『千里眼事件 科学とオカルトの明治日本』長山靖生著・平凡社新書

『千里眼事件 科学とオカルトの明治日本』長山靖生著・平凡社新書

なんと『リング』の貞子には実在のモデルがいた。それが世にも奇妙な「千里眼事件」である。

千里眼事件の中心的な役割をになったのは、御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子の三人で、千里眼には、

 

遮蔽された物体の透視

催眠状態での遠隔地の感知

近未来に発生する事項の予知

 

など三つの特殊能力があるとされ、当時、東京帝国大学文科大学で変態心理学を専攻していた助教授の福来友吉が、帝大の教授らを巻き込んで検証実験を行った。

 

明治42年8月14日の東京朝日新聞に、「不思議なる透視法」という記事がのった。河地千鶴子が発明した透視法の実験についてで、これを端緒に日本列島を千里眼ブームがかけぬけた。

河地は、後に「千里眼事件」の中心的役割を担う御船千鶴子その人で、そもそも千鶴子が「千里眼」に目覚めたのは義兄の清原猛雄にかけられた催眠術がきっかけで、清原は千鶴子に「千里眼ができる」と暗示をかけた上で、日露戦争当時話題になっていた常陸丸遭難について質問を行い、的中させた。

彼女の「千里眼」は、近所で評判になり、外来の患者を透視して「診断」を行う心霊治療をはじめる。この能力に目をつけたのが、福来で、明治43年4月9日に、千里眼を実験するために千鶴子がいた熊本を訪問する。実験会場にあてられたのは、千鶴子の治療部屋で、この日、最初の実験で使用された被見物は、福来が前日に旅館で用意した縦9センチ×横6センチの白いカードで、その両面にそれぞれ形の異なる図形を錫箔で切り抜き、二枚の厚紙でおおって、四隅を糊付けした上で、さらに全体を錫箔で覆って密封した。

千鶴子は、立会い人から手元が見えないような姿勢をとり、被見物に覆いかぶさるような姿勢で透視をしたが、「表面に三角形、裏面に丸」と答えて失敗し、二度目も透視は失敗した。

ふつうなら、これでおしまいだが、福来はそうとらなかった。福来は千鶴子の「能力」の有無ではなく、むしろ彼女の精神の繊細さを意識してしまったらしい。ここから、福来は千鶴子の伴走者として積極的に「千里眼」を肯定していく。

超能力者ならびにその信奉者は「信ずる」ことを要求する。千鶴子も長尾郁子も疑っている者のいるところでは千里眼がうまくできないと述べており、彼らを信じる人々にとっては、それは超能力が持つ属性のひとつとして好意的に解釈された。つまり、「超能力(千里眼)は、それを疑う者の前では十分に機能しない特性を持つ」といった具合に。結果的に、福来が行った実験は何も証明しなかった。

 

千鶴子は、精神統一をはかるために人とは対面しないで背を向けて透視するのだといい、福来はそれを受け入れ、それを実験とよんだ。何故か、実験では被見物がすりかわっていたり、被見物がなくなるという事故が相次いだにも関らず、福来は不幸な事故だとしか解釈しなかった。

少し考えれば理解できるように、千鶴子は心霊治療を行っていた。つまり、人間を目の前にして透視をし、なおかつ治療をしていたのである。彼女が精神統一をはかるために背をむける必要があるのだとすれば、つまり心霊治療自体を否定することになる。福来は、実験と称する実験につきまとう、不自然さをすべて許容して、その上で、千里眼を肯定した。

かつて、ヒポクラテスは「技術は長く、人生は短い。知識は驕りやすく、経験は騙されやすい。判断は難しい」といった。千里眼騒動はトリックを用いた手品にすぎないのではないか、というスタンスをとっていた報知新聞は、千里眼のトリックを次々に暴いていった。長尾の「念射」がトリックだと断定できたわけではないが、トリックを使っても実際に同じことができた。彼女が要した同じ時間で。

結局、千里眼の真相を解明する前に、御船も長尾も死に、のこされた福来は東京帝国大学を免職され、高野山大学教授をつとめながら高橋貞子や三田光一らの念能力者に出会い、牧野元次郎(「ニコニコ宗の推進者、不動貯蓄銀行の頭取)の援助をうけて、大日本心霊研究所を設立し、自分の信ずるところの、「千里眼」の研究を続けた。