books335『読んでいない本について堂々と語る方法』ピエール・バイヤール

〈読まずにコメントする〉という経験について語ることは、たしかに一定の勇気を要することである――とは、わざわざ引用するまでもないぐらい、皆が勘付いていることである。この種の主題はタブー視されており、いくつもの禁忌を破ることではじめて可能になる。この死線をかいくぐってきた著者は誰か? パリ大学の教授であり、文学を教えている……、とくればいくつもの死線を越えてきた猛者であることは容易に推察できる。
こうした「技術」を磨くぐらいなら読めよ、という単純な指摘は彼には届かない。つまり、読む、という行為にはさまざまな階梯があり、時間という次元を考慮にいれると、読書は時間のなかで推移していくものだからである。実際に、モンテーニュは、「エセー」のなかで、記憶の消失、とくに書物についての記憶の喪失を、読書だけではなく、自分が書いたものにも認めている。書物が読んだかどうかすら忘れてしまうほど、読みはじめたとたんに意識から消えていくものであるとしたら、読書の概念自体がいかなる有効性ももたなくなってしまう。つまり、読んだ記憶がないのであれば、開いた本も開かない本も等価だということになりかねない。
こうした純粋なる読むことへの懐疑をさまざまな作家の言葉を通じて分析し発展させていくのが、本書の主題であるが、この本の醍醐味はそこにはない。ポール・ヴァレリーである。
ヴァレリーは、アナトール・フランスの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出された、フランスの代表的知性と謳われた詩人であり、文学者である。本を読まないという行為において、もっともラディカルなのは、一度も本を開かないということだが、ヴァレリーは、その中でも筆頭格にあげられるべき存在であり、自身そのことを口外して憚らなかった。(つまり、ぜんぜん読まなかった!? らしい)
ぜんぜん読んだことのないプルーストへのオマージュや、同時代のもう一人の大作家だった大嫌いなアナトール・フランスについての演説はよみごたえがある。
アカデミー・フランセーズには慣例として、前任者をたたえる演説をしなければならないのだが、ヴァレリーは、冒頭から、自分に課せられた義務を周到に回避している。ヴァレリーは、演説のあいだずっと、彼にオマージュをささげないですむように工夫を凝らしており、アナトール・フランスの名前を一度も口にしないだけではなく、彼の作品は万人受けするというとどめの一撃をくらわしている。また、二十世紀前半のもうひとりの巨人・ベルクソンにたいする彼のオマージュもまた例外ではない。「私は氏の哲学の中身を論じるつもりはありません」というこの言葉は、単なる決まり文句ではなく、本音であるおそれすらある。
こうしたユーモアがふんだんに散りばめられている本は、危険である。危険なほど面白い。うかつに踏み込むと足をすくわれる。実際に、すくう構造にもなっている。ご注意を。