江戸亡霊地                            武田清

連載コラム「江戸の亡霊地」 付録篇

第57回〈意外な芳町〉

 芳町または葭町は現在、地図の上にない。

 今の日本橋人形町2、3丁目の、日本橋小舟町交差点から日本橋浜町へ向かう通りが芳町通りと呼ばれていたのだそうだ。

 ところが、例の地名辞典によると、「江戸時代には堀江六軒町といった所で、葭町または芳町という呼名は俗称である」とある。そのうえ、明治39年の地図には人形町の呼び名もまだなかった。

 それなのに、住居表示が現在の通りになる前は、日本橋芳町1、2丁目があったのだという。どうなっていたのか、全く分からなくなった。

 いや、いや、呼名なんかにこだわるつもりはなかったのである。

 書きたかったのは、葦または芦は「悪し」に通じるのを忌んで、「善し」にちなんで「葭」または「芳」にしたということ。つまり、この辺り一帯は葦原(湿地帯)だったのだ。江戸初期に埋め立てられて、1618年各所に散在していた遊里を集めて葭原(吉原)と言い換えたのだった。

 1657年の明暦の大火前に、浅草寺の北へ移転が決まっていたのだが、支度金を奉行所から受け取ってもぐずぐずしていたら大火で全部焼失してしまい、やむなく移転せざるをえなくなったのだった。

 そのため、日本橋の吉原を「元吉原」と呼び、浅草千束の吉原を「新吉原」と呼ぶようになった。

 その元吉原の近くにあった芳町は、芸者の町だったとばかり思いこんでいたら、とんでもなかった。意外な側面があったのだった。

 地名辞典の助けを借りよう。

 「近くに芝居町があったため、役者の子や、その月の出し物に関係のない子役などが男色を売った。葭町は江戸一番の陰間茶屋の多い町だった。茶屋は多くは名の通った役者や狂言作者、浄瑠璃・鳴物などの連中が経営していた。若いころ「かげま」をしていて、のち高名な役者になった者も多い。芝居には出ずに売色を専門にする少年も多く、そういう連中は少年期をすぎると両刀をつかう。御殿女中や好色な、あるいは切羽詰まった後家さんなどの注文に応じるのである。」

 〈女でも男でもよし町といい〉

 いやはや、とんでもないことに……芳町と聞いて「芸者の町」と、とっさに連想したのは、海外で日本の「女優」と呼ばれた「マダム貞奴」こと川上貞奴(1871-1946)が芸者をしていたのが、ここ芳町だったと思い出したからだった。

 本名小山貞、芸者をしながら伊藤博文の愛人だった「奴」が女優川上貞奴になったのは、当時最先端の演劇「新派」(壮士芝居)の川上音二郎(1868-1911)と結婚して、海外巡業へ同行したのがきっかけだった。

 

 その欧米巡業の経路と苦難と栄光をくわしく書いている余裕はない。

 ただ、芸者上りがなんで女優だと悪口を言われながら、帰国後、女優の養成所を開き、また児童演劇の育成に尽力した功績が、何とも評価されないことが残念だったのである。

 当時、江戸東京で芸者といえば吉原、深川そして芳町の芸者が一流どころだった。ただ芳町は芸者の町としては長く続かず、ほどなくしてその中心は料亭の多かった柳橋へ移って、「柳橋芸者」として知られることになった。

 その柳橋も、いま行ってみれば昔日の面影はほとんどなくなっている。

<2013.07.08>

 

 

第56回〈左衛門橋通り〉

 ひまがあると東京の地図を眺めている。

 そんな時、まだ通ったことのない通りの名に引きつけられることがある。今回は台東区の左衛門橋通り。通りの名に橋が付いている通りは何本もあるけれど、「左衛門」とは一体何だろう。人の名前か、それとも役職名か。

 今回も、JR御徒町駅前がスタート地点。なぜ御徒町かというと、散歩に出かける前にアメ横にある「芳屋」という店で、うまい紅茶を安く買うことにしているからだ。

 駅前の春日通りを東へ歩く。清洲橋通りを横切って、次の信号のところが左衛門橋通りのはずだ。念のため角の交番で確かめる。

 5月最後の土日、台東区のこの一帯は「モノマチ」というイヴェント会場になっていて、特製のマップを手にした人たちがそぞろ歩きしている。私もそのマップをもらう。

 「モノマチ」というのは、各種製造業が多く集まっている台東区を知ってもらおうと始めたイヴェントらしく、明らかに墨田区の真似である。

 台東区よ、やっと大事な観光資源に気づいたか。

 左衛門橋通りの両側には、戦後すぐに建てられたと思われる古い木造家屋が点在していて、とても良い雰囲気をかもし出している。

 住居表示で言うと、小島、三筋、鳥越と過ぎていく。おかず横丁のあちこちにミニ店舗が出てにぎわっている。

 横丁に何度も入りこんでみるが、寺社もなく、史跡も見つからない。小さな如意輪観音を祀ったお堂が見つかったのみ。

 もう浅草橋に着いてしまった。こんなに何にも見つからない散歩も久しぶりだ。

 JR総武線のガード下をくぐると神田川に出る。そこに架かっているのが「左衛門橋」である。

 神田川に屋形船が何艘も係留されている。 

 川の向こうは中央区馬喰町になる。日本橋なのだ。

 橋のたもとに説明板が立っている。

 それによると、この辺りは旧浅草上平右衛門町、浅草左衛門町と呼ばれていたのだとか。

 天正18(1590)年、徳川家康の江戸入府に従い、平右衛門は江戸に入った。元和2(1616)年、家康が浅草寺に参詣した際、この地に町屋を開くことを命じられた。町名は平右衛門にちなんで付けられ、彼はこの地の名主となった。後、上と下に分割された。

 一方、浅草左衛門町の方はどうなのか。この地は慶長3(1598)年以来、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉の屋敷地だった。明治元(1868)年時で12万石、領主酒井忠宝(ただみち)だったが、公収されて、明治5(1872)年に町屋が開かれた。当時、平右衛門町の隣りにあったことから、新平右衛門町と称していた。

 後に、神田川に臨むこの地を俗に左衛門河岸(さえもんがし)と呼んでいたのを取って、町名にした。

 別に、町名の由来などよく分からなくてもいいのだが、「庄内藩」というところに目が釘付けになったのだった。山形県庄内は私の故郷ではないか。

 もっとも、庄内藩は鶴岡市にあって、私は隣の酒田市の生まれ。

 「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」

 本間家は近世から現代の豪商。千町歩地主として知られ、上のように謡われた。せめてなりたやの殿様が、つまり酒井家のことなのだ。

 こんな浅草の南端で、故郷と縁の地に出会うとは思ってもみなかった。

 写真に見える向こうの橋が浅草橋で、橋のたもとに「浅草見附」の碑が建っている。

 見附とは、江戸城へ出入りする者たちを監視する設備のある城門のことで、江戸三十六見附と言って、36カ所あったと言われている。

 浅草橋の日本橋側のたもとには、関東郡代屋敷があったとの説明板が立っている。関東にあった幕府直轄領の代官たちの総元締めである関東郡代が、こんなところで仕事をしていたとは。

 

<13.06.01> 

 

 

第55回〈宗吾殿〉

 私の好きな江戸東京散歩コースの一つが、JR御徒町駅前を起点にして、西へ東へとブラブラ歩いていくコースだ。

 終点はあらかじめ決まっていない。

 それじゃ、コースじゃないんでは?

