『僕にはわからない』中島らも著・双葉文庫

時間つぶしのつもりで読みはじめたら、とまらなくなってしまった。

『ガダラの豚』を書いていた頃のエッセイ集で、詐欺の手口に超能力、大好きなホラー映画やプロレスについて書いてある。つまり、いつものエッセイだと思っていたら、気がついたら、目の前に中島らもが立っていた。

本書に

「人は死ぬとどうなるのか」

という題のエッセイがあって、それは、

「丹波哲郎氏の映画「大霊界」を不覚にも見てしまった。」

という一文からはじまる。その冗談みたいな書き出しがいつのまにか、

 

「死後の世界について、「嘘でもいいから」教えてほしい、というのは人間の「業」みたいなものなのだろう。この世の生き物の中で、自分が「生きている」ということを自覚できるのは人間だけであって、「生きている」ことの反対の概念として「死んでいる」状態というものが想定される。その「死んでいる状態」についてさまざまな憶測が生まれてきて、そこに宗教の成り立つ地平があるわけだが、考えてみるとこれは人間のロジックや言語による思考が生み出す錯覚のひとつではないだろうか」

 

という、死後の世界に対する鋭い問題提起にぎらりとかわり、「死」という状態が、想像力によってのみ想定され得る架空の概念でしかないことを詳らかにしてゆく。そもそも、「生きている」の対立概念として「死」を考えるからおかしくなるのであって、「生きていない」状態について考えてみると、少しはっきりしてくるのではないのかという。

例えば、ジョルジュ・バタイユに、「連続」と「不連続」という考え方がある。これを、人間の、個体の死について、あてはめてみると、「連続」が、人類の種としての生命の縦軸の連なりとすれば、「不連続」が各固体の死によって起こる断ち切れ、である。

この「連続」と「不連続」という概念は何故、人間が死ぬのか、という問いかけにもなっていて、人間の個としての死の背景にこそ、人間の種としての生存の構造が隠されている。つまり、人間の個々の死という「不連続」が、全体の種としての「連続」を支えているのだ、と。 

それにとどまらず、

 

「たとえばひとつの個体を考えるときに、「死後の世界」ではなくて、個体の死からさかのぼっていく考え方をしてみよう。僕なら僕という個体の経た時間をさかのぼっていくと、僕はどんどん若くなっていき子供になり赤ん坊になる。それをもっともっとさかのぼっていくと一個の受精卵になる。僕の僕としての存在はここまでである。ただそのむこうにあるのは死ではなく限りない生なのだ。僕は精子と卵子に分かたれる。精子をたどっていくとそれは僕の父親になり、卵子は母親である。同じ方法で父親を、母親をさかのぼっていくと倍々ゲームに枝分かれしていく先にはほぼ無数の「生」がある。死はどこにもない。そこにあるのは輝く「生」の海であり、種の全体の命がそこにある。無限の生が収れんして僕という結節点を結び、僕を越えたむこう、つまり未来にはまたそれと同じ無限の生が広がっていく。

(中略)僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。(中略)僕は個であると同時に種の一部である。一にして全であり、全てであると同時に何者でもない」

 

という。

重複して恐縮だが、

 

「僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。」

 

は、何度読んでもいいと思う。ここまで強靭な「生の哲学」は他にはない。