『身体の文学史』養老猛司著・新潮文庫

『身体の文学史』養老猛司著・新潮文庫

本書は、解剖学的手法を用いた文学史、すなわち、文学史の解剖学である。

身体(内的自然)と、いわゆる自然(外的自然)を、分離するのは、養老猛司の用語でいえば、脳化社会で、ふつうの表現にかえれば、文明社会の意識であろうか。

身体と自然の「切断」に、文学者は敏感に違いないという、素朴な思い込みからはじまった試みは、いわゆるポルノ裁判や、文学の主題としての生老病死、伝統としての花鳥風月、芥川龍之介、志賀直哉などの作家らを検討していくにつれ、その視線が基本的には社会に向いていて、文学者が典型的な脳化社会のひとであることを浮き彫りにしていく。

考えて見れば、文筆でいきる、それが可能であること自体が、社会、すなわち脳化を前提としいるのだから当然といえば当然で、身体という自然は、したがって常に文学の辺縁に位置しており、図らずも、自然(外的自然)が物理的に社会の辺縁に位置するのと相似している。

こうした文学の辺縁を対象にした作家として、深沢七郎ときだみのるがとりあげられている。

養老猛司の意見によれば、「深沢七郎の主題は人間の自然、生老病死だった。作者にその意識があったかどうか、それはわからない。あってもなくても、かれは生老病死を描いたのである」という。個人的にはこういう切り取り方に異議を呈したい(というのも具体例のしっかりしている養老にしては珍しく曖昧で、ここでいう「人間の自然」とは何なのか? とか、生老病死について書いていない作家のほうが少なくないか? とか、「人間」を描かない文学(「未来派」のこと?)のほうが辺縁では? とか、切り取り方が甘い気がする)。

ただ、「脳化社会から一歩外れた著者の感性」であり、それは「ほとんど中世的と呼んでもいいもの」という指摘は、よく解る。不気味なのである。深沢七郎の文学は。

深沢が、その文学を、自然、あるいは身体(内的自然)の内部から書き綴ったのに対し、きだはそれを外部から見た。深沢は、『笛吹川』や『甲州子守唄』のように、部落を過去にむかってさかのったのに対して、きだは現在のみをきりとる。その意味で、きだの視線は深部までは届かないが、個人的に思い入れの深い作家が、自然と文学という視点で新たに語られているのが嬉しい。

深沢と並び、きだの『気違い部落周遊紀行』は、学生時代のバイブルの一冊でした。