『ハーメルンの笛吹き男』阿部謹也著・ちくま文庫

『ハーメルンの笛吹き男』阿部謹也著・ちくま文庫

西ドイツの古文書館で、14、15世紀の古文書、古写本の分析に没頭していた阿部謹也の目に、だしぬけに「鼠捕り男」という言葉がとびこんできた。

頁をめくると、クルケンの村にあるジュルグンケンの水車小屋を舞台に鼠捕り男の伝説が残されているという。ある男が粉ひきのところに住み込みで働かせて欲しいと頼むが、冷淡にあしらわれたので鼠を小屋中にあふれんばかりに送り込んだ。粉ひきが泣かんばかりに謝ったので男は鼠を湖に導き溺れさせた、という。

ここまで読んで、阿部謹也の背筋に、何か電気のようなものが走る。「鼠捕り男」すなわち、「ハーメルンの笛吹き男」とは、小学生のときに読んだ、まだらの服を着た、あの御伽噺の男ではないのか、と。

哲学者のライプニッツが「この伝説には何か真実がかくされている」といったように、この魅力的な物語にはあまたの人間がみせられ、伝説と化してのち四百年の間に、27近くにも分類できる説がうまれた。

阿部謹也はいちいち、事細かにそれらを検証し、実際にハーメルンを訪れ、研究しながら、ハーメルンの笛吹き男を産んだ中世の世界を鮮やかに描き出す。

「伝説は本来農民の歴史叙述である」(ゲオルク・グラーバー)というように、伝説とは本来、庶民の、自分たちの歴史そのものであり、その限りで事実から出発している。その点でメルヘンとは質を異にしており、単なる歴史的事実にすぎなかった出来事がいつしか伝説へと転化し、そして、伝説に転化したとき、はじめの事実はそれを伝説として伝える庶民の思考世界の枠のなかにしっかりととらえれて位置づけされ、この過程を通じてひとつのパターンのなかに鋳込まれていくのである。この意味で、伝説は時代とともに変貌をかさね、この思考世界の次元の変遷をたどり、最初の事実に遭遇できたならば、その伝説がはじめて解明されたといえるのかもしれない。

しかし、それがいかに困難なのかは、そうした伝説が庶民、すなわち記述されることのない物語であることを考えれば明らかである。

「貧民が死ぬと、(その人間についての)すべては一緒に消えてしまう。生涯が暗かったように、死後も忘却のように暗い」のである。いつの時代も、財産と伝記を残すのは、権力者だ。

こうした状況のなかで、伝説の変貌をたどる方法はひとつしかない。

すなわち、「こうした様々な議論や争いのなかでの伝説の変貌を、その背後に渦巻いている様々な人間の動きとにらみ合せながら位置づけてゆく」こと。

阿部謹也が西洋中世史という、およそ一般の日本人にとって親しみのない分野をきりひらいたのは、ひとえに、「われわれは中世政治史や文化史のロマネスクやゴシックの建築に象徴される華麗な叙述の背後に、痩せさらばえ、虚ろな顔をして死にかけた乳児を抱いて、足をひきずるように歩いていた無言の群集を常にみすえていなければならないのである。」という、あくまでも、ひたむきな無言の群集の言葉に耳を傾けたことと、見事な着想による。

決して読みやすいとは言えない、濃厚な記述に手がとまらないのは、推理小説を読むような、スリリングな展開のせいである。