2010年

2月

12日

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠著・岩波新書

日本国民には、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が、憲法25条で定められている。これは、単なるお題目ではなくて、これに基づいてつくられた生活保護法があり、世帯ごとに10円単位で最低生活費が決められている。つまり、この金額を下回ったら、国が責任を持ちますよ、という金額が。

この最低生活費を具体的に知っている人がどれだけいるか?

この「見えにくさ」こそが、日本の貧困問題の位置づけを反映している、と著者はいう。

貧困問題は、自己責任論で片付けられやすい。

たとえば、「フリーター」。

 

1 フリーターにはちゃんとした正社員になるという選択肢があった

2 フリーターはあえてそれを選択しなかった

3 本人が弱くてだらしなくて、きちんとした将来設計ができていない

4 つまり、それは本人の責任である

 

この論理は、「ネットカフェ難民」にも当然適用できる、

 

1 ネットカフェで暮す前に、他にアパートを維持する選択肢があったはずだ

2 なのに、それを選択しなかった

3 本人が弱くてだらしなくて、安易にネットカフェに流れた

4 それは本人の責任である

 

というように、である。

この一部の隙もないように見える自己責任論には、決定的な穴がある。それは、「他の選択肢を選べた」という前提である。

格差と貧困の本場、で貧困問題について言及する、デヴィッド・K・シプラーは、貧困状態で生きていくことを、

 

「ヘルメットもパッドも着けず、練習もせず、経験もないまま、体重100ポンド(約45キロ)のひ弱なアメフト選手たちの戦列の後方で、クオーターバックをやろうとするようなものである」

 

という。

無防備さと、逃げ回るしかない選択肢のなさは、まさに貧困のありようを語っている。

湯浅誠の象徴的な概念のひとつに「溜め」がある。溜池の「溜め」で、外界からの衝撃を吸収してくれる緩衝材の役割のことをいう。たとえば、お金や、人間関係、精神的な余裕である。貧困とは、この「溜め」を失った、または奪われた状態のことである。職業や雇用条件を選んでいる暇はない。選択肢などないのだ。

社会的には、三層の、雇用、社会保険、公的扶助のセーフティネットがある。これが適用されるのは、基本的には貧困とはかかわりのないポジションにいる人々ばかりなのだけれど、このセーフティネットから排除され、家族からも排除されてしまうと、最後の砦である自信や自尊心をうしなうことになる。

この貧困状態に至る背景には、「五重の排除」があるという。

 

1 教育課程からの排除(この背後には親世代の貧困がある)

2 企業福祉(雇用)からの排除

3 家族福祉(親、兄弟、子供など)からの排除

4 公的福祉(追い返す技法が洗練されてしまった生活保護行政)からの排除

5 自分自身からの排除

 

第1から4までの排除を受け、しかもそれが自己責任論によって、「あなたのせい」で片付けられ、さらに自分自身がそれを内面化し、「自分のせい」と捉えてしまうと、そこには「死ねないから生きているにすぎない」という暗澹たる虚無しかない。

 

ここで捉え方をかえてみよう。

まず、貧困とは自己責任ではない、と。

「効率的なもの」が勝利する社会は、必ずしも自由な競争を実現してはいない。というのも、その効率とは少なからぬ場合、親の世代の資本投下によって生み出されているからだ。多くの資本投下をされたものが、望ましい効率性を見にまとい、市場で生き残り、そこで蓄積された富が次の効率性を産み、その結果、生まれたときからスタートラインが違うという「機会不平等」が存在し、それに目をつぶったままの自己責任論が跋扈する。

セーフティネットの崩壊による、うっかり足を滑らせたら、どこにも引っかかることなく、最後まで滑り落ちてしまう「すべり台社会」化。生活保障なき、自立支援がそれに追い討ちをかけ、社会全体の「底辺に向かう競争」が繰り広げられている。

貧困は社会を脆弱にするだけではない。貧困は戦争に対する免疫力を低下させる。アメリカでは、軍隊が特に、貧困層の若者をターゲットに勧誘を強化している。まともに食べていけない閉塞した状況に追い込み、他の選択肢を奪ってしまえば、若者は志願して入隊する。食べるために。

こうした状況は日本でもはじまっており、つい数日前の朝日新聞で、自衛隊があふれている、との記事が掲載されていた。

当然ながら、人は野宿にならないようにあがく。それでもどうにもならなかったとき、つまり自殺しなかったとき、人は路上にでる。

 

「捨てられた物を食べたとき、何かを失ったと感じた」(朝日新聞09・6・27)。

 

いきなり、隣人愛に芽生える人は危険物に違いないのだと思うのだけれど、僕には、この言葉が他人事のようには聞こえない。

寄付をするつもりもないし、見ず知らずの他人を助けるつもりは毛頭ないが、少なくとも、身近な人が困っているときに手を差し伸べる余裕はある、と思う。