能楽師からの招待状

『降っても晴れても』菅沼愛子著・幻冬舎ルネッサンス

9月24日から9日間、アメリカ・シアトルへ公演に行ってきました。

親戚で先輩の武田宗典さんが、シアトルのアクトシアターから招聘を受け、私もそのお手伝いの為に参りました。招聘といっても資金が潤沢ではなく、現地のスタッフさんが多くの寄付をつのり、今回の公演が実現できたのです。

 

シアトル公演の最終日、スポンサーの皆様への感謝の意を込めた打ち上げがありました。

そこでシアトルで不動産会社を営んでおられる菅沼愛子さんにお会いし、お話する機会を得ました。

とても素敵なご婦人で、その半生がつづられているのが、本書です。

 

菅沼さんは、30数年前、ご主人の海外赴任のためシアトルへ来られましたが、数年後そのご主人がなくなってしまいます。

お二人の間には、生まれつき左手が不自由な幼いお子さんがおられましたが、

「息子にはアメリカで骨を埋めさせてほしい」

というご主人の遺言を実現すべく、ビザ取得のために、たった一人で起業されました。

アメリカ移住当時のご苦労や、ご主人を失った悲しみ、育児のこと、黒人の少年に狙撃されるなど、想像を絶するあまたの苦労を乗り越え、なんと「ワシントン州不動産協会」の「トップエージェント1%」として表彰されるまでになります。

挫けてしまいそうな苦労が続きますが、文章は悲壮感には覆われておらず、つねに明るく前向きです。

アメリカで唯一、日本人が経営する不動産会社だと言われても、うなづけます。

 

私がお会いしお話した時も、

“人生ではどんな時もパニックにならないことが一番大事”

とおしゃっておられました。

その通り、この本では普通の人ならパニックになってもおかしくない数多くの困難を冷静に対処し、歩んで来られたことが伺えます。


私には、とっても尊敬する能楽師の先輩がおります。

先輩とお食事をさせていただいたとき、

“お客様は公演の企画についてくるのではない、能楽師の人柄についてこられる。素敵な人にならなければ素敵な能は舞えない”

とおっしゃられました。

以来、ぜひとも素敵な人になりたいと心がけています。

シアトルでの公演という縁のおかげで、私がなりたいと思う素敵な方にお会いすることができました。

皆様も、ぜひご一読してみてください!

<2014.10.07>


告知:9月13日(土) ワークショップ@福伝寺

能にはよく、月を眺める場面が登場します。

月の美しさに心を惹かれる。

都会の喧騒の中で、日本人が忘れかけている習慣なのではないかと感じています。


昨年度に引き続き、今年度も僧侶と能楽師で、9月13日(土)の晩に月見のイベントを実施いたします。


今年は「井筒」という、伊勢物語を題材にした秋の名曲を特集いたします。

月を眺めながら恋しい人を待ち続ける女性が主人公です。

翌9月30日は中秋の名月といい、古来から月が最も綺麗な晩とされています。

ご来場の方に、友人の僧侶の指導のもと、月を観る瞑想を体験していただきます。

さらに月見団子をみんなで食べて、月を詠んだ謡や仕舞(能の一部)をご覧いただきます。


瞑想における月の捉え方と、能楽に謡い込まれる月の美しさには、意外な共通点も見つかりました。

この点に関しては当日の、月にまつわるトークセッションでご紹介します。


 


場所は、八王子駅徒歩五分、真言宗の福伝寺本堂です。

参加費は1500円。 


お申し込みの方は、The-sweet-party@hotmail.co.jp 武田祥照までご連絡下さい。

皆様のお越しを心よりお待ちしています。

<2014.08.25>

告知:8月30日(土)「高砂」@観世能楽堂

こんばんは。

武田祥照です。

皆様はいかがお過ごしですか?

東京は猛暑、各地では大雨と気候変動が相次いで起こっております。

皆様の息災とご無事を祈念しております。

舞台が決まりましたので、お知らせ致します。


演目 能「高砂」

8月30日(土)13:00開演

場所:観世能楽堂 


「高砂」という演目で、シテ(主役)を勤めさせていただくことになりました!

