『誠実な詐欺師』トーベ・ヤンソン著・冨原眞弓訳・ちくま文庫

作品が作家を凌駕した、ヤンソンの小説。

タイトルの「誠実な詐欺師」とは、カトリ・クリングのこと。

カトリ・クリングは、黄色い眼をしていて、弟のマッツと雑貨店の屋根裏に住んでいる。父親は材木を北に買いに出たきり帰ってこず、母親が死んでからは雑貨店の仕事を引継ぎ、十歳下の弟を守り育ててきた。

 

「お金は臭うと人はいう。それは嘘だ。お金は数字と同じようにきれいだ。臭うのは人間のほうで、だれもがそれぞれ隠された臭いをもっている。いやな臭い。怒ったり、恥じたり、怖がったりするとき、臭いは強くなる。(中略)でもマッツには臭いがない。あの子は雪のようにきれいだ。」

 

カトリは、数字と弟のことにしか興味がなく、名前のない大きな犬を飼っている。名前のない犬が尻尾をふっている姿を誰もみたことはない。

カトリは、しばしば夜中にベッドのなかで考えごとをする。

 

「とくにお金、たくさんのお金のことを考える。すみやかに手に入れたい。賢明に、誠実に、蓄える。お金のことなんか考えずにすむように。ありあまるお金がほしい。あとで返せばいい。なによりもまずマッツにボートを与えたい。船室と船内モーターつきのよく走る大きなボート、ほかになんの取柄もないこの村で造られる最高のボートを。」

 

ボート造りは、ヴェステルヴィ(西の村)という小さな村の、唯一の誇りで、作業場が三つある。上背があり、力は強いが、すこし頭の足りないマッツは、村一番のボート職人であるリリィエベリ兄弟の作業場に入り浸っている。リリィエベリ兄弟にとって、マッツはものの数には入らないが、「家畜にやさしく接するように」、さほど重要でない仕事を任せている。

マッツは海とボートにしか興味がなく、カトリは、それがときどき疎ましい。カトリは、街の図書館でマッツのために本を借りる。ボートやボート造りの本や、海の大冒険の物語なら手当たり次第に。ただし、「あなたが自分の好きな本を四冊読んだら、一冊はわたしの薦める本を読んで」と純文学も読ませようとする。「人生の邪悪さがいんちきな正義の冒険で覆い隠された世界に、弟が呑みこまれてしまうのではないか」と気が気ではないのだが、マッツにとって純文学は、

 

「でもちっともピンとこない。なんにも事件が起こらないしさ。すごくよくできた話だとは思うけど、なんか悲しくなっちゃう。たいてい気の毒な人たちばっかりで」

 

その点、海の男の物語は寡黙なんである。

カトリの明察ぶりは数えあげればきりがない。彼女の手にかかれば、万事は明快で、税金申告、商取引の契約、遺書、隣家との境界線について、など文句のつけようのない解決を導くセンスがある。「なんて抜けめのない魔女だ。いったいどこで習ったのかね?」と弁護士はいい、村びとは、カトリに謝礼をしようとするが、彼女は受け取らない。

実務的な質問には答えるが、お喋りをせず、それどころか、顔をあわせても、にこりともせず、愛想もいわず、相手の意を汲もうともしない。マッツの近況をたずねても愛想はよくならないのだ。

カトリにとっての悩みは、どうやってマッツにボートを与えるか。

暇があるとマッツは、青い方眼紙にボートの図面をひく。新しい図面が仕上がると、決まって机の上に置く。

 

「ボートはいつも同じ型式で、船内モーターと船室をそなえたかなりの大型だ。カトリは舷弧の変更に気づいた。船室の屋根も低くなった。マッツのメモに注意深く眼をとおす。木材の価格、モーター、作業に要する時間、マッツがごまかされないようにチェックしなければならない。みごとな図面だ。ボートをほしがる少年の夢に終わらず、実用にたえうる仕事である。カトリは感じた。そこには長期におよぶ忍耐づよい観察、ひとつの、たったひとつの特別な思いに注ぎこむ愛情と配慮が息づいていると。」

 

姉と弟はめったに話をしない。ただ、仲間うちでかわす沈黙、やすらかで自然な沈黙を共有しているだけである。カトリがマッツのためにお金を手に入れるには、方法は一つしかない。

