『千葉笑い』小島貞二著・恒文社版

この本にはA面とB面があります。よって、二冊分を一冊で楽しめます。

まずA面は硬派な「千葉笑い」研究。

「千葉笑い」は、千葉の奇習で、

 

「むかし、むかし。そうさなあ、百年ぐれえめえ(前)までは、ほんとにあったことだっち。

 (中略)

 ほら、千葉の東のはずれに、千葉寺っちゅう寺があるのを、にしや(おまえは)知ってぺや、千葉の町じゃいちばんふりい(古い)寺だよ。ところでな、いつごろからおこったんか、わかんねえけんどよ、あの寺の境内で、そらあそらあ、おんもせえ(おもしろい)ことが、大みそかの夜になっと(なると)、見られたんだちよ。」(『千葉のむかし話』日本標準刊)

 

千葉笑いが、歴史から完全に消滅したのは、嘉永五年(1852年)三月の千葉寺の火事以来。百年をこえるこの歳月は、もう地元の人間からも、すっかり「千葉笑い」の記憶を消してしまっている。

広辞苑によると、

 

「千葉笑=下総国千葉寺で、大晦日の夜、土地の人が集まって、顔を隠し頭を包み声を変えて、所の奉行・頭人・庄屋・年寄などのえこひいき、善悪などを言いたて、また行状の悪い人、不忠・不孝の輩に対して大いに笑い、褒貶したこと」

 

とある。

小林一茶は、千葉寺をたずねて、

 

「千葉寺や隅に子どももむり笑ひ」

 

と、即詠し、ああここがあの千葉寺か、との感慨をにじませたりしているが、文献、史料の類は少ない。来歴をたどれば、かつて千葉城を治めた千葉氏に深いかかわりを持ち、江戸時代は大フィーバーしたが、幕末とともに終焉。

千葉寺は現在、大銀杏で知られるが、遠く元明天皇の和銅二年(709年)にわが国初の地図「行基図」をのこした行基と、国分寺や国分尼寺や奈良の東大寺で知られる、聖武天皇が建立した超エリート名刹。”戻り鐘”(弘長元年(1261)十二月の銘のある古鐘を鋳改のため江戸に送ろうとしたところ、「千葉寺、千葉寺」と鳴り出して鋳工が驚いて寺に戻し、以来寺宝とされた)という伝説もある。

「千葉笑い」の本質とは悪口である。”顔をかくして、声までかえて”どこの誰だかわからぬように、悪口雑言をいいあう「声の爆弾」。話題は次々とかわり、建設的な意見は何もでない。それが面白いから、笑う。ただし、笑いと一口にいっても、せせら笑い、あざ笑い、むり笑い、にが笑い、大笑い、など色々ある。それが、堂内で交錯して、泡のように炸裂する。あとには何も残らない。除夜の鐘とともに消える。

岡本綺堂に、その名もまさしく、「千葉笑い」という喜劇があり、それが本書の付録として収められている。

「千葉笑い」は、大晦日(おおつごもり)、妻と娘と家来が、「愁(うれい)を掃う玉箒(たまはばき)の酒」で下戸のお屋形さま(千葉之介)を酔い潰して千葉寺の「千葉笑い」にでかけ、さんざん悪口雑言をいって大笑いしているところに酔いから醒めた殿様がやってくる短編戯曲。最後は、千葉之介の「人には仮面をかぶせて置くものじゃ。」という台詞と、『ただ何事も烏羽玉の、闇こそ浮世の習なれ。』の浄で幕。名君のほまれ高かった千葉之介の大岡裁きの後味が良い小品。

 

B面は、笑文芸の会「有遊会」を主宰した大正生れの粋人であった著者が、朝日新聞の千葉県版(昭和60年1月11日開始)で週一回選者を務めた投稿笑文芸欄。狂歌、回文、畳語など、なんでもござれ。

選挙特集にあわせた言葉遊び

 

「どうでもA 候補者えらB わずらわC でも投票にはゆこうD」(市川市・由紀子 昭和61年七月六日)

 

や小ばなし「目標!四十二キロ」(昭和61年十月十八日)

 

夫「マラソンかい?」

妻「いいえ、ダイエットよ」(千葉市・居眠り 昭和61年十月十八日)

 

など可笑しい投稿が選りすぐられている。

笑いは、文化であるから、ただ黙って見ているだけのものではない。自分の頭で考えて、そうしてようやく理解できるものもある。たとえば、

 

「日日日日 日日日 日日日日 日日日日 日日日」

 

と書いて、「捨てた草 日がたち 部屋に散る 美術に日課 燃す用意」と読ませる。そのこころは、「日」の読み方で、明日のス、明後日のテ、明日のタ……と日の読み方をひろっていく、言葉あそび唄。

最後は、「在在在在在在在在在在 在在在在在 在」と在を十六回書いて、「ありが十、五ざい、ます」。大正生れの粋人がのこした、紙のニンテンドウDS。