 そう、終点の決まっていないコースです。でも、東へ歩けばたいがい浅草に行き着きます。

 まだこのコラムを書き始める何年も前、このコースを東へブラブラ歩いていくと、珍しいところが見つかったことがあった。そこは「宗吾殿」という、何というか神社のような、そうではないような、しかたがないから「ところ」なのである。

 メモを取る習慣がまだなかったし、写真はフィルム・カメラだった。さて、そこがどこにあったのか、地図を調べても出ていない。

 ここを取り上げてみようと思ったのだが、見つからないので再度出かけてみることに。確か都立白鷗高校の付近だったような記憶がある。

 あてどなく歩くのは慣れているのだが、その日はあのものすごい「煙霧」が襲ってき(て、みんな「黄砂」とかんちがいし)た日で、早々に退散したのだった。

 ネット世代でない私は、こんな時、グーグルで検索すれば? ということになかなか気づかない。遅ればせながら、「佐倉惣五郎」と入れて検索してみた。

 すると、「宗吾殿」で出てきたのがあって、開いてみると「浅草の風」というブログ(サイト)だった。それも何と、サイト運営者の池田和則氏は2010年8月に死去されて、彼の訃報でブログは終わっているのだった。

 とりあえず、宗吾殿は台東区寿3丁目19番12号にあることが分かり、再度散歩してみることにした。

 都立白鷗高校の前を進んで、新堀通りを渡ると住所表示が寿になる。田原町へ通じる国際通りを横切ると、めざすその「宗吾殿」は見つかった。

 写真では見えないかもしれないが、門の上部には「歌舞伎座」と、左右には「明治座」と彫りこまれている。

 歌舞伎の関係者が建立したのか? 待て待て、早まらないように。お堂には「宗吾殿」の額が掲げられている。

 教育委員会の説明板があるが、読んでもよく分からない。なんとかまとめてみると。

 江戸時代初期の義民として知られる、下総国(千葉県)佐倉公津村の(一説には名主)木内惣五郎(宗吾)を供養するお堂だそうだ。

 彼は承応年間(1652~54)に佐倉藩の重い租税に苦しむ農民のために、藩主堀田正信の時、将軍に直訴を図った罪により、妻子とともに処刑された。

 そこまでは分かる。でも、佐倉には彼を供養する霊廟があるのだ。怨霊を鎮めるために社を造って祀るのは、平将門の例に見るようによくあることだが、なぜここ台東区にあるのか。

 その後、この付近は近江国(滋賀県)宮川藩堀田家の屋敷地となって、同家が屋敷内に宗吾殿を建立した。

 なになに、年代は不明だが、堀田家では享和5(1803)年に惣五郎の150回忌法要を営んでおり、お堂もこの頃に建立されたものと考えられると。

 佐倉の堀田家と宮川の堀田家との連関が全く書かれていない。勉強不足の私にはこれ以上、手も足もでない。

 江戸時代末期以降、惣五郎は芝居や講談の題材(「佐倉義民伝」)となって、広く世に知られるようになった。三世瀬川如皐(せがわじょこう)が「東山桜荘子」(通称「佐倉宗吾」)を書いて上演し、大当たりした。(この作者は、あの「切られ与三」の作者です。)

 明治12(1879)年、当主堀田正養が一般の参詣を許可し、それ以来、劇場関係者や庶民の信仰を集めているのだそうだ。

 現在のお堂は、昭和28(1953)年に有志によって再建されたもので、毎年9月には縁日が行われていると。とはいうものの、どこに縁日が立つのか。事務所がこれでは、どこにもその場所はないようなのに。

 謎は解けるどころか、深まるばかり。

 この宗吾殿から一ブロック行くと、玩具やゲームで有名なバンダイの本社があり、その道をはさんで隣に「駒形どぜう」がある。

 もう浅草だ。

<2013.5.10>

 

 

第54回〈日本橋界隈2〉

 いくら日曜日だとはいえ、東京水天宮の仮殿があんなに混雑しているのは、安産祈願の腹帯を授かりにきた夫婦だけでなく、無事に子を授かった夫婦や家族がベビー・バギーに子供を乗せて御礼参りにきているからだ。

 周囲にはマタニティ・ドレスやグッズの店もちらほらできている。

 浜町公園へ通じる小公園をはさんで、向かい側には明治座がある。

 ちょうど早乙女太一ショーをやっていて、まだ午前中だというのに若い女性ファンたちが集まっている。

 明治座については商売柄ふれずにはすませられないが、長くなるので回を改めよう。近代的なビルディングになってしまって、古い写真で見る昔の面影はない。宣伝幕が下がっていなかったら、劇場だと気づかれないのではないか。

 前の清洲橋通りを渡ると、人形町の甘酒横丁が始まっている。

 老舗の食べ物屋がいくつも並んでいる。テレビのバラエティやグルメ番組に何度も取り上げられているので、ごぞんじの店もあるかな。

 甘酒横丁は、この3月にもテレビ東京の土曜9時の番組「出没!アド街ック天国」に登場していた。その老舗の一つに鳥料理の「玉ひで」がある。店の前にもう十数人が行列しているが、掲示板に「親子丼は午前11時から午後1時までの提供です」とある。グルメ番組では、この店の「絶品親子丼」ばかり紹介されるが、何のことはない、ランチ・メニューなのだ。鳥料理のフルコースを食べさせる店が、親子丼ばかり食べにくる客たちにヘキエキしているのではないかとうかがわれて面白い。

 漫画「あんどーなつ」に、絶品の葛まんじゅうを訪ねて、主人公の安藤奈津がやってくる店も確か人形町だった。どこかにモデルになった和菓子屋があるのだろうが、分からない。

 やがて、地下鉄人形町駅に出ると人出はパタリと絶える。残念だなあ、この先にも良いスポットはあるのに。

 

 人形町の町名は、芝居見物にきた客たちが土産に買って帰る人形を商う店が並んでいたからだと思っていたが、違っていた。江戸の芝居町には歌舞伎の小屋だけでなく、糸操り人形芝居の小屋もあった。日本版マリオネットの、その操り人形を作る職人が集まって住んでいたからだという。

 現在も結城座という劇団が江戸操り人形芝居を上演しているが、吉祥寺に本拠が移っている。

 人形町も正式な町名は日本橋が付いている。西隣りに日本橋小網町という小さな町があって、古社の小網神社がある。

 元は550年前からあった稲荷社だったが、太田道灌が土地と費用を寄進して現在地に移ったのだという。それでも小さな神社だ。

 面白いのは、この神社が授ける「強運厄除けの守り札」があって、このお札を授かって太平洋戦争へ出征した兵隊たちの多くが無事生還したため、その御利益が広く知られるようになったのだと。

 しまった!

 人形町には現代の人形師ジュサブローの人形博物館もあったのだった。寄ってみるのを忘れていた。

 もう江戸橋をすぎて、日本橋への道を歩いている。また今度訪ねてみることにしよう。

 日本橋に到着だ。

 日本橋川には首都高が走っていて、日本橋に覆いかぶさっている。この首都高を取り去って、元の姿に戻す計画が地元の老舗の主人たちによって立てられているが、実現するだろうか。

 三越前から地下鉄に乗って、今日は帰ろう。

 お昼はどこで食べたのかって?  これから上野へ出て食べるのです。

<2013.4.23>

 

 

第53回〈日本橋界隈1〉

 地下鉄半蔵門線が水天宮まで開通したとニュースで知ったとき、安産祈願で知られるこの神社に参詣したことがある。

 もう何年ぐらい前になるだろうか?

 調べてみると、三越前―水天宮間が開業したのが平成2(1990)年11月だそうだから、もう22年も昔のことになる。半蔵門線はこの後、隅田川の下を潜って深川、錦糸町を経て押上まで延伸された。

 まるで押上にスカイツリーが建設されることを見越していたかのような、手際の良さである。

 水天宮へ行ってみようと思ったのはなぜだったのか、今となっては思い出せない。多分、人形町へ行ってみたいというのが先だったような気がする。

 行ってみると、変な感じのする神社だった。古い神社のはずなのに、コンクリートの土台に載った、二階建てのような神社だった。

 今調べてみて、その理由が分かった。

 水天宮は中央区日本橋蛎殻(かきがら)町にある神社で、祭神はアメノミナカヌシノカミ。文政元(1818)年、久留米藩主有馬頼徳が江戸は三田の藩邸内に久留米から勧請したもので、明治5(1872)年に現在のところへ遷座された。

 従って、芝居に出てくる時は、江戸時代に設定してあるものに出てくる水天宮は現在の港区三田、明治5年以降は日本橋のつもりで演じなければならない、と例の地名辞典は親切だ。

 安産祈願の神社だとばかり思っていたが、船の守護神、水難除けの神社として知られているのだ。福岡県久留米市にある水天宮が全国の水天宮の総本社で、日本橋にあるのは正式には東京水天宮というのだそうである。

 知らなかった!

