『歩行』編集部@CLIP:豆字引

レイモンド・カーヴァーとゴードン・リッシュ

……「ニューヨーク・タイムズ」(1998年8月9日付、日曜版)で、D.T.マックスはとんでもない事実を発表した。カーヴァーの作品のほとんどが、ゴードン・リッシュとの合作だったというのだ。リッシュは伝説的な人物で、みずから小説も書くが、「エスクァイア」(1969~1977)の凄腕編集者として何より著名だった。かれのおかげで、「エスクァイア」は「ニュー・フィクション」とよばれる「新しい種類の小説」の発表の場になったと、ラスト・ヒルズも絶賛している。

まだほとんど無名だったカーヴァーやアーヴィング、ジョン・ガードナー、ジョン・バース、さらにはボルヘスや、マルケスといった外国の作家を集めた600頁をこえる『われらの時代の秘密の生、「エスクァイア」のニュー・フィクション』(1973年)を刊行した。

リッシュとカーヴァーとの付き合いは古く、リッシュが「エスクァイア」の編集者になる前からはじまっている。強引な売り込みで「エスクァイア」の編集者になったリッシュは、カーヴァーの「隣りのひと」を掲載した。これが商業誌へのカーヴァーのデビュー作である。

編集者が原稿に手をいれることはべつに珍しいことではないが、リッシュの手の入れ方は改竄に等しかった。マックスによれば、『愛について語るときに我々の語ること』ではリッシュの介入はことのほか激しく、総文章量のおよそ半分が削られ、十三の作品はエンディングが書き直されていた。リッシュがタイピストにあてたメモ「キャロル、話はここで終わる」というメモも余白に残っている。

原稿をつぶさに調べたマックスは大きな発見をした。それは、いわゆる、カーヴァー的な、と世間で了解されている、緊迫した無表情の不気味さは、リッシュによって創り上げられたのだ、と。

1976年、カーヴァーは『頼むから』を刊行し、急性アルコール中毒で四回入院し、妻とは別居状態になる。翌年、全米図書賞の候補になり、酒をたち、二人目の妻となる詩人のテス・ギャラガーと出会う。年譜をみると、『頼むから』の刊行を機に、カーヴァーは人生の再編成をあわただしく始めている。だから、1981年、『愛について』をカーヴァーは出したくなかった。少なくとも、原稿の半分以上を削除された形では。だが、リッシュは出版し、本は大好評だった。

カーヴァーはリッシュに「こんな切断手術みたいな、移植みたいなことはもうたくさんだ」「わたしのよい編集者として手を貸してくれ、わたしの幽霊としてではなく」と切実な手紙を書いた。カーヴァーがようやく開放されたのは、その翌年、『大聖堂』からである。リッシュは、「勝手にすれば」と原稿にほとんど手をいれずに返してきた。カーヴァーは、ただちに、昔書いた詩や直される前の作品を集めた『ファイアズ』と第三短編集『大聖堂』を刊行した。

カーヴァーにはよく知られた謎があった。

ことのほか原稿の手直しに熱心だったり、中身がほぼ同じなのにタイトルが違うものとか、長いヴァージョンと短いのがあったり、後期になると、がぜんセンチメンタルで教訓的になったという謎である。こうした謎を、リッシュとの関係がわかると、判然とする。こうしたことを了解して、『大聖堂』を読むと、背筋が凍る。なにしろ、ひとりの人間が文字通りおおいかぶさるようにして、一緒に絵を描く話だからである。まさにリッシュとカーヴァーを地でいく物語ではないか。

 

ヘミングウェイのスーツケース

……パパ・ヘミングウェイにも当然、新人時代というのがあった。本を一冊も出版しておらず、まだ作品がほとんど活字にもなっていない時代である。それが1923年前後で、当時弱冠24歳だったヘミングウェイに惚れこんだ編集者がいた。1915年に『ザ・ベスト・アメリカン・ショート・ストーリーズ』を創刊した、エドワード・J・オブライエンがその人(1941年のロンドン大空襲でなくなった)。

