『ベケットと「いじめ」』別役実著・白水Uブックス

サミュエル・ベケットの戯曲に『ゴドーを待ちながら』がある。ウラジミールとエストラゴンという二人の登場人物がしゃべりまくりながら、ゴドーという人物を待っている、言ってしまえばただそれだけのドラマなのだが、この戯曲がどれだけ面倒、もとい読み甲斐があるかは、まずタイトル。

ゴドーというのは、ゴッド、すなわち「神」のアナグラムであり、背景として、二人は永遠にあらわれることのない神をずっと待っているということを暗示しているだけではなく、この「待つ」という行為もポイントで、というのも「待つ」という行為は行為でありながら同時に行為の否定でもある、というやっかいな側面をもっている。一生懸命やればやるほど何もしてはいけないという、行為の矛盾をあえて演劇化してみせることで、近代劇における行為性の矛盾をつき、近代劇に対する否定のドラマツルギーを演劇論ではなく、演劇で展開していくところが、サミュエル・ベケットの真骨頂であり、彼の演劇が不条理劇とよばれる所以でもある。

不条理劇というのは、かいつまんでいうと、演劇とは何か? ということがそっくりそのまま演劇になるという演劇で、いわば、演劇=演劇論という形式が多く、大概、退屈であるという共通点がある。誤解をおそれずにいうならば、ベケットの面白さというのは彼の紡ぎだした演劇にあるのではなく、演劇とは何かをとことん突き詰めた、その方法の探求にあるといえるのかもしれない(ベケットの戯曲には、登場人物が「口」や「聴き手」という、一見して、というかおよそ登場人物とは思えない『わたしじゃない』や約35秒で終わってしまう『息』など、素朴な読者を撥ね返す作品が多い……)。

このベケットを、日本のベケットと呼ばれた別役実が、「いじめ」のメカニズムとからめて読み解いたのが本書。

まずドラマを、

 

「人間が主役ではなくて、関係が主役で、関係のメカニズムを探ることによってかろうじて人間が確かめられるということでもあります。つまりそれがドラマである。」

 

と定義した上で、人間存在そのものが、ドラマツルギーの変容とともに、独立して完結した存在である「個」から、関係のなかの「弧」、つまり核のようなものに変わってきたのではないかと問いかけ、いじめ問題の中心である、関係のメカニズムとベケットの方法論が交差している場所を、解き明かしていく。

ただし、講演を文字化しているためか、「一般的にいうと自殺というのは敗北なんです。他殺というのは勝利です。」など意識の低い言葉が記録されているのが目につく。

個人的には、「いじめ」問題について言及するリアリティが感じられなかったのが残念。演題として与えられていたのだろうから仕方ないにせよ、ベケットと演劇についての記述だけで、十分読むに値すると感じるのは、わたしだけか。