『黒髪/別れたる妻に送る手紙』近松秋江著・講談社文芸文庫

近松秋江は、情痴文学の作家として知られる。情痴とは、大辞泉によると「愛欲のために理性を失うこと。痴情。」。この一点において、近松秋江に及ぶものはいない。

 

「書いた本人自身が顔をおおいたくなるような小説。後日母(※近松の妻)に「あたしなどは人間の屑だ」と言っていたそうだ。その筈である。」

 

と徳田道子(近松の娘)にまで書かれてしまうぐらい徹底している。

西洋文学にかぶれていることを自負するも、盟友・正宗白鳥が指摘しているように、彼の読書は三行しかもたず、大体、作中に引用するのも決まっていて、『天の網島』の小春が、

 

「私ひとりを頼みの母さん、南辺に賃仕事して裏家住み。死んだあとでは袖乞非人の飢え死にをなされようかと、それのみ悲しさ。」

 

という箇所。 別の作で引用されるたびに、……と、割愛される箇所がふえていくおそまつさ。

小説はといえば、自分の肩にカメラをすえつけて、それをそのまま延々と臆面もなく(あるのだろうけれど)書き続けて飽きることがない。一見、とてつもなく退屈そうに思える本書が、北上次郎、福田和也といった、現代を代表する書評家をその作品世界にひきずりこんでしまうのは、一点、情痴の桁外れな破壊力ではあるまいか。万夫不当の剛の者。

まだ「性格」という漢語がまだ目新しかった、大正時代の物語。