 さて、その東京水天宮だが、今年3月から建て替えのため浜町へ仮殿が設けられて、安産祈願の腹帯を授かるにはそちらへ行かなければならない。

 すごい人出である。場所はちょうど明治座の向かい側にあたる。

 今日はこの界隈を再訪してみる。

 水天宮から仮殿へ歩く途中に「浜町緑道」という並木道がある。木々が緑に染まり、そこかしこにベンチが設けられて、とても良い雰囲気の散歩道だ。

 だが、東京の場合、こういう公園は元は川か運河だったというのが相場である。両側に道路が走っているから、それが分かる。

 この緑道を歩いて人形町(今は甘酒横丁という別名でも呼ばれている)へ出ると、そこに歌舞伎の「勧進帳」の弁慶像が建っている。

 かたわらに説明板があって、それによると、天保13(1842)年に浅草猿若町へ移転させられるまで、この近辺は芝居町で、葺屋(ふきや)町に市村座、堺町に中村座と、いわゆる江戸三座があって、それを中心に芝居茶屋、料亭、土産物屋が軒を連ねて、見物客で賑わったのだという。

 近くに芳町もあって芳町芸者で知られたが、詳しくは次回にゆずろう。

 天保12(1841)年10月7日、中村座の楽屋から出火、隣町の市村座をはじめ付近の町々が焼けた。ちょうど天保の改革が進行中で、一時は芝居小屋の再建は禁止と決まりかけた。が、時の北町奉行遠山左衛門尉(つまり遠山の金さん)のはからいで再建が許されることになったのだが、繁華な市中ではなく、当時江戸の市中には入らなかった浅草寺の北側へ移転させられることになったのだった。

 もっとも、そんなことまで説明板には書いてない。

 日本橋界隈の散歩をもっと続けよう。

<2013.04.17>

 

 

第52回〈鈴ヶ森八幡〉

 鈴ヶ森の刑場跡を訪ねた日、実は珍しく道に迷ったのだった。

 前もって地図を見て、頭に記憶して行くから(地図も持って行くのだが)、降り立った駅で南北が逆になっていたら、頭の中の地図をグルリ180度回転させるのに、その日はそれができなかった。京浜急行の大森海岸駅に降りて、グルリと体を回転させてもよかったのに、それもできなかった。

 これでいいと思いこんでJR大森駅の方へ歩いていって、途中でまちがいに気づき駅に戻って、何とまた反対の方(南)へ歩いてしまったのである。

 そこで見つけたのが磐井(いわい)神社、通称鈴ヶ森八幡であった。

 後で調べると、例の「江戸東京地名辞典」にも載っている有名な神社で、こんな説明が付されている。

 「磐井神社。住居表示式改訂前までは入新井(いりあらい)といった所。更にその前は不入斗(いりやまず)村である。不入斗村と新井村が合併して、入新井の名ができた。(中略)ここに鈴ヶ森を冠する社があるということは、品川区の鈴ヶ森刑場あたりからこの社の周辺にかけて、広く鈴ヶ森と呼ばれていたからに外ならない。」

 地理的には、ちょうど第一京浜(国道15号)の向こう側に平和島競艇場がある辺りである。

迷ってしまって良かったなと思ったのは、同じ地名辞典に河竹黙阿弥の「菊模様法燈籠(きくもようのりのとうろう)」の序幕がこの鈴ヶ森八幡の場で、こんな台詞だとあったからだ。

「今日は川崎の大師へ、旦那を始めお組下の衆達も御代参のお役目、この鈴ヶ森の八幡でお休みと極って、手前達も楽だろう。」

 川崎大師へ参詣に行くのに、この神社で休憩できて良かったな、というのだ。

 そう、ちょうど休憩するのに都合がいいような場所なのである。なぜかというと、磐井の名の通り岩井戸があって、休憩して水を汲んでノドをうるおすことができたからだ。

 その井戸が今に残っている。

 東海道を行く旅人たちをどれだけ憩わせたことだろう。

 旧東海道は第一京浜でズタズタに分断されている。この神社も境内の半分ほどを道路に持っていかれたのだろうが、奇跡的に井戸が歩道の中に残ったのだという。

 境内の中に巨大な銀杏の樹が二本ある。その木蔭に入れば、日中の日差しを避けて休憩するのに好都合だったろう。今では小ぶりだが、神楽殿も付いている立派な社である。

 さて、刑場は鈴ヶ森も小塚原も街道筋にある。なぜだろう?こんな縁起でもない施設をなぜよりによって人々の目につく所に造ったのか?

 人々の目につかせるためなのである。

 重罪を犯した者はどんな刑罰を加えられることになるのか、街道を行く人々の目に否応なく焼きつけられるよう、刑場そのものを街道筋に造ったのだ。

 江戸時代の刑罰の凄惨さはまさに言語に絶するのである。磔、火炙り、獄門。さらし首は台に乗せて三昼夜さらしたのだという。

 何だか、コラムの内容が凄惨なことになってきた。

本当は旧東海道のことを書くつもりだった。この街道は分断されながらも、品川区、大田区の中に少しずつ残っているのである。京浜急行で言えば、品川、北品川、新馬場、青物横丁、立会川と旧道が残っていて、今も歩くことができる。

また暖かくなったら、旧東海道を品川から歩いてつないで行く散歩をしてみよう。地図の上だけでも色々面白そうな所があるようだから。

<2013.02.27>

第51回〈千住宿で〉

 芭蕉が芭蕉庵を構えていた深川から、舟で千住まで隅田川をさかのぼったのは、もちろん、その方が楽だし、速かったからだ。

 前回、隅田川もここまでさかのぼると、川幅も狭くなり、水量も減ってと書いたが、芭蕉が奥の細道へ旅立った17世紀の終わり頃もそうだったわけではない。当時は江戸の海がかなり奥まで入りこんでいたのである。

 徳川家康が江戸に移って、最初に架けさせた橋が千住だったのは、ここまでさかのぼらないと、とても橋が架けられなかったからだろう。埋め立てがどんどん進んで、今のように川筋が決まるのはもっと後の時代のことである。

 その千住大橋を渡る。大きな橋である。

 

 橋のたもとに、今は足立区青果市場(いわゆる、やっちゃ場)があって賑わっている。そこに、千住宿がここにありましたという、身もフタもない大看板が、前に小さな芭蕉像を置いて設置してある。

 旧道が日光街道沿いに伸びている。日曜日だから、商売をしている店はなく、人通りも少なくて寂しいが、散歩はしやすい。店のほとんどがやっちゃ場関連の店である。

 まっすぐ行くと北千住の駅近くに出る。

 時代に取り残されたような、あの古~い北千住の町が、今では東京芸大、東京電機大はじめ4つの大学のキャンパスができて、大学町へと変貌をとげつつある。

 でも、常磐線の線路沿いにある飲食店街に一歩足を踏み入れれば、昔の名残が味わえる。よくもまあ、こんなに狭い道の両側にこれほどの店が軒を連ねているもんだ。

 付近を散歩していると高い塀が現れて、線香の匂いが漂ってくる。散歩者の勘がひらめく。そうだ、今回はまだ寺に寄ってなかった。山門を見つけて中に入る。寺はさほど大きくないが、不似合いなほど広い墓地がある。

 氷川山地蔵院金蔵寺(こんぞうじ)というお寺である。入ってすぐ左側に、何やら古い供養塔が二つ建てられていて、説明板がある。

 

 なになに。右側の墓は、天保8(1837)年に起こった大飢饉で餓死した人々の供養塔で、死者828人、この寺に葬られた者が370人。千住宿近辺だけで、それほどの死者が出たのだ。

 並んで建っている左側の墓は、千住宿の遊女たちの供養塔で、この地で死んだ遊女たちの戒名が刻まれていると。残念ながら石が風化して、戒名は読めなくなっている。

 この供養塔の向かい側に、地蔵院の名の通り、六地蔵がまつられている。

 

