらかして答えなかった。

 雷門から入って仲見世を歩いて浅草寺へ向かう時、あそこにあるのはみな戦後に復興されたものだけで、たかだか65年が経っているにすぎない。江戸情緒を感じるのはその人の勝手だが、あそこにあるのは江戸のデザイン感覚というもので、それを昔からあったもののように装って商売しているだけである。

 浅草が江戸を退治したのは儲からないからである。歴史では飯は食えないと思ったからだ。その代わりに芸能や映画があったのだが、それも今は見る影もない。若者が再び集まってくるはずもない。集まってくるのは演劇祭や映画祭が催される時だけである。

 江戸が儲かるようになったのは実は不景気になってからだ。老いも若きもブラブラ散歩するようになって歴史が飯の種になることに気づいた時、もうそこに江戸はなかった。教育委員会が建てた説明板があっただけである。

 江戸を感知したければ、浅草の周縁を歩き廻るしか手がない。そしてそこに観光客はめったに足を向けないのである。それを私は、江戸が亡霊になっていると感じ取る。亡霊を感じ取るには、隠されて消えてしまったと思われている土地を訪ねてみるしか手はないのである。だが、浅草の周縁とは一体どこなのであろう。そもそも浅草とは東西南北どこからどこまでを指す地名なのか。

 浅草が独立した一区浅草区となったのは明治11(1878)年のことで、下谷区と合併して台東区となったのは戦後の1947年のことである。

 JR総武線に浅草橋という駅がある。駅には丁寧に貼り看板がしてあって、「浅草へおいでのお客様は地下鉄浅草線に乗り換えて浅草駅へ」と知らせている。まるでここが名前とは異なり、浅草ではないような言い方で、思わず笑ってしまうが、ここが浅草の南端なのである。ここから北へ歩いて、鳥越、蔵前、駒形すべて浅草に入る。東端は大川(隅田川)だとして、花川戸、今戸、山谷と歩いて北は南千住の手前までも浅草である。御徒町のすぐ東隣りに元浅草という地番が今でもあって、浅草の西端がここらであると知れる(ホントにそうかな?)。

 稲荷町から延びる仏壇屋街はもちろん浅草で、田原町で国際通りと交差する。この辺りを西浅草と呼ぶようにここも浅草で、合羽橋道具街も当然浅草に含まれる。国際通りを北へ歩くとやがて左側に浅草ビューホテルが見えてくる。ここが元松竹の国際劇場で、SKD(松竹歌劇団)の本拠地だった。SKDは本当に惜しいことをした。元団員たちが今若手を鍛えているという話を最近聴いたが、復活は無理だろう。劇場を建ててあげなければ。

 先へ進むと右手に鷲(おおとり)神社が見えてくる。この裏手というか東側が新吉原があったところで、今は千束という地名になっている。国際通りをさらに北へ進むとやがて三ノ輪駅に辿り着く。

 浅草はざっとこんふうにして広い土地だし、広い区域だったのである。

 江戸の亡霊地を訪ねるには、雷門、仲見世、浅草寺には近寄らず、紹介した周縁へと足を伸ばす外にない。

 それでは、南千住から歩いてみよう。浅草が江戸(城)の鬼門であったように、千住は浅草の鬼門に当たった。かつて南千住から先はもう江戸ではなかったのである。

<2010.11.10>