3月の歩行の記事でとりあげた、神様の演目です。

世阿弥は「風姿花伝」の中で、


「そもそも藝能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと。寿福増長の基、遐齢延年の方なるべし」


と述べ、藝能が人びとを幸せにするためにあることを高らかに述べています。

この度「高砂」を上演し、いらして頂けるお客様を幸せにするような舞台にしたいです。


ご興味のある方は、下記までお便り下さいませ。

作品、舞台の解説の冊子を添えて、チケットをご用意させて頂きます。


The-sweet-party@hotmail.co.jp 武田祥照まで。

<2014.08.24>

3月11日に思うこと。

 2011年3月11日から今年で3年を迎えました。あの日、東京の自宅に居た私は、初めて体験するものすごい揺れに恐怖を覚えました。まして被害が甚大だった東北の方々の恐怖は計り知れないものがあったのではないかと思います。
 犠牲になられた方のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

 先日、私の高校の先輩でもある僧侶が仲間と一緒に石巻に慰霊法要に行かれたそうです。一昨年の冬、私もその先輩と一緒に石巻に行き、大川小学校を訪れました。大川小学校は多くの児童が津波の犠牲となり命を失った場所です。がれきはほとんど撤去されて、辺り一面が更地となったところに小学校だけがありました。訪れた時、衝撃と悲しみが入り交って言葉を失い、涙が止まりませんでした。
 
 帰りの車中、自分には何が出来るのだろうか、残された者の責務を深く考えました。より良く、充実してベストを尽くして“今”を生きる義務が私たちにはあるのではないか。
 そして私とは何者かを問うた時、私は能楽師だと思いました。人間として、能楽師として、全力で“今”を生きる義務が残されたものにはあると思います。

 

 今年、私は8月に「高砂」という演目のシテを勤めさせていただきます。「高砂」は阿蘇の宮の神主が高砂の松という名木を訪れた時、老夫婦が現れ、四季を通じて色の変わらない永遠の象徴である松の徳を讃え、後半住吉大社の神が現れ、世の中が幾久しく泰平で平和であることを寿ぐ内容の演目です。

 

  能には神様が登場し、御代を寿ぐ内容の曲が十数曲あります。それらを総称して、神物、初番目物或いは脇能などと呼びます。そうした神物の多くが世阿弥作で、世阿弥が確立した分野の演目と考えられています。しかし、現代では、神物は総じて内容もあまり劇的ではなく、儀礼的な側面が強いので上演の機会が少なくなっています。
 しかし、世阿弥の生きた中世という時代を考えるとき、神物の意味が変わってくるのではないかと思うのです。中世は天変地異や疫病が流行り、政情も不安定でした。そうした中で、五穀豊穣や天下泰平は人々の切なる願いだったと思います。

 あの日が来るまで、私は明日が来ない日は無いと思っていました。しかし、あの日は多くの人々の大事なものを奪い、残された者に傷と強いメッセージを残しました。
 あの日を経験したからこそ、祈りと意味、心をこめて「高砂」を勤めたいと思います。

<2014.3.14>

 

『Like a KIRIGIRISU “保障のない人生”を安心して生きる方法』を読んで

みなさま、あけましておめでとうございます。

武田 祥照です。

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

今回も書評を書きます。

年末に、高校時代の同級生から、恩師伊藤氏貴先生が自己啓発本を出版されたという情報を入手し、早速取り寄せて読んでみました。

 

伊藤氏貴先生は日本大学で藝術学を専攻されたのに、なぜか、私の母校では英語と小論文の授業を受け持っておられました。とても博学なので、授業はいつも横道にそれてゆき、英語と同じくらい、或いはそれ以上に大人な雑学を勉強しました。

高校卒業からほぼ10年が経った今では、そうした雑学(雑談?)の時間の方がとても鮮明に残っています。

 

氏貴先生は抜群に頭が切れるのですが、その一方でとても気さくなキャラクターで、生徒から尊敬されながらも、非常に近しい先輩のような心情を抱かせる先生でした。

 

さて、そんな先生が自己啓発本を書かれました。

教え子からすると、先生の自己啓発本なんてちょっと可笑しい気もしますが、読んでみると、分かりやすく世の中を分析し、今後社会に出てゆく若者が考えるべき道とは何かが明快に書いてある本でした。

 

本書は、昨年だけで先生の教え子が二人自殺されたという事が出発点になっています。

先生がそのお二人から見出された共通点は、性格が真面目過ぎ、この保障の無くなった世の中に希望が持てないという不安です。

 

イソップ物語の「アリとキリギリス」というおとぎ話に登場する“アリ”的な生き方が良いとされてきたものの、今ではそこに限界が来ているのではないかというのが先生の主張です。

この種の童話には必ず教訓が含まれていますが、時代と共に物語は変化し、その教訓が変わってくることもしばしば見受けられるそうです。

この「アリとキリギリス」というお話も、イソップ物語からヨーロッパ北部の民話を経て、ディズニーで取り上げられ、その都度書き換えられ、現在に至っています。

 

“アリ的な生き方”が必ずしも幸せをもたらさない現代社会でこそ、再び「アリとキリギリス」の物語を書き換え、“キリギリス的な生き方”から学ぶべきではないかと言います。

 

この本では、黒田硫黄、吉見鉄也、湯浅卓、枡太一、冨士川祐輔などの5人の人生の先輩のインタビューとともに、終末部を改変した5種類の新しい「アリとキリギリス」の童話が掲載されています。

その童話の着眼点が面白く、自然とそこから導き出される人生論に引き込まれてしまいます。

 

将来が不安な若者に、ぜひ一読をおすすめいたします。!