 往時には、千住宿は本陣、脇本陣の他に、55軒の旅籠屋があり、そのうち食売旅籠(遊女屋)が36軒だった。江戸の後期には、宿場として以外に江戸近郊の遊里として栄えた、とある。

 最後に掲げる写真はこの寺の全景だが、ようく見てほしいのは高い塀の向こうに、赤や黄色のケバケバしい看板が見えることで、ファッション・ヘルスというのか、現代の遊女たちが働く遊里である。一枚の写真の中に、江戸の遊女の供養塔と現代の遊女の働き場所が収まってしまった。

 

 この寺の山門前の道を抜けると、北千住駅前へ出る。大きくて立派な駅ビルが建っていて、その隣に丸井のビルがあり、その中にシアター1010が入っている。1010は「せんじゅ」と読む、数字のゴロ合わせである。

 意外なほどに古い場所と新しい場所が混在した土地だった。

 これだから江戸東京散歩はたまらない。

<2013.2.12>

第50回〈千住宿へ〉

 江戸四宿のうち、宿場町であったことを今、観光資源にしていないところが二つある。

 都市整備事業(道路造成)でズタズタに分断されて、資源にすることができなくなったのが内藤新宿で、資源にする必要がないのが千住宿である。

 なぜ必要がないのかは後で触れることにして、千住宿はどこにあったんだろう? 南千住か、それとも北千住か?

 今では南千住は荒川区で、北千住は足立区。間を隅田川が分けていて、千住大橋がつないでいる。文禄3(1594)年、徳川家康の命で架橋された。まだ江戸時代になってない。

 今日は南千住から北千住まで歩いてみることにしている。色々気になるところもあるからだ。

 まず、東日本大震災を引き起こした大地震で、首がもげて地面に転げ落ちたと伝えられる延命寺の首切り地蔵へ。無事に元通りに修復されていて安心する。

 だが、妖気漂うかのようであった墓地は区画整理が完了して、新しいピカピカの墓地にまとめられ、奥の方に新しい墓地が造成されて分譲中だった。寺に入ってすぐのところに、メモリアル・エステート分譲中の幟があったので、はて何だろうと思ったが、いやはや墓地がメモリアル・エステート(記念地所)とは。ただただ、呆れる。

 気を取り直して吉野通り、通称コツ通り(骨通り?)を北へ歩く。両側にチェーン店がほとんどなくて下町らしい雰囲気で、と思ったが、藪や更科や満留賀などのそば店は昔からのチェーン店かと思い直す。

 この通りが日光街道へ合流して千住大橋へ向かうところに素戔雄(すさのお)神社がある。古びていて境内が広い。地元の氏子の信仰厚いことが一目で分かる良い神社である。

 千住大橋を渡る。大正12(1923)年の関東大震災後に架け替え工事が始まって、昭和2(1927)年に竣工したと記してある。

 ここまで日本橋からちょうど7キロである。

 隅田川はここまでさかのぼると、両国や深川辺りの水を満々とたたえた川とは違って、川幅は半分ほどになり、水量もかなり減る。

 さて、その深川から元禄2(1689)年3月末に舟で隅田川をさかのぼり、千住で舟を下りて、奥州への行脚に旅立ったのが松尾芭蕉だった。その時、芭蕉は今の南千住側へ上陸したのか、それとも北千住側だったのか。

 そんなこと、どうでもいいだろうですって? いえいえ、地元住民にとっては大問題なのです。なぜなら、芭蕉は千住の一大観光資源なのであって、芭蕉サミットが開催されたほどなのだ。荒川区と足立区の対立となるのである。

 この勝負は足立区側の実効支配によって、決着がついた。足立区は千住大橋のたもとに、「奥の細道」出立の碑を建て、橋下の船着き場の壁に与謝蕪村の絵と芭蕉の文章を写して、勝ちを収めたのである。

 〈行く春や鳥啼き魚の目は泪〉

 芭蕉は足裏に魚の目ができていて、歩くと痛くて痛くて、思わず泪を浮かべた、という解釈は本当なのかしら。そんな足で長の道中大丈夫だったのか。

 なお、日本歴史大事典によると、慶長2(1597)年に人馬継立を命じられて千住町と称するようになり、寛永2(1625)年に奥州・日光道中の初宿に指定されたとある。

 当初は隅田川北の千住1~5丁目が本宿(もとしゅく)で、本陣、脇本陣が置かれた。万治元(1658)年に新宿(にいしゅく)が、2年後に南岸の下宿(しもしゅく)を加え、この三地区を併せて千住宿と総称するようになった。

 千住宿は元々隅田川の両岸を併せてあったのだが、北千住側の方が若干古かったのである。

 争いの種もそこから発していたのだね。

<2013.2.5>

第49回〈助六〉

 〈消えた町〉の最後の稿は「助六」にすることに決めていた。歌舞伎十八番の一つである。

 なにしろ舞台が吉原一の妓楼三浦屋の前で、しかも主人公が男伊達(侠客)の花川戸助六、その愛人が三浦屋の太夫、花魁の揚巻(あげまき)で、敵役が新町の長吏頭弾左衛門を擬していると言われる髭の意休(ひげのいきゅう)なのだ。

 遊里と芝居町と新町と、消えた町のそろい踏み、「これぞ浅草の亡霊地!」なのである。

 だが、ちょっと待てよ、と心の中でブレーキがかかった。何だかちょっとおかしいぞ、と。

 ブックオフには時々立ち寄る。買って読むつもりでいて、買いそびれた新書が格安で見つかることがあるからだ。

 家族で食事に出かけて、その帰りみちにつき合いで入ったブックオフでこんな新書を見つけた。『江戸っ子と助六』(赤坂治績著、新潮新書)である。何と105円!

 気軽に読み切れると思って読み始めて、驚いた。これで注が付いていたら、立派な専門学術書である。とても寝転がっては読めない一書だった。

 「助六」には江戸時代を通じて長い歴史があって、今のような歌舞伎脚本になるまでには、江戸の町と人心の変遷と深く結びついた背景があったのだ。

 「助六」、正式には「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」は、「暫」や「鳴神」や「勧進帳」と並ぶ市川団十郎家の歌舞伎十八番の内の一つ。制定したのは七代目団十郎で、天保11(1840)年のことである。

 もう幕末まぢかだが、「助六」には制定されるよりずっとさかのぼる歴史があった。元々は上方の心中物の歌舞伎であったという。

 でも、私が心の中で引っかかったのは、また別の点である。つまり、本当に消えた町三つのそろい踏みなんて軽々に言ってよいのかと。

 天保11年といえば、この年、水野忠邦によって芝居町が日本橋から浅草猿若町へ移転を命じられたのだった。ということは、それまではそろい踏みではなかった。それに三浦屋は宝暦6(1756)年頃に突然廃業している。吉原が日本橋から移転させられたのは明暦の大火(1657)の翌年だから、もう浅草北の新吉原になっているからいいとして、新町が鳥越から浅草今戸へ移転してきたのはいつだったか……何だかもやもやしてきた。

 もう一枚、先の新書から拝借した写真は、助六が意休を怒らせて刀を抜かせようとして、足の指に煙管をはさんで意休へさし出しているところの浮世絵だ。

 なぜそんなふざけた真似をしているのかというと、親の敵工藤祐経を探しているのであって、敵は奪われた宝刀友切丸を持っているからである。

 あれ? 喧嘩ばかりしている侠客の助六じゃなかったの?

