『社会的ひきこもり 終わらない思春期』斎藤環著・PHP新書

本書の「社会的ひきこもり」という言葉は、著者の造語で、

 

「二十代後半までに問題化し、六ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの」

 

と定義している。

ひきこもりを単なる個人の病理ととらず、社会的なシステムの病理としてとらえて分析し、対処の方法をいくつかの事例にわけて実践的に紹介する。

ひきこもり、という問題とは僕自身、無関係ではいられない、身近な問題で、著者のいう、「無為の日々を送りながら、彼らの多くは退屈を知りません。これは一つには、退屈さを感ずるほどの精神的ゆとりもないためと考えられます」という指摘は、身に覚えがある。

また、うつ病とひきこもりの違いを、うつ病が、しばしば「何もかも手遅れで、取り返しがつかない」だとすれば、ひきこもりは、「一日も早く、何としてでもやり直したい」と考えている、という分析にも、はっとさせられた。

つまり、ひきこもりとは、「無為」にみえるかもしれないが、「無気力」ではないということである。

「学習された無気力」の、実験心理学の実験にこういうものがある。

 

「ケージのなかの犬に対して、なんの予告もなしに電気ショックを繰り返し与えます。犬は最初いやがって、吠えたりもがいたりなどの反応を見せますが、しだいに「無気力」となり、反応を示さなくなります。つまり、不快な刺激が繰り返されているにもかかわらず、自分でそれをコントロールできないことが学習された時、無気力化が起こるのです。こうした無気力化は、同様の実験で人間にも起こることが確認されています。」

 

まさに、村上龍が描いた『イン・ザ・ミソスープ』の世界だが、ただし、こうした「学習された無気力化」は、ひきこもりにはあてはまらないと著者はいう。

 

「彼らは「やっても無駄だから動かない」のではない。むしろ彼らは「動いた方がよいに決まっている」からこそ、身動きがとれない」

 

のだ、と。

この哀しい葛藤が理解されることはなく、だからこそ、正しいお説教が、社会面を飾る記事に発展してしまう引き金になることが容易に想像できてしまう。

この、ひきこもりシステムの根源が、現在の心理学用語でいう「去勢を否認させる」教育システムにあるという著者の指摘は、そのまま、みえない監獄をイメージさせる。