雑誌に発表された短編を選ぶというのが大原則だったが、23年版に未発表の短編「ぼくの親父」("My Old Man")を掲載。またそれだけでなく、年鑑そのものをヘミングウェイに捧げてしまった。当時、ヘミングウェイは、本を出すためにこつこつ書きためた短編をぎっしり詰めたスーツケースをフランスのリヨンの駅で盗まれていて、大パニック状態だった。(この事件は、アメリカ文学史における有名な逸話であり、数々の小説をうんだ。『ヘミングウェイのスーツ・ケース』マクドナルド・ハリスなど)。オブライエンはそのことを知っていて、何か残っているものはないか? とたずね、掲載されたのが「ぼくの親父」だった。

年鑑そのものを君に捧げたいのだが、とオブライエンから打診をうけたヘミングウェイは、手紙に「かまいません、そのお礼に、これからずっと、小説を書くときはあなたと神だけが読者なのだと考えるようにします、とあなたと神に厳粛に誓います」と書いた。

 

G・K・チェスタトン(1874-1936)

……才能あふれるジャーナリストであり、名探偵のひとりに挙げられるブラウン神父の生みの親。 学生時代の教師は彼のことを「夢想家」と呼び、「ほかの生徒たちとは知的レベルがまったく違っている」といった。10代のころに討論部をつくり、弟のセシルと、18時間13分に渡って議論を繰り広げた記録保持者。彼の伝説のひとつに、ディケンズやほかの作家の全作品をすべて暗唱し、出版社から依頼されて読んだ1万冊の小説のあらすじすべてをおぼえていた、がある。彼の秘書によれば、エッセイを口述筆記させながら、まったく別のテーマのエッセイを万年筆で書いていた、という離れ業をも駆使した。自分の考えに夢中になるあまり、たびたび道に迷い、家に連れ戻してくれと妻に電報を打つこともあったという。

よく模倣されるが、決して凌駕されることのない『木曜日だった男』の著者でもある。

 

ジョージ・バーナード・ショー(1856-1950)

……アイルランド出身の劇作家。1925年にノーベル文学賞を受賞しているが、それ以上に皮肉屋として知られる。数々の皮肉は既に小噺と化しており、ある女性が、ショウに手紙を出し、

「私はこの世で一番うつくしい体を持ち、あなたは一番すぐれた頭脳の持主ですから、私のうつくしい体とあなたの頭脳を受けついだすばらしい子供を生むため、二人は結ばれるべきです」

といえば、ショーは

「しかし、私の体とあなたの頭脳を受けついだとしたら、どうなるのでしょうか」を筆頭に、

「あなたが一番影響を受けた本は何ですか」という質問に対しては「銀行の預金通帳だよ」ときりかえし、ノーベル賞受賞の際も、「その賞金は、岸辺に無事泳ぎついた人に向かって投げられる救助ベルトです」といって当初は、頑なに固辞していた。

当事、菜食主義者のショーは非常に痩せていることで有名で、非常に肥っていることで有名なチェスタトンが

「きみを見ると、だれでもイギリスに飢饉が来たと思うだろうね」と皮肉をいえば

「その原因はきみにあると思うんじゃないかね」と返した。

 

バルザック

……コーヒーを気つけに夜を徹して『人間喜劇』を書き上げた、この偉大なフランスの小説家は、コーヒーの飲みすぎ(五万杯飲んだ、といわれている)と過労と運動不足が原因で、51歳で世を去った。一説によると、彼は机に向かう時、何故か修道士のローブをまとっていたらしい。

 

ウィリアム・モリス

……詩人にして、政治活動家、デザイナーでもあったモリスは、人類の未来を予測して、コンピューターとコンクリートでできた世の中になると考えた。「結局は、灰の山の頂上に立つ会計事務所になってしまうのか」と。

また、金満家の意地汚い贅沢をあからさまに嫌っていたモリスは、あるとき、公爵から宮殿のような自宅に招かれて、調度や装飾品について意見を求められると、たき火を盛大にたいて全部燃やすといい、と言い放った。

 

アルトゥール・シュナーベル

……ベートーベンのピアノソナタを弾かせれば右に出るものはいないといわれたが、ときどき演奏中に指をもつれさせることがあった。シュナーベルのモットーは、すべての偉人のそれと同じく、「要心無用」。すなわち、攻めの精神、である。

 

