2009年

8月

18日

『イン・ザ・ミソスープ』村上龍著・幻冬舎文庫

外国人向けのナイト・アテンダント(性風俗案内)のケンジ(20歳)が、いつもと同じように仕事を受け、クライアントの正体不明の中年アメリカ人、フランクと夜の新宿を歩いていると、ふと奇妙な嘘に気がついてしまう。

トヨタの部品を輸入していると言っているのに、トヨタの車に、まったく興味を示さなかったり、つい一時間前に二人の姉がいるといったばかりなのに、それがいきなり、男の兄弟だけで、みんな野球をしていた、といったりする。

変なのは、今が嘘が必要な場面ではないという点だ。

フランクが支払った、五百円玉ほどの血が乾いた痕のような一万円札をみて、だしぬけにケンジは、女子高生の手足と首をバラバラにして、歌舞伎町のゴミ処理場に捨てたのは、フランクではないかと思うようになる。胸騒ぎを覚えながら、「まるで大火傷を負ったあとによくできた人工の皮膚を貼りなおしたような」顔のフランクと歌舞伎町を歩き続けている間にも、猟奇殺人はケンジのまわりでおこりつづけ、ついにはケンジの前で凄絶な無差別殺人がおこなわれてしまう。

大晦日までの三日間の物語。

タイトルのミソスープは、ぬるま湯につかった人間を暗喩している。

何の因果か、つづけざまに村上龍の小説を読んで気がついたことがある。
それは「退屈」なことをそのまま受け入れる、あるいは、「退屈」なことを押しつける制度や枠組みに対する烈しい憎悪、である。

本書に描かれている、

 

「猫を実験箱の中に入れて、その中にあるボタンを踏めば、餌が与えられる、それを繰り返して、猫に覚えさせる、訓練するわけだ、その訓練というか学習が済んだあとで、猫を飢餓状態にする、それでまったく同じ実験箱に同じボタンをセットし、踏めば電流が流れるようにする、顔に風が当たるというような電流より軽い刺激でも結果は同じらしい、(中略)餓死するんだ」

 

という心理テストの話は、当然、猫の話ではなくて、実験箱は、日常に積み重なる、おわりのない小さな失望の世界を象徴する。

随分前に読んだので、読み間違えているかもしれませんが、たしか『五分後の世界』に、退屈な人間たちが住む、劣化した部落みたいなものが描かれていたようにおもう。『69』では、楽しさを追求し続けるための闘争宣言、

 

「この小説はに登場するのはほとんど実在の人物ばかりだが、当時楽しんで生きていた人のことは良く、楽しんで生きていなかった人(教師や刑事やその他の大人達、そして従順でダメな生徒達)のことは徹底的に悪く書いた。

楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。(中略)彼らは人間を家畜へと変える仕事を飽きずに続ける「退屈」の象徴だった。(中略)唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。

楽しく生きるためにはエネルギーがいる。

戦いである」

 

が記されているし、本書では、「退屈」なことをそのまま享受する人間は殺戮の対象とさえ、なる。

『限りなく透明に近いブルー』を読んだとき、タイトルそのままのような失望感を抱き続けてきたが、ここにきてはじめて、暗渠として脈々と流れ続ける、村上龍の文学を垣間見た気がする。

本書で村上龍は読売文学賞を受賞しているが、これが直木賞であってもまったくおかしくない。村上龍のうっとうしい文体に辟易した体験のあるひとも、この小説は別格です。