『聖者の行進』堀田善衛著・徳間書店スタジオジブリ事業本部

短編集である。

 

「酒は飲めば酔うものであった。あまりの莫迦莫迦しさに、飲みかつ酔うても、はかばかしくことばも出ない。たとえ名残を惜しむとしても、それは心中に思うことであって、名残が惜しいと口に出して言う莫迦はない。」(『酔漢』)

 

解説に、橋本治が書いているように、「莫迦莫迦しい」の一言で、その莫迦莫迦しい世界が消滅する。『酔漢』は『源平盛衰記』、巻四の「京中焼失の事」を典拠にした、京の大火の発火点になった酔漢らの話。この物語自体が、本書の発火点になって、物語を、そしてその物語の中で描かれる宗教を、燃やしつくす発火点となる。ここで描かれた物語を発表された順にならべかえると、この短編集がどのように書き継がれてきたのかがよくわかると橋本治はいう。

 

「一切を拒絶する残虐極まりない『聖者の行進』がまずある。それを、「酔った上での妄想だ」と片付けたがるような『酔漢』が追う。そこから一転して、騒然たる現実を遮断する『方舟の人』になり、実際的な庶民の知性の形を語る『メノッキオの話』になり、入り組んだ現実を渡り歩くしたたかな『傭兵隊長カルマニョーラの話』へと続いて、彼を殺したヴェネツィアの哀れが、『至福千年』へと至る。こんなとんでもない信仰を生み出してしまったものはなにかという思索が、信仰とはほとんど無縁である冷徹なる現実主義の法王を書く『ある法王の生涯――ボニファティウス八世』を生み出す――そのように考えるということも出来る。」(「行進する巨大なもの」)

 

『聖者の行進』は、最後の聖なる土地、カニュドスを目指した信仰に狂った教区顧問アントニオ師に付き従った人々の物語である。カニュドスはポルトガル語で「管、筒、巻き毛」などを意味し、俗に「騙す、失望」があてられる。

 

「われに続け」

 

アントニオのその言葉と盲目な信仰によって歩かれた道は屍によって跡づけられていた。聖地カニュドスは砂礫砂漠の中にある、単なる廃村で、そこは「光の地獄」でしかなかった。

植物でさえが地にもぐり、血だまりのように生皮を剥がれたような赤土の平原には文字通り何もなかった。あるのは、ほとんど木乃伊に近い、骨と皮にかえった死体の山である。

 

「裏切りは日常であり、復讐は倫理の第一項であって、時間は勘定の外であった。この平原でもっとも豊なものは、時間であった。いつまでも好機を待つことができる。牧畜領主は、つねに身のまわりにピストレロスと称される護衛をもたねばならず、この護衛を監視する人数をもまたももたねばならなかった。人は自由を求めて警察国家をつくるにいたり、天国を求めて地獄を創りだす。」

 

この地獄の平原の中心地に、ペドラ・ボニタの名で呼ばれる巨大な岩によってなる無人地帯があった。一人の預言者があらわれて、近在近郷の人々に、「この岩を砕け」と叫んだ。ただし、鉄棒などの道具ではなく、あろうことか、小児の頭で、と。かかる告知に群れ集まった母親たちは、この地獄から脱するため、おのもおのもと嬰児を両手で高々とさしあげて、狭道の底に、どす黒く陽光を反射する血だまりをつくった。

この地にすむ、ほとんどすべての人々にとって生とは堪えがたい流刑であり、死は開放であった。

すべての艱難の仕上げをするものは、宗教である。

神の啓示、見神は、つねにある一定の形式をもっている。

理の外にある、集団神経症状。

この巨大な行進をささえているものは、一言でいえば「無知」である。

錯誤が人の心をとらえるとき、その力は強大無比で、ゴヤの悪夢のような絵が警告するように、理性の眠りは怪物を生む。