『語るに足る、ささやかな人生』駒沢敏器著・小学館文庫

ジェームズ・ディーンが、ロルカの詩集に書きとめた走り書きに、

 

「ぼくの町は工業が育たない。

 ぼくの町は小さく、その閉鎖性を自ら愛している。

 ぼくの町は危険な偏狭さを目標にしている。

 ぼくの町は盲目的崇拝という点では偉大だ。

 ぼくの町は神とその使徒を信じている。

 ぼくの町はカトリックとユダヤ人を嫌う。

 ぼくの町は無邪気で自分勝手な泥棒だ。

 ぼくの町は仕事熱心で、新聞を読む。

 ぼくの町は優しく、ぼくは裸で生まれた。

 ぼくの町はぼくではない。ぼくはここにいる。」(『James Dean in his own words』Mick st Michael)

 

がある。

大好きな詩のひとつで、高校生のときに読んで、頭がスパークし、間違えて俳優になろうとした。人前でまともに話せない僕にとって、それは致命的な勘違いだったわけだけれど、人間は間違った方向に間違えないということを人生はいつも遠まわしに教えてくれる。

ジェームズ・ディーンは、インディアナの小さな町、フェアマウントに育った。つまり、スモール・タウンに、である。

スモール・タウンというのは、そこに住んでいる人以外は誰も知らないような、ごく小さな町のことである。そうした小ささを憎悪をして出て行く人もいれば、愛する人もいる。

人口は多くても一万人未満、町の大きさはメイン・ストリートを中心にせいぜい縦横に数ブロックある程度。車がなくても用は足りて、鍵をかける習慣もないぐらい、町の人はみんな友達である。つまり、 親密さと閉鎖性という言葉が表裏一体になった、狭い町だ。田舎育ちの僕にも、そうした気分はよくわかる。誰にでも挨拶はするし、される。名乗らなくても、どこそこの何々ちゃんね、ということを皆が知っている、人間と人間の距離が近い町。

駒沢敏器は、このスモール・タウンだけを経由して、全米を横断した。都会にはいっさい目もくれず。

それは、スモール・タウンが、「古き佳きアメリカ」を表象した「アメリカの素顔」であるからだ。

 

「アメリカのスモールタウンがいかにもアメリカ的である理由、アメリカの本質がそのままスモールタウンという場所に表れている理由は、皆が共同して「ここに住む意味」をつくりあげていくとき、そこに共通したアメリカ的価値が無意識に投影されるからだろう。町の歩道に倒れている人を助け起こそうとするときの咄嗟の良心も、皆がパンケーキを焼いて持ち寄ってくるときに抱いている共通の思いも、そこにはいささかの違いもない」

 

スモールタウンの住人、一人一人を前に、ノートを広げて、丁寧に言葉を拾っていく。

やや太り気味の作家志望の中学生のキャシーは、

 

「都会における情報というのはすべてが断片で、全体としての像を結ばないでしょ。刺激の量や種類が多いだけで、しかも偏りがあります。その刺激にただ身を任せるのなら都会の方がいいでしょうが、物を書く身としては、その逆の方がいいんです。静かで集中できるということではなく、このような小さな町では、ひとりひとりの人生の全体というものが見えるんです。情報に振り回されていない分だけ、この町の人の喋る言葉には、その人自身の人生や、静かだけれど確かにその人以外ではありえないような重みが乗っているんです。」

 

といって著者を驚かせれば、都会出身者で子育ての場所として、郊外ではなく、わざわざ都会から離れたスモールタウンを選んだラスティは、

 

「郊外というのは、都市生活を外部に広げただけのものなんだ。そういう意味では都会と変わらない。一見平和そうに見えて、住人は都会人だから同じ質の犯罪が発生するし、コミュニティにしたって、同じ通りに住む人たちの顔しか知らない。アパートのワンフロアがそのまま一戸建ての並ぶ路に移っただけさ」

 

と分析する。性の犯罪、暴力、ドラッグ問題、差別など、身近に見聞するメディアから発信される情報と隔絶された世界が、そこにはある。 とはいえ、当然、スモールタウンは「善人の集まり」のような場所ではない。不便さや寂しさに負けそうになる毎日を自分の努力で支えているに過ぎないのだ。

スモールタウンは、実際、アメリカの本流から外れている。それは幹線という意味からも、経済という意味からも、現代の大多数のアメリカ人の関心の外側にあるという意味からも、である。

建物は、古く寂れているし、時間は50年前から止まったまま動こうとしない。廃れた店には穴ができて、そのなかに影が入り込んでいく。町に一軒の映画館は、封鎖されたままだし、狭い町が嫌で家出をしようにも、隣町までのあまりの遠さにやる気がうせ、たどり着いたとしても、そこはやはり、同じように小さな町なのだ。 綺麗な家が多いけれど、そこももうじき影になる。

かつて、一日9000台の車の往来があり、ボビー・トゥループが歌い、スタインベックが「母なる道」とよんだ、アメリカのマザー・ロード、「ルート66」も例外ではない。

1977年、あっけなく、アリゾナの小さな町ごと、いともたやすくバイパスされて以来、アリゾナの広大な砂漠のなかに置き去りにされた。発展から取り残された町は小さく萎んでいく運命にある。

ただし、ネガティブな側面だけではない。

そこには、都会に住む多くのアメリカ人が失ってしまった伝統的な家庭料理や、テレビによって、失われた家族の時間など、その小ささゆえに、一人一人に明確な役割があり、町が住人を必要とし、住人が町を必要とする、幸福な関係が結ばれている。キャシーのようなおしゃまな中学生だけでなく、夜遊びというと、スパゲティソースで大人の車にいたずら描きをしたり、トイレットペーパーで誰かの家をぐるぐる巻きにしたり、と、

 

「家に帰ってベッドにもぐりこんでから、自分のいたずらを思い出して、枕に顔をうずめて笑いをこらえるのが最高!」

 

みたいな少女たちがいる。 町一番の喫茶店に入ると、  

 

「ちょっとだけ使ったナプキンと新しいナプキンがありますが、どちらがいいですか」

 

などと、まことしやかにジョークをとばしてくるマスターがいる。 かつては栄華をほこった幽霊屋敷みたいなホテルの盲目のおばあさんは、

 

「死ににくる人には特徴があるのよ」

 

といって、退屈な夜をどきどきさせるような魅力的な夜にかえてくれる。スピード違反で捕まったはずなのに、気がつくと、お前はラッキーな奴だとばかりに肩をたたかれて、本物のロデオはみたくないか? とマップを取り出して、次の町を教えてくれる。

Everybody knows everybody

都会では味わうことのできないような、スモールタウンならではの事件と出会いを楽しむことのできる、レイモンド・カーヴァーみたいな、静かな音楽のように奏でられた旅の記録。

 

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コメント: 1
  • #1

    荒牧 克夫 (水曜日, 25 1月 2012 10:09)

     たいへん面白かった。私もアメリカの小さな町に
    行って見たいと思っていたので、そのつもりになれ
    て役に立った。