<2014.1.28>

 

 

 

書評『宴の身体』松岡心平著・岩波現代文庫

 WEB『歩行』編集部・千三屋さんの依頼で、『宴の身体』の書評を書きます。

松岡心平氏は、東京大学の教授で、観世のご宗家とともに現在は上演の途絶えてしまった演出や演目の見直しなどもなさっている能楽研究の第一人者です。

本書は1980年~90年の間に発表された著者の論文を一冊にまとめたもので、能楽が大成するまでに世阿弥が経験した“大きな二つの脱皮”がテーマになっています。

 

平安末期から鎌倉時代を経て室町時代に至るいわゆる“中世”は、踊念仏や平家琵琶、曲舞、白拍子などの雑多な芸能が乱立する芸能豊かな時代でした。その中で能楽に観阿弥・世阿弥というスーパースターが現れ、同時代の芸能を吸収し、発展した能楽が一大ブームを巻き起こします。その後、評判を聞きつけた時の将軍・足利義満に、観阿弥・世阿弥の親子は認められ、世阿弥は武家・貴族との親交と援助を得て、能楽の礎を築きます。

都に流行った種々の芸能は河原乞食と蔑まれた賤民の役割でした。しかし、観阿弥・世阿弥の親子の登場により、才能と努力とその美貌によって出自を越えて、将軍の寵愛を得るに至ります。これが本書の一つ目の脱皮です。

 

二つ目の脱皮は、世阿弥の芸に関するもので、元来、能楽以前の芸能はアクロバティックなものが多く、世阿弥の居た一座も“鬼の能”などを得意としていたようです。しかし、世阿弥はそこから次第に脱し、晩年に至っては“動かない”芸を確立していきます。たとえば、世阿弥作と推定されている『井筒』は伊勢物語二十三段を主題にした演目ですが、主役は舞台中央でじっと座ったまま、地謡というコーラス隊が井筒の女と業平の恋物語を謡い上げます。初めて能を見るお客様から「寝ても覚めてもシテが動いてなかった」と揶揄されることがありますが、アクロバティックな芸から脱皮した、新しい芸だったのです。

 本書の冒頭に、

 

「足が利くのが自分の欠点だと告白する世阿弥は、本当はアクロバットの得意な役者であった。アクロバット的身体のうずきを自らのうちに感じつつも、世阿弥はむしろこれを自虐的に抑えつけることにより、「動かない」身体をつくり上げた。

 世阿弥の内でせめぎあう二つの身体、それは、中世の二つの文化の衝突であり、二つの美意識の確執でもあった。」

 

とあります。中世の二つの文化の衝突を詳細に描き込んだ部分は興味深い指摘で、面白く感じられました。

 

 正直な感想を述べれば、独立した論文11本を集めた構成になっており、一冊の本として見れば、それぞれの章の関連が薄く感じられましたが、著者が取り上げる一つ一つの中世的な文化・風俗(一遍が創作した踊念仏、華奢を好んだバサラ、連歌、夢幻説話、勧進芸能、稚児愛玩など)が世阿弥と能楽へと流入していく過程を詳細に考証していく本書は、今の能楽を見直す上で、欠かせない一冊だと思います。

 <2013.10.24>

<告知>ワークショップ@福伝寺 9/21(土)

こんにちは!

まだまだ暑い日が続いておりますが、いかがお過しでしょうか?

 

私が小学生の頃、今から15年ほど前は30度になるのが暑い日という認識でしたが、今では35度が続き、40度にも到達する日が出てきました。

 

月並みな言葉になってしまいますが、日本には四季の変化に富んだ一年のサイクルがあります。元旦から始まって、立春・立夏・立秋・立冬、その間に彼岸や盆など季節ごとに節目があり、各地でその節目を迎える風習が残っています。

 

しかし、都会に住む現代人はなかなか季節を楽しむゆとりが少なくなってきました。また、バレンタインやハロウィンという外国の季節のイベントにも圧倒されてしまい、日本の風習がどんどん失われています。

 

そんな危機感から、昨年よりお月見の催しを始めました。

中秋に月を愛で、優雅な和のひとときを感じていただこうという趣向です。

 

真言宗の僧侶である原祥壽さんと、八王子の福伝寺にて、9月21日(土)の夜に、行います。

第一部は、原祥壽さんの指導のもと、“月輪瞑想”という瞑想体験をし、休憩に月見団子を食べます。

第二部では、私が月に関するお能のワークショップを行います。

 

お能では、月に心を寄せる演目が多く、昔の人がいかに頻繁に月を見上げ、物思いにふけっていたのかがわかります。現代の方にも、この感覚を、瞑想とお能を通して味わっていただきたいと強く思っております。 

参加費は一般1500円です。

 

申し込みは武田祥照(The-sweet-party@hotmail.co.jp)まで。

ご連絡お待ちしています!