誠実な詐欺、である。

雪に埋もれた海辺の村には、一人だけ、魔法使いのように裕福な芸術家が暮している。ヤンソン自身を思わせる、アンナ・アエメリンがその人で、うずくまる大きな兎にそっくりな<兎屋敷>に住んでいる。春になって、雪解けがはじまると、敷地内の広大な森にわけいって、森の情景、森にひろがる土壌を、針葉樹の葉一枚もおろそかにせず、詳細に描く。

その絵は、人がうっそうと生い茂る森の中を歩いても、見過ごしている大地の美しさ、森の本質をとらえているのだが、残念なことに、アンナは、心血そそいで再現した森のなかに、架空の兎たちを描きこんで台なしにする。

兎のパパ、兎のママ、兎の子の三羽。

おまけに兎たちは「小さな花柄」で覆われていて、森の奥深い神秘をあらかた損なっている。児童書の批評欄で、この兎たちが槍玉にあがっても、アンナにはどうすることもできない。彼女の悪意のない思いつきは、既に手遅れで、子供たちのためにも出版社のためにも、兎は描き続けないわけにはいかなくなっている。兎から開放されたすっきりした森の景観を想起するが、彼女の行き過ぎた善意はそれを許さない。

アンナは、「たったひとつのことしか眼に入らず、たったひとつのことしか理解できず、たったひとつのことしか興味がない。」

それが森である。

彼女はお金に困ったことがないから、他人を疑う必要がないし、自分の絵でお金を稼ぐ必要がない。「わたしの考え(イデー)は収入に左右されたりはしない、ぜったいに」と考えていて、自分がどれぐらいのお金を、無造作に溝に捨てているかを気づかない。

カトリにとって、お金とはまぎれもない「可能性」である。

その「可能性」が損なわれるのは許せない。

カトリは、アンナの秘書として、「犯罪的とさえいえる軽信、またはたんなる無頓着や不精のせいで」手にいれそこなった金額の合計を計算し、損失を補填できた部分を収入として、マッツのボート代に計上する契約をかわす。

カトリは常に真っ正直である。数字のように、嘘をつかない「世界一くそまじめな石頭」だが、それでも自分が公平であるかは確信できない。

 

「心の底から、ほんとうに確信できるだろうか。なにかの利益を得るために、あるいはそれすら得られずとも、たんにできるだけ愛想よくするとか当座をしのぐために、恥ずべき迎合、追従、無意味な形容といった、四六時中なんの咎めもなく使われるおぞましい手練手管に、自分はいちども頼ったことがないと……。」

 

「自分が公平で誠実であったかどうかは、だれにも完全には確信できないでしょう。それでも努力することはできます……」

 

カトリが数字に誠実であればあるほど、アンナを取り巻く周囲の人間の、むきだしの悪意と搾取が暴露されていく。アンナの前に積み上げられた、機転がきかず実務的でない人間が、ひさしく放置したあげく生みだした渾沌は、彼女の無垢そのものでもあり、「生涯をつうじて、万事を可能なかぎり秩序だてるという明晰への強い欲求を感じてきた」カトリは、忍耐強く、いわば猟犬の本能にうながされて、長きにわたって織りなされてきた事柄の全貌を整理していく。

その過程でカトリは非現実な感覚に呑みこまれて数字の浄らかな平衡と実体を失い、アンナは無垢、すなわち行き過ぎた善意を失っていく。

カトリが、

「人間は群れたがります。できるだけ人と同じになろうとして。だれもが五十歩百歩の動きをすると知って慰められるのです」といえば、アンナは、

「個人主義者だっているわ!」と反論し、

「たしかに。その場合、もっと必死で群れのなかに身を潜めなければならない。知っているのです、人と異なる者は狩りたてられることを」

という。

二人は議論の応酬を通じて、カトリは明晰な論理の世界に感情を、アンナは純粋無垢なカオスの世界に明晰な論理を、獲得していく。カトリは以前のカトリではなく、アンナは今までのアンナではない。二人の世界には、少し隙間があいていて、二人は以前と同じように考えられなくなっている。伝えたい気持ちは空回りするし、会話は気詰まりだけれども、確実にいえるのは、二人は世界に穴をあけた。

それは誰にでもできることではないし、冒険物語のようにスタイリッシュでもない。

純粋無垢な雪一面の世界から、立体的な森の土壌の世界が立ち上がる。