2009年

12月

02日

『調律の帝国』見沢知廉著・新潮社

『調律の帝国』見沢知廉著・新潮社

監獄の中での自由とは、夢をみることと息をすること、その二つである。

 

「過酷な冬が越せずに、数人の弱い囚人が獄死する。文字通り骨と皮だけになり腰骨が突き出て死斑の浮いた、顔に白い小さな布を被せた屍体には、規則だからと手錠を掛ける。台車板に腕をゴムバンドで固定され、枯れた蔦の絡まる裏門から、がらがらと台車の音とともに医務部と看守が搬出して行く」

 

監獄では、死すら自由ではない。

本書は、監獄の地獄絵図を描いた小説である。タイトルがうまい。

主人公であるSは左翼的爆弾政治犯であり、人を殺して収監されている。精神科医との面談では、「健康な時に、白血球がひたすら増殖したら、人間は白血病で死にます。しかし生体が傷ついて血を流している時、そのマクロファージこそが、傷口を治療し生体を保持するんです。白血球が罪悪感を感じたら歴史は発展しなかった」という独自の、自己になぞらえた白血球論を展開する。監獄のなかで、左翼的論理の洗脳からとけるものの、出発点を間違えているためか、贖罪についての論理的整合性はあるものの、チューニングはずれたまま。

監獄法では、罪を浄化する手段をふたつに限定している。ひとつは宗教教育であり、もうひとつは交友関係を断ち切らせ、親族だけに接見文通を許し、魂を肉親のもとに回帰させる方法だ。Sはそのどちらもとらず、独自の方法、すなわち、「小説を創作する過程でかつての自己を徹底的に開示し、ゲリラ闘争から生じた全能感、そこから殺人へと走った内面の深層を掘り下げて初めて罪を意識化しようとする」。簡単にいえば、反抗である。

反抗すれば、懲罰である。

ミシェル・フーコーがいうように、暴力は主体ではない。権力というのは、あくまで関係性であり、監獄内に世間で構築した関係性は持ち込めない。

圧倒的無力に陥ると、人間は、簡単に折れる。ただでさえ発狂の臨界線上にある監獄で、懲罰と独房という言葉の響きは、どんな不良囚も反抗囚をも、土下座し、涙し、靴をなめ、哀願させる力を持っている。しかし、それでも反抗を続けると、一般の囚人には殆ど知られることのない、二つの暗渠が口をひらく。

「暗い四方緑色リノリウムの狭く臭い房に猿轡を咬まされた囚人は厚皮の後ろ手錠、大小便も囚衣に放出しろと足も縛られて、放り込まれる」保護房と、「窓は錆びた鉄板で打ち付けられ、房内天井に監視カメラ、マイクが埋め込まれ、私物を房外に仮り置きされ、水道も含めて突起物がない白く煌々とした」自殺房である。Sも、著者である見沢知廉も、この自殺房の常連であった。つまり、反抗しつづけた。

長期囚の絶望というのは、あくまで想像どおりである。

 

「親が死んだ、妻や女が逃げた、子供や兄弟が自分のせいで苛められて自殺した、再逮捕や事故で刑が増えてしまった……そんな絶望に直面して自暴自棄になった囚人は、暴れ、工場から七号舎(※自殺房)に送られ、こうして最後は金城のように壁や鉄扉を蹴り、泣き喚き、鉄格子にしがみついて手が痺れるまで揺さぶり、嘔吐し、転げ回る。長期囚の妻や恋人は殆んどの場合、その長い刑期が待てずに離婚書類を獄に送ってくる。愛した女が、他の男と肉体を重ねて性の悦楽に浸ることを、容認し諦めるのが長期囚の常識だった。そこまで堕ちるとやがては誰も、思考と感情、そして苦しみから錯乱する人間らしさまで失って、独房の片隅で茫然と生きた屍になって行くのだった。」

 

長期囚は世間と杜絶した監獄のなかで、

 

「正月には落雁、クリスマスにはケーキ、七草には七草粥、節分には大豆、雛祭りには霰、端午の節句には柏餅、彼岸にはお萩……」

 

というグレゴリオ暦も真っ青なぐらいに暦に忠実な、時間のとまった中で、チューニングされていく。しかし、正しく、チューニングされて監獄から出荷された楽器は、誰の演者の手にもわたらず、またゆっくりと同じぐらいの時間をかけて狂っていく。

この小説は、間違いなく良い小説ではなく、間違っても教科書なんかにも載らず、光をあびることも、ないだろう。けれども、何故か、美しい。

 

「Sは、小説を便箋に清書する。備え付けのラジオスピーカーからは、演歌や歌謡曲、まれにポップスが耳に流れてくる。どこかで便所を流す音が聞こえる。鎮まりきった獄廊。咳一つするのも憚られるぐらいだ。看守の足音が響く。官覧新聞を房から房へ回す、紙の擦れる音がする。房内でSが飼っている蜘蛛が、机の上を無音で散歩している。静かだ。電気製品が一つもない部屋。ペンだけが唯一の生物のようにしなやかに動く」

 

見沢知廉は、日本ではじめて、監獄内で小説を書き、監獄から投稿して、デビューした。