<2013.09.05>

第五回 面(おもて)について

 みさなま、こんにちは!

 久しぶりになってしまいました。

 武田祥照です。

 

 8月10日に浦和の読売カルチャーセンターで、一日限りの体験講座「親子能教室」と「大人の能講座」を行います!

 親子教室は、能のすり足や謡いを楽しく体験してもらうことで、能に親しんでもらおうという内容です。

(詳細はこちらをご覧ください→読売カルチャーセンター「子供の能教室」「大人の能教室」ともに8/10土曜日です)

 大人の能講座は、面打ちの方のご協力のもと、実演を通して“面”の特集をいたします!

 

 能は仮面を使った芸能で、私たちは面(おもて)と呼びます。

 よく一般の方に“めん”と言われてしまうのですが、広辞苑でも、

 

「仮面。おもてがた。特に、能面。」

 

とあるように、面は能楽師にとって非常に重要な道具なので、“めん”ではなく、“顔”と考えて“おもて”と呼び表すのだと思います。

 

 世阿弥の著作にもかなり、面に対する記述があります。

 ”申楽談儀”の中には、一座にて所有する面の名前、また名人と言われる能面師の名について言及しておりますし、また、『風姿花伝』の”神儀云”には、申楽の起源の一つとして、聖徳太子が天変地異を鎮めるために、六十六面の面を作り、秦河勝に命じて物まね・神楽をさせたことに由来するという記述があります。

 もちろんこの起源自体は伝説ではありますが、面は能の発祥から、ずっと着けて演じられてきております。能装束は絹でできているので、耐久年数がおよそ百年程度ですが、面は室町期に遡るものも多く現存し、今でも舞台に使用されているのです。

 

 能において、面を着けるという行為が変身・憑依を意味しており、二五○番ほどある演目の、非常に多くの演目で面を付けます。 

 一部の例外はございますが、生きている男性の役以外はほとんど面を付けております。つまり、 女性全般(幽霊でも、劇中で生きている役だとしても)・幽霊の男性・尉・姥・鬼・神などの役ですね。

 

 面は室町期の名工も多数いるのですが、江戸初期に頂点を迎えたとされています。

 非常に多くの傑作ができ、それに伴って模作もできましたが、実にさまざまな面が生まれ、そこを基準に、分類なども整備されていきました。

  

 渋谷を歩いていても、人の顔が一人として同じ顔が居ないように、面も同じ種類の名前がついていたとしても、模作だとしても、やっぱり少しずづどこか違っていて、眺めるほどに色々な顔があると気づきます

 演者は曲目に合わせて、面を繊細に選び、自分の気持ちをそこに載せて、舞台にたちます。

 自分の思いを任せることができる面を、数ある顔の中から選び出すのです。

 <2013.08.05>

〈告知〉「船弁慶」公演情報(2013年6月8日)

こんにちは!

春も半ばになってまいりました。ちらほら風邪を引く方も周りには出てまいりました。

 

さて、今度68日(土)に、能「船弁慶」を勤めます。

能「船弁慶」は二五〇番ほどある演目の中でも大変分かりやすくドラマチックなので、屈指の上演回数を誇る人気曲です。

しかし、若手の能楽師にとっては大きいお役として大曲(たいきょく)とされます。今まで勉強してきた集大成をお見せする覚悟で勤めたいと思っております。

 

「船弁慶」は義経の伝説を題材にした演目です。

平家追討を果たすも、謀反の疑いをかけられた源義経は都を落ち、西国へ逃げます。その途中、逃亡の障りになると、義経の愛妾・静御前を置いて行くことにし、泣く泣く静御前は義経と別れます。

その後、船乗り込んだ義経一行は、西海で沈んだ平家一門の幽霊に襲われ、西国行きを諦め、陸路へ奥州藤原を目指すことになります。

 

私の演じるシテ(主役)は前半、静御前を勤め、後半では平知盛の幽霊の役になります。

能では、前半と後半でシテの役どころが替わるのはとても珍しいで、二曲分の大変さがあると言われます。

 

当日は三番立てで、初番が「清経」・二番目が「半蔀」・三番目が「船弁慶」です。

1時開演ですが、「船弁慶」は4時半頃から1時間30分程度の上演時間を予定しています。

チケットは一枚五千円で全席自由席です。

 

能楽鑑賞経験の少ない方にも、オススメできる演目です!

