『文芸研究 第百十一号 【特集 演劇】』明治大学文学部紀要2010

緒言に「演劇においては、ひとたび生まれたかたちはすべて死すべき運命をもつ」とあるように、演劇の表現を鋭く問う、内容に満ちた論文集である。

 

武田清先生の「カチャーロフの演技論」が痛快。

俳優の演技に関する言及の歴史を、「俳優」という存在とその演技について初めて言及されたのが、プラトンの対話篇『国家』とアリストテレスの『詩学』であることからはじめ、以降、キケロやクィンティリアヌスやホラティウスらのよる言及、シェイクスピアが『ハムレット』の中で、俳優とその演技についての自説を展開することを概観し、俳優の演技が俳優自身をも巻き込んだ、フランスのジャーナリスト、レーモン・ド・サンタルビーヌと、イタリアの喜劇俳優、フランチェスコ・リッコボーニの論争を紐解いていく。

サンタルビーヌは、俳優は、その役柄に没入すべきだという「体験説」または「感情体験説」を展開し、リッコボーニは、それとは真逆に、俳優の「表現」が観客に感動を感じさせるように見えるのは「熟練」であるといい、役に没入し、我を忘れることは不幸なことだという見解を示した。つまり、真っ向から対立した。この論争は、サンタルビーヌを、マンハイムの国民劇場のイフラントに、リッコボーニを『俳優に関する逆説』で知られるディドロにかえて続いていく。

ここで、なぜ表題が「カチャーロフの演技論」なのか、ということを考えなければならない。カチャーロフは、モスクワ芸術座の名優と謳われたワシーリー・カチャーロフで、国立芸術科学アカデミーが実施した66項目の「俳優の創作心理に関するアンケート」に回答を寄せている。

カチャーロフは、「ある俳優たち(大部分、年寄りの、昔の)が我を忘れたとか、舞台の上で覚えがなかったとか物語ることを好んでいたことに時々気がつきました。彼等は嘘を言っていたのだと確信しています。」と答え、リッコボーニを彷彿させるものの、その一方で、「種子」と「体験」という言葉をつかい、演技中に思考力の一部が役に呑みこまれながら、同時に自己を統制し、演技が観客に与える印象を理解しながら演技しているのだ、という。カチャーロフの回答は、結果的に、何故、演技の感情に対する態度を二つの対立する方法で考えるのか、答えていて興味深い。

俳優にとって、強い感情は危険である。

役柄には没入し過ぎて、自分の置かれている状況、まわりが見えなくなっている俳優には鼻白むものがあるし、コクランが『俳優の二重性』でいっているように

 

「もし、観客を目の前にして、「あの人たちは皆ここで何をしているんだろう」などと自問するところまで役と自分自身を同一化するとしたら――自分がどこにいて、何をしているのかという意識ももはやないとしたら――あなたは俳優であることを止めてしまったのだ、あなたは狂人である。」

 

といって差し支えない。

武田先生の論文の他に、神山彰先生のエッセイ「ダンスと髪と音楽と」が掲載されている。神山先生のエッセイは、「髪」についての言及が鋭く、一冊の本を書き上げられるのではないかという気がする。これが余技だというのが信じられない。