『青少年のための自殺学入門』寺山修司著・土曜美術社

『青少年のための自殺学入門』寺山修司著・土曜美術社

中島らもが、生の、光の言葉を書き紡いだとしたならば、その反対に寺山修司がいる。

らもが、

 

「僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している。あとは生きていてもいいし、生きていなくてもいい。」

 

と書けば、寺山は、

 

「人間は、中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだ」

 

という。寺山修司のアジテーションには、古本屋からの絶大な支持があって、水にぬれてしわしわになった本でさえ、稀少本なら4500円の値札を貼る。個人的にはちょっと信じられない。

本書は、まがまがしい装丁で、気持ちの弱い時に見つめていたら間違えて死んでしまいそうだ。山田花子の自殺直前日記だったかを彷彿とさせる。

自殺学入門は、「自殺機械の作り方」にはじまり、「上手な遺書の書き方」、動機、場所、「自殺のライセンス」、「心中のすすめ」、自殺の先達を紹介した「自殺紳士論」と得意のアフォリズム集に、死と家出にまつわるエッセイなどがコンパクトにまとめられている。

まず、自殺を、

 

「自殺は、あくまでも人生を虚構化する儀式であり、ドラマツルギーに支えられた祭りであり、自己表現であり、そして聖なる一回性であり、快楽である」

 

と定義し、この意味で、三島由紀夫はもっとも見事に自殺を遂げた、先達である、と指摘する。

ここで、寺山が峻別したいのは、ブルジョア的な自殺と、”何者かに殺される”政治的他殺や事故死、他殺、病死などの、何かが欠乏しているために死ぬ、結果的な自殺、である。

自殺の価値を守るために、モンテーニュを援用してくるあたりが、ちょっと可笑しい。

詩人・谷川俊太郎は、寺山修司は自己を韜晦し続けてきた、と指摘したが、それは言葉そのままの意味で正しい。寺山修司の魅力は、アジテーションや思想にはなくて、多分、寺山修司が使う、言葉の屹立した美しさではないか。

本書の最後の章に「遺言」というエッセイがあって、「帰る」こと、について書いている。

 

「「帰る」ということは同じ場所にもう一度もどってくることだが、私はこの世に「同じ場所」があるなどとは、どうしても思えなかった。

 人生は一回きりなのだから、往ったきりなのだ、と私は思った。昨日の家と今日の家とは同じものではない。だから、昨日の家へ帰ろうとしたって、無理なことなのだ。昨日の家へ帰ろうとして道を辿る者は「今日の家」という新しい経験の中へ入りこんでゆくことにしかならないだろう」

 

ラングストンヒューズの詩を涵養しても、こういう言葉は生まれてこない。寺山修司の言葉は、勝手に行の中からはみ出して、一人で歩き出し、万巻の書の中を自由に歩いていく。

寺山修司の言葉は、死なない。