これを機に、お能の世界を覗いてみませんか???

 

 

また、どーしてもいきなりはちょっと、、、とためらうようでしたら、先輩能楽師・武田文志さんと「義経一行の悲哀」と題し今回の事前講座を5月19日(日)に行うことにいたしました。

使用予定のお装束等展示し、当日の「船弁慶」が二倍楽しめると思います。

 

 お申し込み、お問い合わせは私・武田祥照(the-sweet-party@hotmail.co.jp)までお願いします!

 

第4回 善知鳥(うとう)

お久しぶりになってしまいました。

 

この間、「善知鳥」という演目の地謡を頂戴し、謡ってまいりました。

 

ちなみに、地謡というのは、8人で斉唱するパートを言い、客席から見て舞台の右側に座ります。登場人物の心情や、舞台となる場所の風景などを謡います。

 

善知鳥とは鳥の名前で、その鳥を捕る猟師の幽霊が主人公となる演目です。猟師は殺生を続けた咎により地獄に落ちて責め苦を受けているのを助けて欲しいと、現世に幽霊として現われて、僧侶に成仏を願うという話です。

 

その地謡を謡った日に、丁度父も空いていたので家族で千葉に一泊旅行に参りました。

千葉では母のセレクトにより、とても落ち着いた和風旅館に泊まったのですが、夕食には近海でとれたという伊勢海老のお刺身が出てきました。

伊勢海老はまだ動いていてとても新鮮で、美味しかったのですが、、、同時に「善知鳥」の謡ったその日に食べるお刺身にとても考えさせられました。

 

「善知鳥」の猟師の幽霊は、「士農工商の家にも生まれず、琴碁書画を嗜む家にも生まれず」とその中で嘆いています。当時、職業選択の自由など無かったと思います。

しかし、その運命とも言える、猟師であるという罪で彼は地獄に落ちてしまうのです。

 

まだ動く伊勢海老のお刺身を食べ、私は、人間という生き物が他の生き物を殺し、その犠牲の上に生きているんだということを、改めて認識しました。

 

伊勢海老を食べながら、善知鳥の猟師の姿は猟師という限定された者の話ではなく、私たち人間の話として捉えるべきなのではないかと強く思いました。

 

そして、もう一つ思い合わせることがあります。

 

能は昔、武家という特権階級の藝術でありました。

「善知鳥」が具体的にいつ誰が作ったかということは定かではありませんが、、その特権階級に、この演目を作り、最下層の苦しみを見せるという、この能の作者のすごさを思わずにはいられませんでした。

 

 

第3回 『夜と霧』と能

最近『夜と霧』を読みました。

戦時中、ユダヤ人の心理学者で著者である、フランクルが強制収容所に入れられた時の、人間の心理を書いた作品です。

今まで戦争の話はあまり好きではなく、ほとんど読んだことがなかったのですが、本屋さんで平積みになっているのを、ふと手にとったら、離せなくなり、読んでしまいました。

とてもとても感動し、衝撃を受けました。

 

来月、私は26歳になります。

私という人生の物語はどこかの英雄のお話と全然違って、自分はヒーローではなく、迷いに迷う男の情けない内容になっている気がしています。

 

でも、フランクルは、「ひとりの人間が生きた「物語」はかつてかかれたどんな物語よりも、比較にならないほど偉大で、創造的な業績である」と言っています。

 

能楽には、現在250種類ほどの演目がありますが、おおきく二つに分けられます。

現在物と言って、現実の時間経過に沿ってストーリーが進みます。たとえば、勧進帳で有名な「安宅」などがそれにあたります。

もう一つは、夢幻能といって、霊的な存在が登場し、過去を回想するというような演目です。

 

夢幻能では、霊的存在を扱うので、なんらかの事情で、現世に想いを持った人物が主人公のことが多いです。

 

たとえば、先日、「藤戸」という演目が上演されました。

これは藤戸の先陣として『平家物語』にある話を題材にした能です。

 

源氏の武将・佐々木盛綱は、どうしても先陣を切り戦功をあげようと必死でした。ある夜、地元の若い漁師を手なづけ、地元の人しか知らない地の利を聞き出しますが、その漁師が他の武将に秘密を喋ってしまうのはないかと思い、口止めの為に殺し、海に沈めてしまいます。その後、地の利を知っていた盛綱は見事大功を上げ、後日、恩賞として頂いた土地に入ります。

能「藤戸」はここから始まります。

土地に入った盛綱の前に老婆が現れ、息子を返せと嘆き悲しみます。その老婆こそ漁師の母だったのです。哀れに思った盛綱は漁師の死の様子を語って聞かせ、弔いを約束し、母を慰めます。その夜、盛綱が弔っていると、漁師の幽霊が現れ盛綱を恨みますが、弔いにより成仏出来た感謝を述べて、消えていきます。

