『檻のなかのダンス』鶴見済著・太田出版

「アタマ」で考える良さと「カラダ」で感じる良さというのを視点をかえてみると、違うどころか対立している。たとえば、映画や芝居はたのしいが、その楽しさは、「アタマ」だけの楽しみにすぎず、「カラダ」にとっては坐っているだけの二時間の拷問に過ぎない。逆に、「カラダ」が楽しんでいるとき、つまり、セックス、寝る、踊る場合は、「アタマ」は完全に用なしで何もしていない。

こうした対立構造は実は、幼稚園から続いていて、一生を終えるまで意識されることがない。それが教育の「最大の仕掛け」であるという。

鶴見のいうように、「カラダ」が受けてきた教育を点検していくと、「学校の敷地から出られない→閉じ込め」「起立、礼、着席→時間と反復の叩き込み」「教室の視線(浮くとか浮かないとか)→監視」など、実際、彼が監獄で実体験してきたこと何等変わらない。

学校や会社における日常生活は、刑罰と似ている。それは、「生産」を史上命題とする産業革命以降の近代社会が、工員に課した教育を学校教育が継承しているからであり、「カラダ」の視点からみた刑罰は、学校教育の延長線上にある。そんな授業は受けたくないが。