『わたしは花火師です フーコーは語る』ミシェル・フーコー著・中山元訳・ちくま学芸文庫

『わたしは花火師です フーコーは語る』ミシェル・フーコー著・中山元訳・ちくま学芸文庫

フーコー哲学の真骨頂は、たとえば、知と権力の関係を読み解いて、プラトン以来、対立してきた知と権力の関係が、反対に権力の内部に取り込まれていることを明らかにしたり、あるいはオピタル(施療院、あるいは病院)という装置を中世にさかのぼり、そもそも病院の淵源である施療院が「人が死ぬために訪れる場所」であり、「いかなる意味でも治癒のための手段ではありませんでした。そのような装置として構想されたものですらなかった」という衝撃的な事実を明らかにする、ニーチェの系譜学的な思考を受け継いだ、考古学的な知のありかただといえるのではないでしょうか。

フーコーの仕事は、主要な著作の邦題、『狂気の歴史』、『知の考古学』『監獄の誕生』をみればわかるように、アクチュアルな現在を批評するだけでなく、例えば、『狂気の歴史』であれば、狂気が生成された、バルトのいう、出来事の「零度」に遡り、その事象にニーチェの系譜学的な考察を加えて、現在に還元していくスタイルをとっています。この意味で、いまある現在を絶対的なものとして見なさず、考古学的手法を用いて、現在を禁欲的に考察して読み解いた哲学者であると考えます。

あまり深入りすると帰ってこられなくなる恐れがあるので、笑って読み流していただくとして、まず、フーコーはその最初の学術的主題に「狂気」を選んでいます。ジル・ドゥルーズがいうように、フーコーは、歴史の中から抹消されたものに眼をむけるだけでなく、語られることのなかった「狂気」自身に語らせる機会を与えました。そして、それだけではなく、正気と狂気が科学的に分離可能であるという考え方が、実は近代になってはじめて採用されたものだ、という驚くべき事実をも指摘しています。

フーコーの著作の面白さは、間違いなく、哲学が新しい価値を生み出す、あるいは旧弊の壁を打破する、そういった哲学が生成される瞬間に立ち会うことのできる面白さだと直覚しているのですが、しかしながら、それ以上に独特の用語が難解であり、本書の「花火師」しかり、その洗練されたエクリチュールと

 

「わたしは、通りすがりに「そうだね。『ラモーの甥』について語らないわけにはゆかないのは、分かるだろう」と言うような散歩者なのだと。」

 

というような、悪魔のようなユーモアを咀嚼するのは、容易ではありません。

たとえば、フーコーが最後に取り組んでいた「主体化」という用語は、言葉そのままの意味ではないし、例えば「権力」という言葉ひとつ取ってみても、それがそのまま「国家権力」や「管理システム」といった具体的なイメージを想起させる物でもありません。知の標準化、つまり、「ストック趨向性」をもたらす、知的カタログ化をさしており、ややこしいのが、それをこのように記述するとき、このテクスト自体が「権力」、あるいは「ストック趨向性」そのものと化してしまう、パラドックスを孕んでいます。

あんまり、理解できていないのですが、ミハエル・バフチンが『ドストエフスキーの詩学』で語ったような、複線的なポリフォニー理論を語るとき、それが単線化してしまうといったようなことなのではないでしょうか。ウィトゲンシュタインが沈黙した、語りえぬもの、について全身全霊をかけて突貫していく、そのスタイルゆえに、フーコーは古びることがないと思います。

脂ののりきった70年代後半のフーコーによる、格好の著作案内、という言葉につられて読んだものの、やっぱり、ラビリンスじゃねえか。

誰か、「14歳のためのフーコー」とか、「猿にでもわかるフーコー」とかを書いてくれないものか。過激な入門書があれば読みたし。