これが能「藤戸」です。

 

今までそうした演目を拝見するなどしても、作品としての観点で味わっていました。

しかし、フランクルの本を読んで、作品の枠を超越した、主人公の人生や生き様にも深く観点が広がったような気がします。

 

漁師はなぜ死ななければならなかったのか。

漁師は名前も登場しません。戦に巻き込まれた名も無き、被害者です。

『夜と霧』を読んで以来、理不尽に殺された男の生涯に思いをはせずにはいられなくなりました。

 

「藤戸」を拝見するとき、現実世界では見過ごされてきた、弱者の物語が結晶化されているのかもしれないと深く思いました。

 

また、228日には水道橋の宝生能楽堂で「藤戸」が上演されるようで、お手伝いにお伺いさせていただきます。

 

お能、ご覧になりにいらしゃってみませんか?

 

〈告知〉「熊坂」公演情報(2012年9月18日)

こんにちは。

能楽師・武田祥照です。

暑い日が続いていますが、お変わりありませんか?

 

今度、9月18日(火)の夜に、武田同門会という武田一族・一門の催しで、能「熊坂」のシテを勤めさせていただきます。

シテというのは主役のことです。

 

能「熊坂」は牛若丸に返り討ちにあった大盗賊・熊坂長範の幽霊が登場し、自分の最期の様子を語り・舞う内容です。

長刀を持って暴れまわる演目なので、初めてお能をご覧になる方、能をあまりご覧になった事のない方にもオススメです。上演時間は1時間15分程度です。

 

平日の夜ではあり、開演は16時からですが、私の出番は19時15分からですので、「熊坂」だけご覧いただくのも大丈夫です。

 

この「歩行」を機に、能楽の世界を一度覗いてみませんか?

 

チケットと一緒に特製の解説パンフレットもお付けします。

お能初体験でも安心です。笑

 

会場は、渋谷松濤にある観世能楽堂です。

チケットは全席自由席で、一枚5000円です。

大学生の方は2000円、高校生以下は1000円です。

 

ちなみに、当日は「熊坂」の他、能「通盛」・能「玉鬘」と狂言一番があります。

猛者の方は、最初からご覧頂ければと思います。

 

お申し込み、ご質問のある方は、

武田祥照(ヨシテル)

the-sweet-party@hotmail.co.jpまで宜しくお願いします。

 

 

 

 

<チケット・プレゼント>※受付は終了しました

能楽師・よしてること武田祥照氏出演の能楽公演に、10名様をご招待いたします。

「能楽師からの招待状」をきっかけにお能に興味をお持ちになった方、お能は初めてという方、どうぞふるってご応募下さい。

チケットをご希望の方は、8月31日(金)16:00までにwebhokou@gmail.comまでお問い合わせ下さい。応募の際は、お名前、郵便番号、ご住所、連絡先メールアドレス、年齢(任意)をお書き添え下さい。よしてる氏へのメッセージやご質問も大歓迎です。皆様からのご応募をお待ちしています。

※お一人様一枚のプレゼントですが、ご家族やご友人とのご鑑賞を希望される方はご相談下さい。応募状況によりご期待に添いかねる場合もございますので、御了承下さい。

※応募者多数の場合は抽選とさせていただきます。

※お書きいただいた個人情報は当選チケットの発送のみに使用いたします。

日程:2012年9月18日(火)15時半開場 16時開演

場所:観世能楽堂(東京都渋谷区)全席自由席

演目:通盛(能)

   玉鬘(能)

   熊坂(能)※シテ 武田祥照氏

※詳細は当選された方にご連絡いたします

第2回 白雪姫と能

 先日、ジョニー・デップ主演、ティムバートン監督の映画、「ダークシャドウ」を見に行ってきました。

 その映画の前に、さまざまな新作映画の予告編が流れていましたが、その一つで「スノウホワイト」という白雪姫の映画の宣伝をしていました。渋谷など大きな駅で立て看板になっていたり、地上波の放送でもCMをしているので、ご存知の方も多い映画かと思います。本編は見ていませんが、女王様や魔法の鏡、七人の小人などが登場し、ほとんど童話「白雪姫」にのっとりながらも、白雪姫が戦うシーンがあったり、新しいエピソードが加わっているようです。その映画の宣伝文句も、「新しい白雪姫伝説はじまる!」と売り出していました。

 