シモーヌ・ヴェイユ

……倫理の批評家であり、活動家でもあったヴェイユは、まさにその人生を現代社会の批評に捧げた。最も優れているとされる論文で、「イリアス」を「力の詩」として分析し、

「『イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、力である。人間たちに操作される力であり、人間たちを服従させる力であり、それを眼前にすると人間たちの肉が収縮する、そういう力である。(中略)以前と同じく今日においても、全人類史の中枢に力をみてとるすべを知るものなら、この詩篇のうちにもっとも美しくもっとも純粋な鏡を見いだすのである。」(『ギリシアの泉』)

厳格で揺るぎない信念の持ち主だったヴェイユは、ナチスの強制収容所に抑留されていた人たちと同じ量の食事をつらぬき、死んだ。

 

ボエティウス

……収監され、死刑を待つ身でありながら、哲学の貴婦人と人生の目的を論じた『哲学の慰め』を著した。アルフレッド大王やチョーサーを筆頭に、非常に影響力のある本として、多くの国で翻訳されている。

 

オックスフォード

……大学の建築群があるために「夢見る尖塔の町」とも言われる。英語圏のなかでは最古の大学。

 

ムネモシュネー

……ギリシャ神話にでてくる言葉と言語の創造者。

 

ディオティマ(紀元前400年ごろ)

……ソクラテスに愛の本質を説いた「博識の女性」。架空の人物とされる。

 

タラコナス

……リトアニア語で「ゴキブリ」の意。

 

ペーター・ガスト(1854-1918)

……作曲家。ニーチェがバレーゼ大学古典文献科教授時代におしかけた生涯の弟子。本名は、ハインリヒ・ケゼリッツ。イタリア人に発音しにくい本名は芸術家としてのキャリアに不利だと、ニーチェが提案したペーター・ガストを生涯名乗る。ニーチェは、崇拝しのちに訣別したワーグナーをしのぐ作曲家に育てようとしたが、作曲家としては凡庸だった。『人間的な、あまりに人間的な』の口述筆記や、ニーチェの妹のエリザベートと原稿の整理、出版に尽力した。

 

今泉一瓢(1865-1904)

……なんと、出身地は江戸! すでにして、時代が違う。

福澤諭吉の妻の姉・今泉たうの子で、本名は秀太郎。明治17年に、慶応義塾を卒業し、同年、福澤諭吉発案の錦絵漫画「北京夢枕」を描く。明治18年から23年まで米国で働きながら漫画を学び、帰国後時事新報社に。「カリカチュア」の訳語として、「漫画」という言葉を初めて紙上でつかった。伝説的四コマ漫画、「無限の運動」の作者。

 

鰻・すっぽん・鯉

……万葉集が編纂された時代から、高貴な人々の間で「精がつく」と珍重されていた鰻。最近では、コラーゲンを豊富に含んでいることで、美容食として持てはやされているすっぽん。古来、福島地方では遊女と遊ぶ前にこれを食すと止まるところを知らずと恐れられ「遊女殺し」の異名を取った鯉。

 

アルゴンキン・ホテル

……「ニューヨーカー」の執筆陣がたむろしていたことであまりにも有名なホテル。

 

内田百聞

……幼稚園の頃から煙草を吸っていたが、82歳まで生きた。

 

1995年

……阪神大震災があって、地下鉄サリン事件があった年。

 

1945年3月10日

陸軍記念日←東京大空襲

 

1959年

T字鳥←サンダーバード

薄葉紙←ティッシュペーパー

 

クリネックス

商標。戦前からある。

 

共産圏

REDS

 

『太陽の季節』

小林信彦は、を読んでて、「とにかく寝てて起き上がったですからね。途中で。」

 

「平凡パンチ・デラックス」

植草さんを一番はじめにクローズアップした。

 

小林信彦

原稿は新潮社でみてもらっていた。

 

「天牛」

大阪、ミナミの有名な古本屋。カリフォルニア風の外観。だった?

 

1964年

まだTシャツという言葉は定着していなかったが、紳士丸首半袖という感じの品物はあった。

 

反復語

「そろそろ」「ふらふら」などの日本語独特の表現。フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、英語、ハンガリー語にもない。

 

微苦笑

久米正雄の造語という。