『ドゥルーズ入門』檜垣立哉著・ちくま新書

ジル・ドゥルーズは、まずいかなる存在であるよりも前に、哲学史家である。ドゥルーズの師と呼べる人間が、グイエやゲルーといった、きわめて哲学史家的な存在であったことも重要であるし、1968年という記念すべき年の周辺で書かれた二冊の主著(『差異と反復』、『意味の論理学』)を刊行する以前のドゥルーズは、ベルクソン、ヒューム、ニーチェ、スピノザという、哲学のテクストの読解に、忠実な仕事を残している。

それは、たとえば、ドゥルーズの思考総体をとらえようとするときに頻出する述語、「内包性」と「潜在性」という言葉で読み解くことができる。

「内包性」は基本的には、実在が連続していることを原則としている。この「実在」の連続性は、ベルクソンがきわめて印象的に論じていることでもあり、かいつまんでいうと、時間が流れることが、フィルムのように、流れない瞬間の継起によって成立するのであれば、それは流れないものから流れるものを構成してしまうことになる。しかし、分断された瞬間から他の瞬間へと移行するためには、どんなに短くても、その間が必要になる。であるならば、その間には、さらに細かい瞬間が見出されるはずであり、つまり、この作業は無限につづき、ついには時間が流れることなどありえなくなってしまう(ゼノンのパラドックスのようなもの)。

ベルクソンはこうした、すでに空間化されたものから時間の流れを考えることの奇妙さを論じており、これを解消するために、逆の命題、すなわち、ここでいう時間の流れとは、瞬間が連鎖してできあがっているのではなくて、時間はそれそのままにおいて連続的なものであり、こうした連続性こそが実在なのである、という。ベルクソンにとって、実在は持続という分割不可能な流れであり、そのあり方を変容させていく。これが、ドゥルーズのいう、「内包性」という事象である。外延的で、空間化された位相ではない、あるいはそこに回収されえない内包的な実在こそが、持続であり、「潜在性」とは、そのあり方を指し示している。

ドゥルーズは、ベルクソンの思想を徹頭徹尾自己の概念の枠組みのなかにとりいれており、ベルクソンを出発点にして、あらゆる場面でベルクソンの思想に批判を加え、その思想と距離をおきながら、自己の哲学を展開していく。

一方で、スピノザやニーチェに対しては、手放しに肯定しており、ニーチェから得られた「永劫回帰」を時間論の根幹におき、スピノザの「内在」という着想はドゥルーズ独自の唯物論に深く結びついている。

本書は、ドゥルーズの思想史的変遷をたどりながら、前期の主著二冊、『差異と反復』、『意味の論理学』を丹念に読み解いている。

『差異と反復』は、差異を、ひとことでいえば、ポジティブなものとして抽出している。差異こそが、この世界を作り上げている要素であるという。

ここでいう、差異とは、「表象=再現前化」というシステムに従属しないものとして論じられている。「表象」は、差異を二次的なものとみなし、否定的なものに押し込めてしまう。「表象」とは、「同一性」「アナロジー」「対立」「類似」という論理にしたがって作動するシステムである。

近代の発端が、コギト的な自己同一性の地盤が見出されるとともに、それが神という言葉において設定される「無限者」との関連におかれている。デカルト的なコギトは、一般的には意識における自己同一性の哲学を形成しながらも、それはつねに、「無限者」という神に保証されるというロジックをもっている。

ドゥルーズはこうした、有限と無限がある種の調和にあることを、「表象」そのものにつきまとう、有機的(オルジック)なものとしてとらえている。ここでまさに、同時代を併走した哲学者・フーコーとのパラレルな議論がみいだされる。「表象」を酔わせる無限、である。

現代的思考における自己根拠性の喪失が語られるのは(自分探し)、有限的な自己が無限な神に支えられるという図式が崩壊して、有限者が無限そのものの中にあり、つまり、自らであることに底がなく、宙吊りにされて、立つ瀬がなく、酔いはじめることによる。ここには、さまざまなテーマが含まれており、決して中心とまじわることのない、無限の直線(徹底的な迷宮)によって開かれた「第三の時間」を、「空虚な形式」として時間が流れることの、無限の形式性そのものを、「俯瞰」というかたちで無限が有限のなかに入り込んでくることを描いている。

こうした無限の発見と数学を含めた哲学が、近代から現代にかけての思想を規定してきたことは明らかである。

 

『意味の論理学』は、『差異と反復』から一年をまたずに刊行された。両者の間には密接な結びつきがあるものの、多くの点で、距離をとろうとしている。

この書物では、「表層」にこそ、あるいは、「皮膚」としての「表面」にこだわりつづけている。ここで、深層とは無意味である。無意味であることの意味は、パラドックスとしての威力をもつが、それがあくまで効力をもつのは、「意味」においてである。そして、その「意味」が宿っている場所こそ、「表層」なのである。この「表層」を論じることが、この書物の根幹をなしている。

言葉を使うときには、すでに言葉に意味があるのは前提条件である。しかし、自分が使っている言葉の「意味」を問われても、それを語ることはできない。簡単にいえば、「言葉」は「意味」を扱うにもかかわらず、「意味」は「言語」そのものではありえない。こうして、「言葉」の「意味」を示す「言葉」は、無限に増殖していく。

では、こうした「意味」はどこにあるのか?

「表層」というのが、ドゥルーズの見解である。

こうした「意味」の次元を描くために、いくつかの装置が利用される。

「浮遊するシニフィアン」がそれで、構造主義における構造の成立条件としてのシニフィアン(指し示す記号)の余剰のことをいう。

よくしられたシニフィアンとシニフィエ(指し示される観念)の関係は、パラドックス的で、つねに、シニフィアンが過剰なのである。それゆえ、シニフィエにはいつも不足が生じている。この両者をつなぐのが「マナ」と呼ばれる「ゼロ記号」である。

ラカンの「盗まれた手紙」と同様に、シニフィアンがつねに過剰であることにおいて、記号は記号の指し示すものと一致しない。この一致できないことが、記号的な構造そのものを動かし、支えている。この「浮遊するシニフィアン」に、ドゥルーズは、キャロルの「空白の語」などを読み込んでいく。

この時代は、エクリチュールの方法について極めて、強い関心が喚起された。それはデリダをみれば明らかで、デリダは「脱構築」という自己の姿勢を、テクストの作成そのものに反映させており、軸になっているのは、テクストにつくテクストとでもいうべきあり方である。

ドゥルーズにとって、自覚的にテクストをとらえなおす機会は、デリダ的なものではなく、むしろ、「ガタリ」とともに「二人で書く」ということに積極的に見出される。後期になってからは、顕著に「脱人称化された」テクストの作成が展開されていく。

この本の真におそろしいところは、著者の「あとがき」である。いわく

 

「この書物は編年体記述の「前半部」にすぎない。」

 

その意味での「ドゥルーズ入門」であったのかと、ビブリオグラフィーをみて、驚く。これで、二合目なのである。