 新しい白雪姫伝説その宣伝を見たとき、お能と一緒だなぁと思いました。

というのも、能は現在、現行の演目が250番ありますが、親子再会の話だったり、妖怪退治の話だったりと様々なお話があります。しかし、それらは伊勢物語や源氏物語、平家物語などの先行する文藝を題材とし、そこに室町時代ならではの認識、能独自の解釈などを加えて、として創作されています。つまりちょうど、グリムの白雪姫童話を基にして、現代の解釈を加えて映画「スノウホワイト」が出来たのと同じ工程です。

 

 しかし、お能と一緒だと思ったと同時に、ちょっと残念な気持ちになりました。

新しい白雪姫伝説という文句は、それまでの白雪姫伝説をお客様が知っているという前提の下の宣伝文句ですね。グリムの原作を読んでなくても、多くの人々が絵本やディズニーのアニメなどで、ある程度の白雪姫の話をご存知でしょう。僕も原作を読んでいませんが、だいたいの話は知っています。

ところが、お能はどうでしょう? 

井筒の話、藤戸の先陣争いの話、ご存知ですか?(ちなみに、前者は伊勢物語、後者は平家物語を題材にした演目の話です。)

項羽の話、牛若丸の話など多少有名どころもあるかもしれませんが、光源氏の話、鵺の話、熊坂の話など、今の日本人にとってはとてもメジャーと言えないエピソードが多くなってしまっています。

 

 ただ、これらのエピソードがメジャーではなくなったのは、特に戦後の事なんです。

能の大成者である世阿弥は著作の中で、演目を創作する際の注意点について「詩歌の言葉の、耳近らんを、能の詰めどころに書くべし」など述べていて、馴染みある話、和歌を題材として取り上げるように書いています。

 お能の演目が題材とする話は室町時代的にはメジャーだったと言えるでしょうし、現にお能の演目の多くが、同時代の他の藝能(幸若舞、曲舞、田楽)、或いは室町以後の文化・藝能(歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵など)の題材と共通しているので、近代・戦前までこれらのストーリーは多くの日本人が知っていました。

 

 こうした類の馴染みのある話を何で私たちが知るかというと、原作を読み知っているというよりも、子供の絵本や風習など原作を題材にした二次的な媒体によることが多いと思います。

たとえば、桃太郎の話、かぐや姫の話、イエスキリストの生涯の話など、今私たちにとって有名な話を考えてみると、原典にあたって知っているというよりも絵本や関連した本、テレビなどで何となく知っているという人が多いのではないかと思います。

『竹取物語』の原典を読んで、かぐや姫の話を知った人は少ないでしょう?

これらはお母さんが小さい頃、枕元で読み聞かせてくれたり、その関連した風習、例えばクリスマスやイースターなどの中で少しずつ触れ、話が自分の中で、社会の中で浸透していきます。

 

 今も、特にヨーロッパなど西欧では顕著に見受けられます。たとえば、昔、ヘルマンヘッセの『車輪の下』を読んだとき、その中に詳しい説明もなく「カインとアベルの話」が出てきました。私には何の話か全くわかりませんでしたが、調べてみると、「カインとアベルの話」というのは聖書に登場する話の一つでした。ヘルマンヘッセの想定する読者(つまりヨーロッパ人ですが)は基本的にキリスト教徒なので、いちいち「カインとアベルの話」を説明する必要が無かったのでしょう。数年前に話題になった『ロード・オブ・ザ・リング』なども、円卓の騎士など西洋の童話・伝説を取り込んで作られたと聞きます。

 

 そうして生み出される新しい文化を見るたびに、民族の固有の文化は社会の浸透したエピソードの上に作られているんだなぁと思います。これはとても重要な事だと思います。

 しかし、今、能楽師として色々な方に話をする機会が多々ありますが、そこで痛切に感じるのは、日本文化の土台となるべき日本の話の共通項がみるみるうちに失われつつある事実です。

稲葉の白兎の話、天の岩戸の話、屋島の弓流しの話など、とっても面白く重要な話が日本にもとてもあるのに、どんどん知らない割合が多くなっています。

これらは戦後の日本の欧米した社会状況、家庭環境や教育のあり方の変更にともない、次第に日本のストーリーは減っていってしまったと私は考えています。

例えば、「新しい巴御前の伝説、始まる!」とは、今の日本の状況ではならない訳です。(ちなみに、巴御前とは源氏の武将、木曽義仲の妻で、女武者として戦ったという話があります。)

 

 能は室町時代以後六五〇年続いてきましたが、上演が継続されて伝承されている藝能としては世界最古といえるそうです。能にとって六五〇年という時間の意味は、六五〇年続いているという遺産としてではなく、六五〇年人々を感動させ続けてきているという藝術的な意味であるべきだと私は考えています。題材とするエピソードは古く、今やメジャーではなくても、そこには普遍的な人間の姿が描き出されていて、とも必ず通じていると考えています。能をご覧頂く際に今の自分たちの出来事を考えながら、能をご覧いただけたら、ただの遠く難しい話ではなく、楽しめると思うのです。

