『海辺のカフカ』村上春樹著・新潮社 上・下巻

「海辺のカフカ」とは、まず、小説の名前であり、壁にかかった油絵の中に描かれている12歳の少年のことであり、そして、地方都市にすむ19歳のシャイな女の子が遠い場所にいる恋人を想う歌詞を書き、ピアノに向かって曲をつくり、それをなんのてらいもなくありのままに歌った音楽、である。

物語は大きく二つに交差している。

田村カフカという15歳の少年が「世界でいちばんタフな15歳」になるために、あてもなく、四国に向かう物語と、9歳のときに事故にあってそれ以前の記憶と能力を失ったかわりに猫と話せるようになったナカタさん、という独特の話し方をする老人。

東京都中野区に住む二人は、まったく関りを持たない暮しをしながら、ひょんなことから、「入り口の石」をめぐって、永い旅をすることになる。

主人公の、カフカという名前は、フランツ・カフカから借用しており(少年が自分でつけた、という設定になっている)、その作品自体にも、数回言及している。

また、チェコ語で、カフカは、カラスという意味でもあり、この名前に照応するかのように、物語は、主人公の僕(田村カフカ)とその内面の姿を具象化したもうひとりの僕、カラスという名前の主人公が登場する。

そもそも、村上春樹が15歳の少年を主人公にするという設定に無理があったのか、高速バスの隣に坐った少女のブラジャーをみて「どうして身体の一部がこんなに硬くなれるんだろうというくらいに勃起する」といった状態を除けば、会話やモノローグそのもの自体に、違和感を与え続けている。

ナカタさんという、異色の登場人物といい、フライドチキンのカーネル・サンダーズ大佐といった幻想の怪人物といい、それ自体を並べてみれば、陳腐というのか、安易というのか、想像したものをそのまま書いているような印象を与えかねないフラットなものを多用しており、げんなりするものの、しかしながら、最後の最後まで面白く読んでしまう。

なぜ、村上春樹の小説は面白いのか。

日本の街を舞台に描きながら、湿度をまったく感じさせない乾いた文体、ヴォーリスの建築のように、日本のなかに溶け込んだ西洋をそれと意識させることなく読ませる文章。ミステリー小説のような展開。一冊の本の中に、ふんだんに盛り込まれた音楽と文学。
文学に触れたものだけでも、ざっとひろってみると、

 

石川啄木、志賀直哉、若山牧水、バートン版『千夜一夜物語』、種田山頭火、谷崎潤一郎、プラトンの『饗宴』、フランツ・カフカ『城』『審判』『変身』『流刑地にて』、夏目漱石『虞美人草』『坑夫』、アドルフ・アイヒマン、ユーリピデス、アイスキュロス、トルストイ、『源氏物語』、上田秋成『雨月物語』(菊花の約(ちぎり))、アンリ・ベルグソン『物質と記憶』、アントン・チェーホフ、ジャン・ジャック・ルソー......。

 

これ以外にも、オイディプスの謎かけとか、ソローの森の小屋とか、それと触れられてはいないけれども、明らかにそのものを暗示している問いかけが無数に存在している。

満漢全席もかくや、というこの豪華絢爛さを、読者にまったく意識させずに読ませるというのは、村上春樹ならではか。