2010年

6月

11日

『作家の自伝 64 葛西善蔵』榎本隆司編・日本図書センター

「拝啓。突然の御願ひ何と申上様も無御座恐縮至極に奉存候へ共、余儀なき場合外に御願ひ可申上処とても無之身の、厚かましくも御願ひに及び候次第不悪御諒察の程祈上候。」

 

ご推察のとおり、無心状である。冒頭に、この岳父にあてた手紙と、丁度、半年後に出された友人への手紙

 

「半ヶ年の放浪は何物をももたらさなかった。(中略)文芸の前には自分は勿論、自分に付随した何者をも犠牲にしたい――」

 

が収録されている。

二通の書簡は、丁度、葛西の文学の実と虚を照らし出していて、岳父には、この一両年が将来の運命を決する大切な時期だ、だから援助してくれという。お金をもらい、この半月後に大洗に向かい半年近く滞在している。この大洗の滞在中も無心は継続しており、その卑屈なまでの訴えはすさまじい。「厚顔の段」とはまさに、かくや、とばかりに雨あられと「御願ひ」をする。そして、それが全部、欺瞞なのである。

友人宛の手紙がそれをはからずも証明している。

「僕はただ遊んで居る。酒を飲んで暮している。何も書かない。」といい、その延長線で、「半ヶ年の放浪は何物をももたらさなかった。」と書いているのである。

二通を並べて読むとき、この二通を書き分ける葛西の横顔をみる思いがする。

個人的には、その作品よりも手紙と手紙の間によこたわる余白のほうが強烈である。

「苛烈味の文学」といわれる所以がここにある。