『抱擁家族』小島信夫著・講談社

妻が浮気をしていることを家政婦に密告されるところから、物語がゆっくりと動き出す。

「三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れている、と。

 家の中をほったらかしにして、台所へこもり、朝から茶をのみながら、話したり笑ったりばかりしている。応接間だって昨夜のままだ。清潔好きな妻の時子が、みちよを取締るのを、今日も忘れている。」という書き出しが暗示しているように、統制を失った「家」を舞台に、壊れて静かに沈んでいく家庭を、小島信夫独特の距離感とユーモアで描いている。

やることなすことがうまくいかず、嫌な記憶のある古い家を脱して、新しくアメリカ式の家の建築をするという一大イベントに着手しはじめたとき、肝心の妻が乳癌を患って、不帰の人となる。

「長い間、妻の時子は対話の相手であった。対話が出来なくなったとなると、俊介は対話をしようとあせった。俊介は今、夫婦となってはじめて、時子と一番対話をしたいと思っている。それなのにその相手と永久にそうすることはできない。」

失ったものはもとには戻らない。だからといって、それをそのまま受け入れるだけなら、生きているとはいえない。この物語が本領を発揮するのは、まさにこの後である。デパートの店員をナンパしたり、看護婦を口説いたり、まわりを巻き込んで、縁談の斡旋を強要し、不興を買ったり、もがき、あがき、虚勢をはり、張りぼてのやさしさをふりまいて、自己の制御を失って、それでも生きている三輪俊介の姿を淡々と書き続けるその筆致は、見事というほかない。