永遠について

フルタジュン氏におそれおおいハナムケのコラムをいただいてしまった。大感激。額にいれて飾りたいぐらいに嬉しいコラムである。

 

永遠ということについて、考えるのが大好きだ。

それがなぜかというのを一言でいうなら、無駄だからだと思う。考えたところでどうにかできるものではないし、それが理解できたとて、一体何の役に立つというのか。

 

ということがいいたいのではなくて、何の役にも立たない話ほど面白い話はない、ということを書きたいのである。

話しても話さなくても歴史は一ミリも動かないし、事件にも発展しない、とりとめのない、まったく意味のない話というのが好きだ。こういう会話ができたときの爽快感は、何にたとえられるだろう。しゃべることがなくなって、それでもまだしゃべりたくて、ただしゃべるためだけにしゃべり続けている。相手がいなければ危険な独り言だけれど、相手に恵まれればいつまででも話し続けることができる興奮は一生ものだ。フルタ氏はこの意味で絶好の話相手といえる。

 

環境がかわると付き合いもかわり、話す内容も当然かわる。

でも、一向に変わらないものがある。それが無駄な話だ。

無駄といったら聞こえが悪いかもしれないが、プラトンの饗宴然り、これほど豊饒な時間というものはないのである。「とかくこの世はダメとムダ」と書いた山本夏彦は、コラムに

 

「世間はムダをよくないもののように言うが、そもそも私がこの世に生れたこと、私が生きていること、私が何かすること、またしないこと、一つとしてダメとムダでないものはない。その自覚があるものとないものがいるだけである。私の存在そのものがムダだというのに、どうしてそのなかの区々たるムダを争うことができよう。」

 

無駄というのが人生ならば、それは永遠につながっている。

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コメント: 2
  • #1

    中学生 (火曜日, 17 5月 2011 16:46)

    生命が永遠というものを手に入れてしまうと「生きている」という意味がなくなってしまうと言うようなことを書いてほしかった

  • #2

    歩行 (火曜日, 17 5月 2011 20:40)

    中学生様
    コメントありがとうございます。
    もしお暇がありましたら、『僕にはわからない』中島らも著・双葉文庫を読んでみてください。ブックレビューのな行に入っています。本を読んでもらったほうが良いとは思いますが、永遠について考える上で、開かれた生の哲学だと思います。どうぞ。
    千三屋