 そう、助六実は曽我兄弟の弟の方、五郎だったのだ。「助六」がいつのまにか心中物から仇討物へ変貌を遂げていたのである。

 それは正徳6(1716)年、江戸中村座で二代目団十郎が「式例和曽我(しきれいやわらぎそが)」という外題で上演した時からである。

 「助六」は歌舞伎十八番の中に入れられるより一世紀以上前から、江戸では曽我兄弟の仇討を世界(脚本のベース)とする演目に変貌させられていたのである。

 これ以上詳しく書くときりがないので、興味のおありの方には前記の新書をお薦めします。読んでみてね。

<2013.1.25>

第48回〈鈴ヶ森〉

 江戸には刑場(御仕置場)が南北に二ヶ所あった。

 北にあったのが、浅草の北というより千住宿の南にあった小塚原刑場で、ここについてはもう何度も触れてきたし、そもそもこのコラムの出発点のようなものだった。

 南にあったのが、品川宿の南、東海道沿いに設けられた鈴ヶ森刑場である。

 元々は日本橋にあった刑場が、慶安4(1651)年に二ヶ所に分かれて移設されたのだった。移設というより増設である。人口の増加するにつれて、犯罪も増え、また処刑される罪人も急増したのだろうと想像される。

 鈴ヶ森は前から気にかかっていたのだが、どこにあるのか分からず、行ってみたことがなかった。新しく購入した地図で品川近辺を調べてみたところ、南大井に史跡マークが付いて載っていたのである。これは是非行ってみなければ。

 最寄り駅は京浜急行の大森海岸駅だ。

 駅を出て、国道15号(第一京浜)を品川の方へ少し戻ったところにある。立派な東京都史跡の看板が出ている。

跡地に隣接して、鈴森山大経寺という日蓮宗のお寺がある。処刑された者の供養のために建てられた寺だそうである。

 この刑場は、歌舞伎や講談に登場する者たちが処刑された地として有名である。丸橋忠弥、平井(白井)権八、八百屋お七、天一坊、白木屋お駒、などなど。

 境内には処刑に使用された火炙り台や磔台の台石や井戸、供養塔などが点在している。

八百屋お七はこの台石に建てられた柱にしばりつけられて火炙りになったのか、としばし感慨にふける。どんな女性だったか、知ってますか?

 火刑に処せられた八百屋お七というのは、本郷駒込の八百屋の娘。天和2(1682)年の大火で円乗寺に避難した際、寺の小姓山田佐兵衛と情を通じ、彼との再会を願うあまりに放火して、捕らえられて火炙りになったのだ。

 井原西鶴の浮世草子「好色五人女」に書かれて以来、歌舞伎の脚本に多く取り上げられるようになったのだという。

 文政6(1823)年に4世鶴屋南北が書いた「浮世柄比翼稲妻(うきよつかひよくのいなづま)」には、白井権八と幡随院長兵衛が出会う「鈴ヶ森」の場がある。

 今は狭くて細長い敷地にさまざまな石碑や墓石や地蔵像などがごちゃごちゃ詰まっているが、

 本来はどんなところだったのだろうか。

 都教育委員会の説明板にこんなことが書いてある。

 元々の規模は、元禄8(1645)年に実施された検地では間口40間(約72メートル)、奥行き9間(約16メートル)あった。国道15号(第一京浜)などの拡幅のために旧態を留めていない、と。

 結構広かったのだ。それに元々細長かったのだ。

 鈴ヶ森刑場ができた年に処刑されたのが丸橋忠弥で、由井正雪の幕府転覆の密謀に加担した罪で処刑されている。以来、この地は江戸の重罪人処刑場として、小塚原刑場と並んでその名を知られることになる。

 だが、歌舞伎脚本に登場する回数では鈴ヶ森の方が断然多く、南北、黙阿弥が幾度となく登場させている。なぜだろう。昔の姿を失ってしまった跡地にいくら佇んでも、往時の趣はまるで浮かんでこない。

 それにしても、なぜ私は「墓地」とか「骨」とか「刑場」にこんなに引かれるのだろうか。

<2012.12.11>

第47回〈下谷神社〉

 上野にはよく来るんだ。

 「上野」という地名で、どの辺りをイメージしているかは人によって異なる。美術館や博物館の並ぶ山の上か、それともアメ横に代表される山下か。そのどちらかで世界は反対になる。

私は後者だ。といって、古くてゴチャゴチャした町が好きなわけではない。人ごみが嫌いなんだから。

 今日は下谷を歩いてみる。今は「下谷」という地名はなくなって、大方「東上野」という趣きのない地名で呼ばれている。

 上野から浅草通りを少し行った右手の、少し奥まったところに下谷神社がある。多分、新しい道路が通ったからそうなったのだろう。

 明治5(1872)年以前は、下谷稲荷社と呼ばれていたのだそうで、狭い境内だが舞殿があるところから察するに、相当古い神社だ。神社の左側には赤い鳥居が幾重にも続くのが、いかにも稲荷社だ。

 山門を入ってすぐのところに「寄席発祥之地」の碑があって、五代目柳家小さんの書だと彫ってある。

 落語の祖型は、浄土宗の僧安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が仏教法話(説教)のなかで聞かせたことにあるとされている。17世紀の前半のことだ。だが、寄席は? 説明書きをまとめると次のようになる。

 寛政10(1798)年の6月に、初代山生亭花楽(さんしょうていからく)がこの下谷神社の境内で五日間の寄席興行を行ったのが始まりだと。

 馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎という人が(よっぽど話好きだったんだろうね)、山生亭花楽と名乗り、「風流浮世おとし噺」の看板を掲げ、一般の人を対象に木戸銭を取って落語を聞かせたのだという。

 山生亭花楽の名は「山椒は小粒でもピリリと辛い」からつけたものだと。

 以後、寄席は大いに流行って、文化・文政期には百数十軒を数えるまでに増えていったと言われる。寄席が壊滅的な打撃を受けるのは、大正12(1923)年の関東大震災によってである。

 後、山生亭花楽は三笑亭可楽と名を替えて、現在で九代目になる。可楽師匠の名にもそんな由来があったんだねえ。

 この近辺にはそんな時代を偲ばせるレトロな趣の建物がそこかしこに残っている。

 さて、浅草通りに戻って、浅草寺方面へ歩いてみることにする。例によって、大通りを歩かずに右へ左へと脇道に入って行く。右へ入れば元浅草で、左へ入れば松が谷である。何度も歩いた街並だ。今日は松が谷へ。意外なことに、サーフボードやウクレレの専門店がある。合羽橋通り、国際通りは横断して、六区も素通りして、初音小路へ。日曜日だから、両側の飲み屋が昼から店を開いて賑わっている。

 浅草寺裏へ出る。表の人ごみと違って閑散としている。そこかしこに孤独を楽しんでいるらしい小父さんたちが腰を下ろして競馬新聞を開いたりしている。

 九代目市川団十郎の「暫」の銅像の右隣に、ほほ笑む菩薩の石像がなぜかあったりする。

 二天門を出ると、内外からの観光客であふれかえっている。早々に帰ることにしよう。

 新仲見世通りの西詰めに、店々にはさまれて、地下鉄浅草駅へ通じる地下道への入口がひっそりとある。下りて行くと、両側に店が並ぶ古くて汚くて臭い地下道である。

 なぜこんな半端な地下道があるのかというと、地下鉄浅草駅が造られた際、この地下道は浅草寺の直前まで通じる出入口にするつもりが、地元の大反対に遭って、こんな半端なところで建設打ち切りになってしまったのだそうだ。

 浅草が好きなのに、どうしてこうも人ごみを嫌って、人のいないところ人のいないところばかりを縫って歩くんだろう。

 自分でもよく分からない。

<2012.11.15>

第46回〈山茶花や根岸はおなじ垣つづき〉

 根岸と聞いてもどんなところかピンとくる人はあまりいないだろう。

 日本文学にくわしい人は「根岸短歌会」のことを思い出して、正岡子規や伊藤左千夫の名を思い浮かべるか。落語が好きな人は林家三平(初代)を思い出して、そういえば彼の家は根岸にあって、今、記念館みたいになっているのだったと思い出すか。

 台東区根岸は上野の山の下、JR鴬谷駅北口辺り一帯の地名である。

 江戸時代の文化文政期から多くの文人が好んで居を構えた。例の地名辞典を引いてみよう。

 

 「台東区根岸1~5丁目

 上野の山の北かげにあたり、呉竹の里、時雨が岡などと呼ばれて、音無川の流れや、うぐいす、くいな、ひばり、山茶花(さざんか)、など名物が多く、風趣を愛する文化人や富有な商人の別荘が田園のそこかしこに点在するところだった。」

 

