2009年

7月

21日

『当世凡人伝』富岡多恵子著・講談社

舞踊家・田中泯(みん)の父親は、警視庁の刑事で、小学校卒で警視まで昇進した。表彰状をいっぱいもらっていたけれど、賞状は額にいれず、丸めっぱなしで、晩年には庭で、それを火にくべた。趣味は、土いじりで、退職後は一畳ほどの自宅の庭で畑をつくって、両手で土をもみほぐしていた。田中泯は、その横顔をよく覚えているという。「この人は、こういうことが好きなんだなあ」と思ったという。

本書は、田中泯の父親のような、ひと昔前の、12人の平凡な人間を描いた短編集である。小学校卒で、官費の警察学校から警視になった、百姓の六男、六平を主人公にした「薬の引き出し」。

昔は寄席にでた噺家・菊蔵の最後の一席を描いた「立切れ」。 

小説というものが面白いのは、なんの変哲もない人間の日常を描いて、無類に面白く読ませるところである。

川村二郎が本書の解説にもかいていることだが、だいたい、平凡な人間を描くときの作家の心の傾向として、「名もなく貧しいなみの人間こそが本当の人間だ、下ではなくむしろ上の人間なのだ、という主張があらわになりがちなことは否定しがたい」。そうした試みを否定するつもりはないが、どこかしら、息苦しさというのか、料簡のせまさみたいなものはあるように思う。

こうした庶民の文学とは、まったくかかわりなく、徹底して庶民を描いて、書き尽くした作に、深沢七郎の『庶民列伝』がある。この小説が圧倒的に面白いのは、主題の選択ではなく、深沢七郎の視線である。

関係のないことを書き連ねて、何が言いたいのかといえば、平凡を描いて非凡というのは、つまりは作家の力なのだというごくごく平凡なことである。

文章が熾火(おきび)のように燃えている。