 

 ただ、やっぱり、それは武家というパトロンの存在と、日本社会における文化の土台の上に居たという環境の結果も大きいと考えています。日本の話の共通項が失われつつある今、能には試練が待っていると思います。

 

 次回以降、この「歩行」の連載では、失われつつある日本のストーリーを紹介できたらと考えています。

 失われつつあるストーリーと現代とを繋げるような、コラムが書けたら良いなと思います。

 

 このコラムを読んでご意見、ご指摘等ある方がいましたら、ぜひご連絡下さい。

 

 

 

第1回 能楽師の自己紹介

こんにちは。
初めまして。
能楽師・武田祥照(タケダ ヨシテル)と申します。

私は、能楽師・武田尚浩の長男として、昭和62年に東京で生まれ、現在、25歳で
す。私の家は代々能楽師をしており、私も2歳の時に初舞台を踏み、舞台を重ねて、今
は父の下で修行中です。
こう書くと、どんな男なのだろうと疑問に感じると思いますが、たぶんごく普通の25歳です

 

そもそも、皆さんは、“能”ってご存知ですか?
能楽師としてとっても残念ながら、多くの皆さんが日本史か、古典の授業で耳にしたこと
のある程度なんじゃないかなぁと思います。

 

あらためまして確認しますと・・・

能というのは室町時代に観阿弥・世阿弥という親子によって大成された仮面劇で、現在まで上演によって継承されている日本の伝統藝能です。

よく歌舞伎との違いについて尋ねられますが、歌舞伎というのはもともと出雲阿国と
いう女性の踊りから発祥した藝能で、発祥が異なります。
また、能は、室町三代将軍足利義満に認められて以来、武家の藝能として戦国時代、
江戸時代と武士の寵愛を受けました。一方の歌舞伎は、商人たちや町人たちの人気を博
し、主なスポンサーが異なります。
ですから、もちろん、内容や形式も違うのですが・・・それは追々、回を重ねるごと
にご説明することにしたいと思います。

 

ここでは初回なので、この『歩行』に寄稿することになったきっかけをお話しするこ
とに致しましょう。

 

私は大学で国文科を専攻し、そこで同じ国文科の先輩のあんみつやさんと知り合いになりま
した。
僕のゼミは、相撲やラグビー観戦、花見などイベントの多いゼミで、そこで先輩と仲
良くなって、その内に私の舞台等のご案内をお送りするようになったと記憶していま
す。

 昨年、先輩はご結婚され、今年1月のゼミのOB会でご主人さまを僕に紹介してください
ました。
ご主人さまとは初対面なのに、能や演劇の話で二人で盛り上がり、同級のゼミ生から“以前
から知り合いだったの?”と尋ねられるほどに、話し込んでしまいました。
  今年の4月、私が能のシテ(主役の事です)を勤めさせていただく機会があり、ご主人
様がご来場くださり、その数日後感想を述べたお手紙を頂きました。 

  お手紙には、能の詞章の美しさにいたく感動したこと、ぜひこの美しい世界を紹介して欲
しいと書いてありました。

拝読して私はとっても嬉しかったです。
能は、上流階級に愛されたために、かずかずの和歌、伊勢物語や源氏物語といった王

朝文化、平家物語や義経記などの武家文化などを吸収し、作詞・作曲されました。
その詞の美しさ、巧みさ、表現に心を惹かれてくださったようです。

 

私は劇、オペラ、ダンス、コンサートなど能以外の様々な分野の藝術を見に行きま
す。
他の藝術を拝見すると、“おおすごいなぁ”と感動する事もいっぱいありますが、と同
時に、表現のスマートさだったり、舞台上の転換等の処理の問題だったり、役者の体の
使い方だったり、その時によって様々ですが、“ここは能も負けていないな”と思うとこ
ろがあります。

残念ながら、能は宣伝やアピールの方法が苦手で、特に戦後、能は現代の私たちとは
少し離れた世界になってしまっています。

しかし、能が現代の私たちにも通じる普遍的な人間の大事な部分を伝えようとしてい
ると、私は確信しています。
 
  かねがね、能の本丸や内堀といった大事な部分をそのままにしなければなりませんが、
少しでもその“外堀”を埋めたいと思っていました。
  能が“現代と全くかけ離れた遠い世界”ではないという事を、この連載を通して、一人で
も多くの方に分かって頂けたら嬉しいと思っています。

 

  読者の方で、能について疑問等お持ちの方がいらしたら、ご遠慮なくおしゃってくださ
いませ。できる限りの手を尽くして調べ、お答えしたいと思います。

 

以後、宜しくお願い申し上げます。

 

                                 武田 祥照