 ハア~と溜息が出てしまう。今の根岸と全くちがうから。

 今日は散歩ではなく、ある博物館へ展示を見に来たのだ。台東区書道博物館、別名中村不折記念館の「この人、どんな字?」展である。

 鴬谷駅に着いた山手線の車内から、北口にはホテルが立ち並んでいるのが見える。ホームからではビジネスホテルなのかラブホテルなのか見分けがつかないが、近寄れば入口に「御休憩2時間5000円」とか表示してあるから、一帯が一大ラブホテル街であると知れるのだ。

 言問通りを渡って細い道を中に入ると、あるわあるわ数十のラブホテル。なぜこんなところがラブホ街になっているのかというと、昔この辺に遊郭があった名残りなのだ。根岸だけではない、湯島にもある。

 昼間ここを通り抜けるのはちょっと気が引けるが、通り抜けないと目あてのところへ行き着かない。

 だから、駅前の案内板にはラブホ街を通らず、グルッと遠回りして尾久橋通りから入るよう順路が書いてある。

 実は正岡子規が病床を暮らした旧居「子規庵」と中村不折記念館は通りをはさんで、ほぼ向かいあって建っている。

 子規庵は一度訪ねたことがあるので今日はパス。

 昔の人たちって字がうまかったんだねえ。漱石、鷗外、子規、虚子などが不折に宛てた手紙が並ぶ。昔の人たちがみんな字がうまかったのではなく、うまい人の手紙が陳列されているのだ。毛筆で実にその人の個性が表れるように墨書してある、というのも実は逆で、毛筆で墨書すると、その人の個性が如実に表れるし、そしてそのように書いている。そのように書けるのである。毛筆が筆記具であるだけでなく絵筆でもあることが納得される。

 館内は撮影禁止なので、ポスターの写真でその筆跡を楽しんでください。右上から時計回りに、伊藤左千夫→与謝野鉄幹→正岡子規→森鷗外→森鷗外→中村不折→夏目漱石。

 帰り道、ねぎし三平堂の前を通る。

   立派なお屋敷だ。そのうち訪ねてみよう。

 根岸は江戸時代実にのどかな別荘地のようなところだった。家々の垣根は決まっているかのように山茶花だった。うぐいすも鳴いていたのならホトトギス(子規、不如帰)も鳴いていただろう。正岡子規が彼の俳句雑誌にその名を付けたのもうなずかれる。

 今回、題名にしたのは第何回めだったかに紹介した「根岸の一夜」という一幕劇に出てくる江戸の文人画家酒井抱一(さかい・ほういつ)の句である。

 〈山茶花や根岸はおなじ垣つづき〉

 俳句がまるで嘘みたいな現実の風景である。

<2012.09.22>

第45回〈こんな日もあるさ〉

 散歩に出かけようと家を出て歩きはじめたら、ゲリラ豪雨に遭う。近くの煙草屋の店先で雨宿り。15分ほどで雨は上がったけれど、今日は何だかツイてないぞ。

 

   江戸四宿のうち、これまで一度も足を運んだことがなかった板橋宿へ行ってみることにした。

 板橋宿は日本橋から約10キロ、中山道の第一宿だ。有名だから、江戸東京散歩の本やガイドブックに必ずといってよいほど取り上げられている。だから…というわけではないが、あんまり期待してなかったのだが。

 都営地下鉄三田線の板橋区役所前で下りる。近くに板橋観光センターがあるはずだから、そこで散歩マップをもらって起点にするつもりでいたのだが、これがなかなか見つからない。地元の人のような気配の女性にたずねて、その人も確かではないけれど、と教えてくれて、ようやく見つかる。

 散歩マップをもらって歩きだす。また雨が降り出してくる。

 旧中山道の板橋宿は幅四間、7メートルほどの狭い道路の両側に、上宿、仲宿、平尾と約50軒ほどの旅籠が並び、問屋場があったという。ふつう、その面影というものが残っていたりするものだが、すっかり新しい商店街になっていて、何もない。

 「板橋」の名は石神井川に「板の橋」がかかっていたことから名づけられたことになっている。なぜそんなことが地名になったかというと、昔は川に本格的な橋がかかっていることが珍しかったからだろう。その橋も今やコンクリートの古そうに(材木ふうに)装飾した橋になっており、川そのものが高いコンクリート護岸で固められて、つまり趣きというものがない。

 普通の民家の玄関先に、「旧本陣跡」の石碑と説明板がついている。それだけ。

 文殊院という寺に寄って、墓地に入らせてもらうと、「遊女の墓→」という小さな立札が立っていて(!)、確かにある。 

 傘をさしての散歩には、またいつもと変わった風情があるものだが、ひっきりなしに車が通り、人が、自転車が通る。しだいにがっかりしてくる。

 中山道は板橋宿を出ると、北上して上州の高崎へ至って、そこから西へ木曽路をたどる。

 宿の北端上宿の外れにあるのが、かの有名な「縁切り榎」で、

嫌な男や嫌なものと縁を切りたい女たちが榎の樹皮を削って、それをすりつぶして酒や汁に混ぜて飲ませたのだそうだ。霊験あらたかだったのか、榎は三代目になり、近年絵馬を奉納できるようにしたら、ストーカーに悩む女性たちがわんさと訪れて、鈴なりの状態に。

 実ること結ばれることではなくて、切れること壊れることを祈る「負の祈願」というのは、確かに珍しい。

 この縁切り榎のそばに長寿庵という蕎麦屋がある。これもガイドブックに必ず出てくる。ここで遅い昼食を取ることにする。蕎麦は、味にうるさい私に言わせれば「ふつう」である。

 板橋宿はここで終わりで、その先は環七と中山道が交差する、自動車が行き交う現代の都市の風景だ。それが「ふつう」なのだ。

 これで終わりかい。それでは寂しすぎる。

 思い出したのが、縁切り榎から東へ少し下りたところにある板橋ボローニャ絵本館だ。廃校になった学校の校舎の3階にこじんまりと、それはあった。世界各国から集められた色とりどりの絵本が本棚を埋めている。

 ロシアの棚にウラジーミル・マヤコフスキー作の『善いことと悪いこと』という一冊があった。絵もうまかった詩人が文章を書き、描いたもので、人生の中の色々な場面で出会う「善いことと悪いこと」が次々と展開して、飽きさせない。

 これが今日の唯一の収穫か。こんな日もあるさ。

<2012.09.06>

 

第44回〈寛永寺〉

 これまでこのコラムで何度も「上野の寛永寺、寛永寺」と触れてきたのに、その寛永寺を一度も訪ねたことがなかった。

 それに気づいたのは7月28日、兵庫県へ引っ越す千三屋、あんみつや夫妻の送別会に招かれて、上野へ出向いた日のこと。送別会が終わって、男だけ4人散歩することに。不忍池畔でやっていた骨董市を冷やかし、池の中の弁天堂へ渡った時、「これからどこへ行ってみる?」「そうだ、寛永寺に行ったことがなかった!」「それじゃ行ってみよう」ということになった。

 崖の階段を登って台地に出て、北へ北へと歩く。

 

 寛永寺の正式名称は東叡山円頓院寛永寺。東の比叡山だから東叡山で、延暦寺と並ぶ天台宗の総本山である。例の「地名辞典」にはこうある。

 「寛永2(1625)年11月落成。2代将軍徳川秀忠が大御所家康の意を受けて、天海僧正のために建立した寺。かつては不忍池をふくむ上野山内のすべてが寺域で、三十六万坪の境内をもち、三十六坊、数十の伽藍をもつ、寺領11790石の寺であった。」

 

 それじゃ、今歩いている道の両側にある幾つもの美術館や博物館も、噴水のある西洋庭園も、東京文化会館ホールも、東京芸術大学も、みなみな「寛永寺」だったことになる。すごいねえ。

 やがて東京国立博物館前に出る。この向かって右手に寛永寺があるのだが、「輪王寺(りんのうじ)」の幟が何本も立っている。

それほど大きな寺ではない。はて、これはなんだろう?寛永寺ではないのか。

 上野の山全体が寛永寺(の境内)なのである。輪王寺は寛永寺の本坊の一つにすぎないのだ。それでは寛永寺はどこにあるのか?何だかややこしくなってきたぞ。もっともっと歩いてみなければ。

