『彗星物語』宮本輝著・文春文庫

舅の福造、夫の晋太郎、妻の敦子にその子供、真由美、紀代美、幸一、恭太に、晋太郎の妹のめぐみとその子供四人と、アメリカン・ビーグル種の牡犬のフックが寄り添って暮す斜陽の大家族・城田家に、ハンガリーから留学生のポラーニ・ボラージュがやってきた。

ポラージュは、まだ晋太郎の事業が順調で、城田家が<木犀屋敷>と呼ばれた頃に知り合った青年で、学費と生活費すべての面倒をみる約束をかわしていたのだが、晋太郎の会社は倒産し、自分の娘すら大学にはだせないぐらいに家計は悪化していたのだが、晋太郎の体面もあって、それぞれがそれぞれ思うところを胸にかかえながら、なしくずしに13人と1匹の物語がはじまる。

ボラージュの父は言語学の教授で、ボラージュに、会ったこともない、そして、これから会うこともない城田家の家族にメッセージをたくした。

ホメーロスのオデュッセイアの第十七書の三九一句で、

 

「――預言者や病をいやす医者、あるいは船大工か、その歌で人の心を楽しませる尊い歌人のような、みんなのために働く人のほかは、誰がわざわざ自分からよそ者を招くものか――」

 

ボラージュとの共同生活には、まず言葉の問題があり、それと同じ比重で、習慣や価値観や民族性の問題がからみあう。ボラージュの父は、スターリニズムがハンガリーに押し寄せてきたときに抵抗し、牢獄に放り込まれた過去がある。スターリン万歳といえと迫られ、拒否するたびに歯をぬかれ、何十本もの針をペニスに刺し込まれたまま何時間も丸裸で監獄の廊下を歩かされたりもした。牢獄で肉体労働をしたら、三ヶ月で死ぬと考えて、新聞紙の切れ端を教科書に二ヶ月でロシア語を話せるようになり、地獄から生還することができた。

ハンガリーは共産主義だが、共産主義という言葉の実体を、城田家は、ボラージュという血のかよった人間の人生を通じて知る。ボラージュは、

 

「共産主義は、人間に何も与えない。貧しい人々に、ほんのいっときの幻想だけを与えた。(中略)共産主義者が得たものは、裏切りのテクニックと時代遅れの電機製品、そしてすべてを他人のせいにする生き方だけだ。ハンガリーは、共産主義なんか選ばなかった。ハンガリーの共産主義は、ソ連の戦車が運んで来た。」

 

と。

宝塚市の隣、伊丹市の北端の平凡な家庭のなかに、彗星のように、ハンガリーという新しい世界が現れる。ボラージュという異物を通じて、城田家に、さまざまな心の行き違いが、波紋のようにひろがり、いままで言葉にできなかった出来事、気持ちが色づいて、形になり、目の前に現れてくる。舅の福造は、ハンサムな留学生、ポラージュを意識しはじめたせいで、

 

「真由美と紀代美の仲が悪うなった。晋太郎の酒の量が増えた。フックが夜中に鳴くようになった。わしが、好きなテレビを観られんようになった。恭太が便秘になり、幸一が寝坊して遅刻が増えた。それに、何よりも、城田家の連中の言葉遣いが変わった。大阪弁を使うと、みんなが非難の目でわしを見よる。(中略)わしは、大阪弁しか喋られへんのや。」

 

とテーブルを叩き、末っ子の恭太は、恭太で、

 

「おじいちゃんは、夜中に何をごそごそやっているのだろう。あれは内緒でお酒を飲んでいるのではない。でも、夜中の三時か四時ごろになると、必ず居間に来て、ニ、三十分小声でひとりごとを言いながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。だが、夜中に眠れなくて困ったなどとは訴えたことがない。

 兄の幸一も少しおかしい。また切手を集めだした。切手のコレクションは、兄が小学生のころからの趣味だが、大学生になると、すっかり興味を失ったらしく、スタンプ帳は部屋の天袋の奥で埃だらけになったままだった。それなのに、最近、家に帰ってくると、口もきかずに、何千枚もの外国の切手に眺め入って、ときおり気味の悪い笑みを浮かべる。あの笑みは本当に気味が悪いのだ。」

 

と家族の変化を不思議な気持ちでみつめている。

ボラージュは日本の留学生活で、ノイローゼになりながらも勉強し、「勉強しすぎて死んだ人間なんていない」、と自分を鼓舞し、誤解とすれ違い、そして、福造や恭太との将棋を通じて、蒙をひらかれる。

 

「ぼくを日本に呼んでくれた人の家族は、ぼくにすばらしいことをたくさん教えてくれたが、そのなかで最もすばらしいことは、マラソンでゴールまであと五メートルのところまでたどりついても、<さあ、これからだ>と考える心だ。ゴールをすぎるまでは何が起こるかわからない。どんな状況にあっても<さあ、これからだ>と考える心を、ぼくは日本の家族から教えてもらった。」

 

彗星は「何らの予告もなく、突然出現」する。「”すい星のように……”とは、優れた人物がその社会に突然あらわれるときに使われる表現である――」。家族それぞれが、それぞれの思いで行動し、失敗し、衝突しながら、絆を深め、おのおのが、生きる糧をその手につかんでまた歩き出す。

事件は何も起こらない。ただ淡々と家族の物語がつづられていく。

 

「生きとし生けるものは、すべて<突如、彗星の如く>あらわれて消えて行く。いったい、どこからあらわれて、どこへ消えて行くのであろう。」

 

自作の小説を引用し、高校受験の、「焔」という漢字を、作者はなぜ「炎」と書かなかったのか、という問題を、俎上にあげ、作者でもわからないといい、「合格させるための試験ではなく、不合格者を作るための試験……。そんなものは、教育ではない。」というのはご愛嬌だが、まぎれもない名作。