2010年

2月

10日

「汚辱に塗れた人々の生」『フーコー・コレクション 6 生政治・統治』ミシェル・フーコー著・ちくま学芸文庫

「汚辱に塗れた人々の生」は、静かな哲学者、ジル・ドゥルーズが『フーコー』(河出文庫)で何度も言及し、珍しく「傑作」と褒め称えたエッセイのひとつ。

フーコーは『狂気の歴史』以来、一般施療院とバスチーユ監獄に残された収監古文書を発掘し続けていた。それはたとえば、

 

「マチュラン・ミラン、一七〇七年八月三十一日シャラントン施療院収監―<絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、夥しく訴訟を起こし、高利で金を貸しつけ資産を遣い果たし、その哀れな心を見知らぬ街路に彷徨わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む>」。

 

というものであり、数行、あるいは数頁の、一掴みの言葉に要約された数知れない不幸や冒険である。

それがたとえ、ほんのささいな逸脱であっても、告発されたものはすでに、たちまち恐るべき者と化す。一度でもこうした「政治的鎖」にからみとられれば、そこから逃れる術はないのだ。後は、ただ沈黙があるのみ。

ただし、この圧縮されたテクストのなかには、フーコーに「一瞬の閃光」を与えるような、エネルギーがある。権力と衝突し、それと格闘し、またはその罠から逃れようとし、捕まった、一瞬の緊迫した生の記録。

「権力と最も卑小な実存との間を行き交った短い、軋む音のような言葉たち」。ここにこそ、卑小な実存にとっての記念碑がある、という。

また、文学は他のいかなる形式の言語活動よりも「汚辱」のディスクールであるといい、

 

「もっとも語り難きもの―もっとも悪しきもの、もっとも秘匿されたもの、もっとも呵責なきもの、もっとも恥ずべきものを語るのが文学なのである。」

 

という、特異な位置から語られる文学論が、権力の構造を貫通している。

何よりもこの一篇は、世に知られることなく埋没した人々のための、フーコーの詩であろう。