 もっともっと北へと歩いて行く。もう鴬谷の駅が見える。駅の方へは行かずに、左の道を行く。左側は国立博物館の裏庭の散歩道になっており、閑静な趣だ。右側には霊園が続く。葵の御紋が付いている。

 

 すると重要文化財指定の山門が二つ現れる。うち一つは伽藍も従えた大きな寺である。将軍綱吉の時代に建てられたと記してある。

 ああ、これも全山三十六坊の一つにすぎなかったのか。寛永寺は本当にどこにあるのか。

 

 まず、輪王寺って何か?輪王寺は日光にある天台宗の寺院なのである。天海僧正が寛永20(1643)年に没したあと、後を継いだ公海は後水尾天皇の皇子、尊敬法親王(そんぎょうほっしんのう)を迎えて、寛永寺の権威を不動のものにした。尊敬(のち守澄と改名)は承応3(1654)年に公海に代わって寛永寺貫主になるとともに、天台座主に就任、さらに輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号を勅許された。

 こうして輪王寺の門跡(もんぜき)、つまり一門の僧侶たちが三山(輪王寺、寛永寺、延暦寺)を統括し、幕藩体制を護持する寺院の頂点に立つことになったのである。

 この霊園の向こう、つまり表側に寛永寺はある。東京芸大音楽学部の奥である。さすがに大きな寺だ。根本中堂だけでもこんな風格だ。

 ようやく見つけた。

 

 明治新政府は寛永寺から寺領のほとんどを没収し、官有地とした。明治6(1873)年には公園に定められ、博物館、美術館、動物園、図書館が設けられたのち、大正13(1924)年から東京府の所管(恩賜公園)となった。

こうして歴史をたどってみると、寛永寺もまた江戸の亡霊地のように思えてきた。

 

 今日は暑くて、疲れて…早く鴬谷駅前に下りて、居酒屋で冷えたビールを一杯やろうぜ!

 

<2012.08.21>

第43回〈江戸の水道〉

 JR御茶ノ水駅を下りて、御茶の水橋上から東を眺める。

 神田川にかかる下部アーチの美しい聖橋が見える。その下をわずかに地下鉄丸ノ内線が通っている。

神田川は、正しくは上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流の新宿区舟河原橋から両国橋までの約6キロを神田川と呼ぶ。

 この御茶の水橋から見える深い谷は、本郷台と駿河台の間を掘削して通した人口の川である。今の季節、新緑におおわれて、まるで自然の川のように見えるけれど。

 今日はこの橋をわたって、東京都水道歴史館を訪ねてみる。外濠通りから順天堂医院の角を右折して、二つめの角を左に曲がったところにある。以前、〈鎮魂〉の回で、本郷の興安寺に大黒屋光太夫の墓をさがして得られず、その帰途に見つけた屋上庭園があるところだ。ただし、反対側の正門から入る。

 1Fが近現代水道、2Fが江戸上水の展示で、順路が2Fから先に見るようになっている。

 見どころは色々あるのだが、まずは木や石でできた樋(ひ)で張りめぐらされた江戸の上水道の発掘遺構だろう。

 石造りの樋は屋上庭園にある。

 江戸という都市の膨張に合わせて掘削された数々の上水路の電光地図も、見ているとその規模の大きさに呆れてくる。

 個人的には、江戸の長屋の様子が再現されて、庶民の暮らしと上水のつながりが分かる一画の、あたかも人が住んでいるような雰囲気が気に入っている。

 江戸時代の長屋は、他にも再現されている資料館がいくつかあるが、こんなに生活臭が漂ってくる展示のところは、多分、深川の江戸資料館だけだろうが、残念なことに二度訪ねて行っていずれも休館(工事中)だった。今度、訪ねてみよう。

 江戸の水道といっても、下水道は完備していなかった。上水道も先にあげた木樋を使って町々に給水していたので、現在のように各家庭に配管されて、蛇口をひねると水が出てくるというわけにはいかなかった。

 上水井戸というものが町内に造られていたのである。

これは木樋を通して送られてきた水を井戸状の桶にためて、そこから汲み上げて、そこで炊事や洗濯に使い、各家庭に運んで甕や壺にためて飲料水に使っていたのである。

 下水道が完備していなかったから、汚水は容易に地中に浸みこんだだろう。上水道も木樋で送られたから、継ぎ目をいかに巧みに埋めたとしても、つねに伝染病の発生と蔓延の恐怖と隣り合わせであった。

 コレラ(虎列刺)が最も恐れられた。この伝染病はもとインドの風土病であったが、アジアの植民地化が進んだ19世紀初頭から諸国に蔓延した。

 日本では文政5(1822)年に初めて流行した。安政期にも大流行したし、明治期に入ってからも明治10(1877)年、明治19(1886)年に大流行している。外国から入ってくるものに対する検疫体制が不備だったからだ。

 いやいや、伝染病のことを書くのが目的ではなかった。江戸の水道のことだった。

 徳川家康の入府以来、膨張をつづけて人口が増大し、ついには百万都市になる江戸には、飲料水としてだけでなく、消防用水としても、つねに多量の水道水が必要とされた。

 だから、江戸時代、これほど大規模な上水と水道が張りめぐらされていたのだが、今となっては発掘された遺構にそれが偲べるだけである。

<2012.07.03>

 

 

第42回〈田原町駅の芸能紋〉

 何度も乗り降りしていながら、この駅の構内にこんなものが飾られているなんて知らなかった。しかも、20種以上も。

 地下鉄銀座線田原町駅の構内、ホームの両側の背後壁に飾られた「芸能紋」である。銀座へ向かう方が上りなら、その上りホームの中程に説明板がついている。

  田原町駅 芸能紋

  昭和2(1927)年12月30日

  地下鉄上野―浅草間開通を記念して、浅草への玄関口としてデザインされたもの。

  今井早大名誉教授のデザインによる。

 まず、ご覧いただこう。歌舞伎座、帝国劇場など劇場の紋から。

帝国劇場は能の翁の像をシンボルマークにして屋根の上に設置しただけあって、芸能紋も翁の像である。不思議なのは、浅草にある(あった)劇場のものは一つもないことだ。

 次に、清元・常盤津などの太夫の紋。清元延寿太夫のものだけ。私には清元と常磐津の区別がつかないのだが。

 それから、歌舞伎役者、新派役者の紋が、私には前後の脈絡なく掲げられている。歌舞伎役者にはあったろうが、新派役者にもあったというのが意外に思われる。

 東京帝大英文科を卒業した小山内薫が座付作者となった伊井蓉峰、女形で知られた河合武雄、喜多村緑郎と続く。

 歌舞伎役者の紋も紹介しておこう。でも、とても全部は載せられない。千三屋君に「いい加減にして下さい」と叱られそうだ。

 でも、市川団十郎、尾上菊五郎、市川左団次、坂東三津五郎。

 本当に好い加減にしとこう。

 先の説明板で目を引いたのは「浅草への玄関口として」という一節である。浅草駅ではないのだ。芸能のメッカであった浅草六区へ行くには、田原町駅の方がはるかに近いのである。

 大正12(1923)年の関東大震災の前には、凌雲閣(十二階)だけでなく、パノラマ館、電気館(活動写真)など娯楽にあふれていた。浅草オペラと呼ばれた和製歌劇も全盛期は震災前である。

 どうしてそんなことを思い出したかというと、地下鉄が開通したのは昭和2年で、その頃の浅草六区興行街はどんな具合に繁盛していたのだろうと思ったからだ。

 興行街を浅草六区と呼ぶのは、浅草公園を東から一区二区と分割して行って、最後の六区に当たるから。明治6(1873)年に浅草寺境内を中心に公園が設置され、その後、一区観音堂、二区仲見世、三区伝法院、四区木馬館一帯、五区花屋敷一帯、六区興行街に分けられたのだが、昭和26(1951)年に廃止されたのだという。つまり、昭和戦前までの呼称が、六区だけは習慣で残ったわけだ。しかし、区画が意外に具体的なので驚いた。

 さて、田原町の町名について調べるのに手こずった。例の「地名辞典」にも出てこないのだ。何とブリタニカ国際大百科事典(電子辞書)に出ている。それによると、

  台東区東部の旧町名。東京地下鉄銀座線田原町駅にその名が残る。下町の商業地区の一部で、浅草観音や六区娯楽街への入口。江戸時代、浅草寺領の水田地区にちなむ「田原」が地名の起源。

 田圃だったんだねえ。そういえば、吉原が日本橋から移ってきた時も、周囲は吉原田圃といわれて、田んぼに囲まれていたのだった。

 これも今ではとても想像することすらできない事柄である。

<2012.05.26>

第41回〈府中の高札場〉

 この黄金連休、前半は翻訳原稿の校正、谷間は授業があって、ようやく仕事が片づいた最終6日、隣町の府中へ行ってみることにした。

 古い、古い大國魂神社の祭礼「くらやみ祭り」をやっているので、参道の両側に大量の露店が出て、参拝客でごった返している。人ごみは嫌いだから、門前の旧甲州街道を右(西)へ歩く。

 確か、すぐ近くに江戸をしのばせる高札場(こうさつば)があるはずだ。時代劇によく出てくる、お触れなどを記した立札を連想するが、そんなちゃちなものではなかった。

 旧甲州街道と鎌倉街道が交差するところ(辻と言った)に大きな高札場がある.

