『哀しき父 椎の若葉』葛西善蔵著・講談社文芸文庫

処女作の書き出しは、

 

「彼はまたいつとなくだんだんと場末へ追い込まれていた。」(「哀しき父」)

 

第二作の書き出しが、

 

「みんなは生甲斐のありそうな顔をしている。あんなに沢山うじゃうじゃしている男や女やがみんながみんなあんな顔をしてして動き廻っている。殊に自分等の仲間達と来ては――」

 

つまらなくて、醜くて、憂鬱で仕方がない、と続く。

平野謙は、葛西を評して、これほど最初から自己の文学世界を完成させて出発した作家もめずらしい、という。同人雑誌『奇蹟』でともに同人だった舟木重雄にあてた手紙には、

 

「生活の破産、人間の破産、そこから僕の芸術生活が始まると思って居る」

 

という空恐ろしいことが書いてある。

 

「一日々々と困って行った。蒲団が無くなり、火鉢が無くなり、机が無くなった。自滅だ――終いには斯う彼も絶望して自分に云った。」(「子をつれて」)

 

「悲痛とか悲惨とか云う言葉――それ等は要するに感興というゴム鞠のような弾力から弾き出された言葉だったのだ。併し今日ではそのゴム鞠に穴があいて、凹めば凹んだなりの、頼りも張合いもない状態になっている。好感興悪感興――これはおかしな言葉に違いないが、併し人間は好い感興に活きることが出来ないとすれば、悪い感興にでも活きなければならぬ。追求しなければならぬ。そうにでもしなければこの人生という処は実に堪え難い処だ!」(「子をつれて」)

 

貧窮、一家離散、孤独な下宿生活、病気、酒――。

生涯を通じて書き続けた作品のテーマが処女作からして既に満開である。それしかなかった、といえるのかもしれない。

「毒をふくみ、解毒剤のないリアリズム」を目指し、生活を放擲した生活こそ、文学だと愚直に信じていた。生活と文学を対立する概念として捉え、そして、口ざわりの良い言葉でいえば、それに殉じた。

大正末期から昭和初年にかけて、純文学のアイコンとして存在した作家、葛西善蔵。

その足跡を追うだけでも、青森から北海道に、北海道から上京したかと思えば、三百里の行程を徒歩で帰郷しながら、郷里には一月と滞在しないで、すぐに上京したり、その行き方は、無軌道という他ない。

徳田秋声に師事した。

宇野浩二は、同時代の作家である芥川龍之介を「芸術的精進の人」といい、葛西を「人生的精進の人」といった。

誇張していうと、葛西の、一生の持ち物のなかで最も高価なものは、誰かにもらった万年筆であった。よく、「このマンネンピツは」と自慢した。何枚か積み重ねた原稿用紙には、いつでも表題と名前が書いてあり、人の顔をみると、「作が、作が……」と口癖のようにいったという。

当時編集者であった、宇野浩二は何のことかわからず、ぽかんとしたが、後に、「作(小説)が書けないで実に困る」の意であることがわかり、さらに時を経て、葛西にとって「作」即ち「生活」であることを知り、心から敬服する。

葛西伝説のひとつに、一日二枚書ければ「祝盃」をあげるというものがある。

「調子が出たら筆を置け」、「一字一拝」、というのが信念で、どんなに困っても、実際に借金取りがきても、編集者からお金を前払いでもらい、雑誌に穴をあけても、納得がいかねば書かなかった。あるいは書けなかった。

 

「私は実際首を刎ねられると云われても、書く気がしなかったのだ。書くことがないのだ。書く気分が無いのだ。極楽も無く地獄も無いのだ。神も無く悪魔も無いのだ。倦怠と敗滅――があるばかしだ。妻も子も、自分に取ってはどんなに遠い遠い、稀薄な存在物だろう!」(「暗い部屋にて」)

 

晩年はアル中状態で、その人生をかけた文章がかけなくなり、口述筆記にたよった。口述の筆記者で、のちに小説家になった、嘉村磯多、牧野信一などがいる。

借金まみれの人生は、周辺のものに多大な迷惑をかけたが、その反面強烈な支持者をつくった。郷里の後輩である太宰治は、小説に「善蔵を想ふ」と熱愛ぶりを表明しており、もっとも迷惑したであろう酒屋の主人ですら、「死ねば七百円も香典が集まる人だ」と近所を吹聴して歩いていたらしい。

その四十二年の生涯で、四十数篇の小説と、多大な借金と、他の追随を許さぬ純文学の沃野をきりひらいた。最後の言葉は、「切符を落とさないように、ちゃんと、しまっておいたほうがいい」「この野原で、ちょっと小便をしますから」。

身体の調子が悪くなったり、生活が苦しくなったりすると、必ず帰郷するか、その夢をみた。

小説家としてみなされがちだが、反俗の詩人である。