『自分のなかに歴史をよむ』阿部謹也著・ちくま文庫

『「世間論」序説』で、「世間」は万葉集の時代からある古い言葉で、それに対応するような形でうまれた「社会」は明治維新のころの翻訳語であることをみた。言葉の来歴だけでなく、その内奥(ないおう)、すなわち、「世間」が社会を内側からみた言葉とすれば、「社会」が外側から見た表現であることを明らかにした。つまり、日本には「社会」という言葉は存在するものの、それに対応する現実は「世間」でしかないのだと。 

金銭と違って、たとえばマッチ一本の貸し借り、通りすがりの人に火を貸してくれませんかといえば、たいていは気軽に貸してくれる。お金は返す約束をしない限り、貸してもらうことはできない。お金はダメで、ではなぜマッチならよいのか? 

本書は、アベキンのいわゆる入門本。ありふれた物事の奥に眠る、「?」と疑問を、自伝形式の語りを使って、学問の来歴をたどりながら、新しい社会史を説き起こしてゆく。

幼いころに父親を失った阿部謹也は、中学生のころに一家は四散し、カトリックの修道院にあずけられていた。そのころの経験が、彼をヨーロッパ中世史に目を向けさせ、アパートで妹たちと暮すようになると、妹たちの朝食を用意することができるか、できないかで眠れない日を過ごした。その意味で、聖書の「あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労はその日一日だけで十分である」という言葉は何の慰めにもならなかった。

阿部謹也にとって、「生きてゆくということはいかに食べるか」であった。歴史学の泰斗・上原専禄に師事し、「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」といわれて、夜の公園のベンチで横になって考えるも、一向に答えは出なかった。逆に、何ひとつ書物を読まず、何も考えずに生きてゆけるか、と問いを発してみると、その答えは容易にでた。

それはできない。

時間意識の問題、贈与・互酬の関係、特定の職業における賎視(蔑視とは違って恐れの気持ちを含む)の問題、メルヘンの謎など、阿部謹也の仕事を通覧するだけでなく、その根底をも明らかにした、内容のある一冊。