『なにもかも小林秀雄に教わった』木田元著・文春新書

絶望とは何か、ずっと考えてきた。絶望は辞書がいう「希望を失うこと。全く期待できなくなること。」ではない。 ノートに「絶望」と書いたところで、それで絶望することにはならないし、絶望を絶望という言葉で表現することもできないが、絶望を感じている。では絶望とは何なのか?

 

「農業の勉強はしたくない、する気がない。と言いながら、それじゃあなにがしたいのだ、なにができるのだと訊かれても答えられない。なんでもできそうに気持ちが昂揚するかと思うと、次の瞬間には自分がこれまでなに一つまとまったことはしたことがないのに気づいて、ガクンと落ちこむ。毎日がその繰りかえしだった。」

 

こうした苦悩を絶望といわず、何という。

この文章は敗戦後まもなく、哲学者の木田元が、安否不明の父親にかわって、若くして一家の生計を養わなくてはならなくなって、闇商売で工面した金をつぎ込み、人生の中休みとして、漠然と農林専門学校に入ったころの回想である。

キルケゴールにいわせると、人間はみな絶望している。というより、絶望しうることは人間の特権なのである。たとえば「不安」ですら、キルケゴールによると、絶望者が自分の絶望を意識していない、零度の状態、ということになる。

絶望という状態を文学に定着させた作家にドストエフスキーがいる。『罪と罰』のラスコーリニコフ、『悪霊』のスタブローギン、『カラマーゾフの兄弟』のドミートリ、『白痴』のラゴージンなど、彼の描く登場人物は、みな絶望している。つまり、すぐれた能力をもっているにもかかわらず、帝政末期のロシアでは、その力を発揮する場所が得られず、鬱屈した日々をおくり、その力は時として、あらぬ方向に噴出するのだ。ラスコーリニコフの斧や、12歳の少女を陵辱して自殺に追い込んだ世界文学史においても他に類をみない精神の極北をさまよった、永遠のアンチ・ヒーロー、ニコライ・スタブローギンがそれである。

木田は、自分の鬱屈した日々の絶望と重ねあわせるようにして、ドストエフスキーや、キルケゴールに耽溺し、沈潜した。この二人に、接点はないが、同時代を、世界の辺境で生きた。この絶望の文学を、木田元の目の前に、鮮やかに展開してみせたのが、誰であろう、小林秀雄である。

小林秀雄は批評を、一個の作品として昇華させた、いうなれば作家。たとえば、かの有名な「ランボオ論」の書き出しは、

 

「この孛星(はいせい)が、不可思議な人間厭嫌の光芒を放ってフランス文学の大空を掠めたのは、一八七〇年より七三年まで(中略)、自●らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに三年の期間である。」

 

であるし、モーツァルトの交響曲(第三九、四〇、四一)を聞けば、

 

「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる」

 

と謳う。

思春期に読む、小林秀雄は圧倒的である。木田元は、小林秀雄に導かれるまま、その後、三三年に渡って、取り組むことになるハイデガーの『存在と時間』に出会うことになる。 ハイデガーと小林秀雄はニーチェという水脈でつながっている。

ハイデガーは、 1927年に『存在と時間』を書いて、哲学界に不動の地歩をのこした。だが、何よりも前に、ハイデガーはナチスに加担した哲学者として名前を歴史に刻まれている。

ユダヤ系の恩師、フッサールが苦境に立たされていたのを坐視したり、あまつ、反ナチス的信条をもつ友人知人を密告したりと、性格がいいとはとてもじゃないが言えない。日本には言行一致の儒学の伝統みたいなものがあるので、偉大な思想家には、高潔な人柄が期待される。その点、ハイデガーは失格だ。しかし、講義録をあらためて読み、ハイデガーの著作の前に坐りなおした木田は、こういう。

 

「たしかに性格は悪い、だが、その思想はやはり凄い。それで悪いか、と。だいたい、いつもニコニコしていて周りの誰からも愛され尊敬されるような人間が、世界をひっくりかえすような思想を形成するなんて、そっちの方がありえない」

 

と。

ハイデガーはよく、「存在(ザイン)は存在者(ザイエンデス)ではない」という。これは、存在する、ということは、存在するものに帰属する性質ではなく、人間(現存在)が設定する視点のようなものだ、ということで、つまり、人間が「存在」という視点を設定することで、そこから見えるものが皆一様に「存在者」として見えてくる、ということ。

一般に動物は、多少の幅はあるにせよ、現在だけに生きている。が、人間のように、神経系の分化がすすみ、ある域をこえると、現在、という世界にズレが生じ、過去や未来と呼ばれる次元が開かれ、いわゆる時間化がはじまる。

これを、リルケは、『ドゥイノの悲歌』(第八の悲歌)で、「開かれた場(ダス・オッフェネ)」といった。ハイデガーはそこから始めて、

 

「動物は世界のうちにいます。だが、われわれは、われわれの意識の果たした稀有の転換と高まりによって、世界の前に立っているのです」

 

という。

動物や植物は、世界の内側にはめこまれて、「開かれた場」にはめこまれているが、人間のように意識の度が高まり、世界の前に立ってしまうと、世界から閉め出され、世界が不透明になってくる。つまり、おのれを見失う危険に、さらされている、というのである。

後期のハイデガーは、こうした「存在」という視点は、「言葉」の内部で生起する、と考える。言葉というのは、ものの名前ではなく、また人間が、観念や感情を表現するためにあるのでもない。ここでいう、言葉とは、人間が使う道具ではなく、「見られるもの、感じられるもの、物そのもの、存在そのもののうちで生起する分節の働き」なのだ。

ここまで精緻に、かつ平明な言葉で語られたハイデガーの思想を、僕は知らない。木田元には、他に、浩瀚なハイデガーの研究書が多々あり、そのいずれも面白い。おすすめです。