 

  向かい側の酒屋の壁に説明板が設置されている。

  「札の辻と問屋場跡」

  甲州道中と鎌倉街道が鍵の手に交わるところに高札場があったところから、この界隈  を「札の辻」、「鍵屋の辻」と呼び、親しまれていた。…高札場の隣地は問屋場(宿駅)であったため、大道芸人の辻芸を楽しむ人々などで賑わい、武蔵府中の中心として栄えた。

 問屋場跡地は祭りなので、今日は幕が張ってある。

 いくら安政6(1859)年の府中宿大火災にも焼失を免れたとはいえ、よくぞ残っているものだ。

 高札場とは、法度(はっと)、掟書き、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い市場、辻などに掲げた板札のこと。庶民の間に情報を徹底周知させるために掲げたもので、これを掲げる場所を高札場といった。

 高札そのものは中世末期からあったもので、明治3(1870)年に廃止された、とある。

 江戸には日本橋を始め35ヶ所の高札場があったという。ここに6枚ぐらいの高札が掲げられていた。時代劇のワンシーンとずいぶん違うなあ。

 私はどんな内容の高札が掲げられていたのかが気にかかる。現代の交番前に張り出された指名手配写真とは同じではあるまい。もう少し調べてみたくなった。

 高札とは、江戸時代に幕府や藩が法令を板札に墨書して高札場に掲示したもので、石垣や矢来で囲ったものものしいものだった。掲げられた高札には、切支丹の禁制の他、親子兄弟夫婦の忠孝や倹約を説いたもの、博奕の禁止、毒薬・偽薬の売買禁止、偽金銀の禁止、徒党を組むことの禁止、その他、火付け犯の逮捕、火災の際の対応など、多岐におよんだ。

 高札場の日常的維持と管理は、町・村役人の職務とされ、書き換えの際には領主側が墨書するものの、費用は町や村が負担することになっていた。

 またしても行政現場では町人階級への負担押し付けになっていたわけだ。江戸時代のお決まりのパターンだ。

 面白いのは、高札の廃止をめぐる顛末である。

 先の説明板では、明治3年に廃止されたとあった(都教育委員会)が、そんなに簡単にはいかなかったようである。

 明治政府は、いったん幕府の高札を撤去させることで、新政府の誕生を誇示しようとした。だが、慶応4(1868)年、代わりに出した五種の高札は旧幕府のものをほぼ踏襲しただけで、その中にあった「切支丹の禁制」が諸外国から強い抗議を受けた。そのため、高札という法令告知の方式そのものが、明治6(1873)年に廃止になったのだという。

 その経緯(いきさつ)を知ってみれば、今、目の前に建っている高札場がよくぞ現代に残っているものだと感慨が深くなる。

 というのも、昨年、ロシア正教の宣教師ニコライの日記(全3冊)が岩波文庫で出て、訳者中村健之介の「宣教師ニコライとその時代」(講談社現代新書)をよんで、この「切支丹の禁制」が廃止になってようやく布教ができるようになったことを知ったからだった。

 今回はわれながら、お勉強が過ぎている。

 

<2012.05.17>

第40回〈君はいま駒形あたりほととぎす〉

 4月8日、桜満開の日曜日とくれば、花見客でごった返しているのが当然の、浅草は隅田公園。わざわざ散歩に出かける人の気が知れない? いえいえ、待乳山聖天(まっちやましょうでん)の辺りで人ごみはなくなるので大丈夫。

 今回の散歩は〈習慣〉の回で書いた、「その他の花魁の墓にも詣でてみたい」を実行に移すことに。行先は春慶院という東浅草二丁目にある浄土宗のお寺。

 ここに高尾太夫のお墓があるはずだ。

 地図は頭に入っているが、実際の道路は感覚がかなりちがっている。山谷堀公園を横切るが、ここも今日は宴を張っている花見客(多分地元の人々)でいっぱいだ。

 吉野通りを北へ行く。何だか見覚えのある通りだと思ったら、以前、南千住から浅草まで歩いた道を逆に歩いていることに気がついた。

 なぜ気づいたかというと、道路左側に金太楼という寿司屋があって、立ち食い店の方はにぎり一人前500円と書いてあったのが記憶に残っていたからだ。入ってはみなかったのだが。

 この寿司屋の角を左に曲がり、一つ目の角を右に曲がると目ざす春慶院が見えてくる(写真)。

 

 こぢんまりとしたお寺で子育て地蔵尊が有名らしい。花魁の墓にはそぐわない雰囲気だなと思いながら境内に入る。右手奥が墓地になっていて、その入口左に一見してかなり古びを帯びた墓があって、これが高尾太夫のお墓だとすぐに分かった。台東区教育委員会の説明板が建っている。よくぞ建ててくれました。(写真)

それによると、新吉原の妓楼三浦屋の花魁が代々名乗った太夫名高尾の二代目で、通称「仙台高尾」の墓だという。卒塔婆に戒名が墨書してある「転誉妙身信女」。意味ありげな戒名である。墓石の右側に次の俳句が彫ってあるのだという。

  「寒風にもろくもつくる紅葉かな」

 三浦屋について「地名辞典」で調べてみよう。

 「三浦屋 台東区千束四丁目

 吉原京町一丁目の妓楼。三浦屋四郎左衛門。仲の町から京町一丁目通りへ入って右側。宝暦6(1756)年頃廃業するまで、吉原第一の妓楼で、大三浦と呼ばれ、四郎左衛門は吉原惣名主をつとめていた。」

 不思議な遊女屋(妓楼)である。廃業した理由については一切不明で、一説には最後の四郎左衛門は武芸を好み、自宅に道場まで設けて、同好の連中に指南するほどの腕だったとか。娼家の賤しさを恥じて廓(くるわ)を去ったのではなかろうかという。

 三浦屋には高尾の他に小紫、薄雲という名の太夫がいたと書いてある。

 二代目高尾が「仙台高尾」と通称されるのは、仙台藩三代目藩主伊達綱宗に愛され、落籍されそうになった時、「廓の女は金ではござんせぬ」との名台詞を投げつけたからだという。

 だが、正確なところは分からない。台東区の説明板には「忘れねばこそ、おもい出さず候」との言葉が書いてある。「あなたを決して忘れないからこそ、思い出さないのでございます」という意味だろう。

 「廓の女は金ではござんせぬ」云々は後世の伝説で、いくらなんでも仙台藩主が吉原の花魁を落籍するわけにはいかなくて、泣く泣く別れなければならなかったのだろう。

 そう考えてみれば、今回のタイトルにした仙台高尾の俳句は、その別れの日に詠んだと解することもできる。

  「君はいま駒形あたりほととぎす」

 駒形の地名は、ほととぎすの鳴声「コマカタ」からできたという説もあるのだそうだ。

 最後に、説明板にこうあった、「この墓は仙台藩の依頼を受けて建てられたとの言い伝えがある」。いいねえ。

 再開第一回の散歩、満足でした。都バスで帰ろう。

<2012.04.21>

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