『寺島町奇譚(全)』滝田ゆう著・ちくま文庫

『寺島町奇譚(全)』滝田ゆう著・ちくま文庫

寺島町というのは、現在の東向島で、旧・玉の井。私娼街である。

吉原のように公娼の集められていた「遊郭」ではなく、私娼の集まっていた私娼窟で、その店の名を、銘酒屋(めいしゅや)という。銘酒を売るという看板をあげ、飲み屋を装いながら、街全体で、私娼を抱えて、売った。

滝田ゆうが『寺島町奇譚(全)』で描いたのは、戦前の玉の井の姿である。

玉の井というと、永井荷風の『濹東綺譚』がもっとも著名であるということに異論はないけれど、滝田ゆうとは視線が違う。滝田は、自分が生まれ育ち、空襲で焼き払われるまでの、玉の井の日常を、街を見上げる少年の目線と、類まれな記憶力で、紙の上に再現した。「ぬけられます」、「近道」、「安全道路」など、そこかしこの隘路の入り口にはりだされた看板やハート型にくりぬかれ娼婦の顔を見られるようにつくられた娼家の窓は、まさしく蜘蛛の巣を想起させるし、こうした人間の欲望がはきためて集められた奇観はもう再現できない。

銘酒屋で下働きをし、休憩の合間に、ほかほかの玄米パンを食べるのが何よりの楽しみだった下女のおふみが、おかみさんに「なにもお金の心配なんてすることないんだよ。おまえさえっそのきになればすぐにもぜいたくできるんだよ(原文ママ)」と誘惑されて娼妓になるまでを描いた「げんまいパンのホヤホヤ」。借金をしてまで玉の井通いを続ける男が、盲腸で入院した娼妓を見舞いに行く途中に借金取りにつかまってしまう過程を、塀の向こう側の出来事として音で描いた「玉の井界隈0番地」。あらしがきて町全体が、あたふたする姿を窓から「うへっすげっ」とあらしを楽しむ子供の目線で描いた「花あらしの頃」など、一日のはじまりが

 

「お父さんオハヨウゴザイマスお母さんオハヨウゴザイマスお婆ちゃんオハヨウゴザイマスお姉ちゃんオハヨウゴザイマス」

 

と正座し、頭をさげてあいさつすることからはじまる戦前の暮しと、玉の井の哀愁を画面の内外に活写している。

滝田ゆうの漫画の特徴のひとつに、ふきだしの中に描かれた、絵がある。それはたとえば、吉行淳之介が本書の解説に、

 

「石堂淑朗は、女の子がプラットホームにスーツケースを置いて悄然としている絵の吹出しに、蟹が描いてあるのをみて、

「この女は、いま都落ちをするストリッパーで、彼女は横這い状態にあるんだ」

と、ほかの人に説明していた、という。作者のつもりでは、畳の上に蟹を置くと、ガサゴソと横這いして、その音がわびしい感じである、といったところだそうだが。」

 

と書いているように、読者が勝手に考えて、読み間違う遊びに満ちてもいる。

滝田ゆうの線の温かさは、他の漫画の線とは一線を画しており、漫画家というよりは、ひとつのジャンルといっても過言ではない。長谷川町子と並んで、『のらくろ』の田河水泡の弟子のひとりで、さりげなく頁の端々に『のらくろ』を読んで笑うシーンがある。師匠と同じく、落語に深い造詣があり、落語を描いた作品ものこした。