『犬が星見た ロシア旅行』武田百合子(中公文庫)

「竹内と百合子と俺で旅行しておきたいと思ってたんだ。それに三人で行けるなんてことは、これから先、まあないだろうからな」

 

ここに出てくる、竹内というのは、中国文学の泰斗・竹内好であり、百合子はこの本の著者である武田百合子、俺が武田百合子の夫であり、作家・武田泰淳。

このロシア旅行は、旅行会社が企画した「六九年白夜祭とシルクロードの旅」で、この言葉通り、この三人での旅行は最後になったが、武田百合子が残してくれた文章のおかげで、いつでもどこでも気が向いたときに、この旅行に触れることができる。

あの竹内好がデザートにヨーグルトを食べられなかったことに不機嫌だったり、武田泰淳がホテルの食堂の海老に大興奮し、「俺は夜もこれをとる。明日もこれをとる。気に入った。毎日これを食うぞ」と気勢を上げるものの海老を頼むとセットでついてきてしまう本命の肉料理のボリュームに心を折られ「もう海老はとらなくていい」と悄然としている様が、失礼かもしれないが、素晴らしく可愛らしい。

 武田百合子は武田泰淳に<写真はメモ代りだからな。何でもかんでも写せ>と頼まれて、何でもかんでも写していたはずの写真機にフィルムを入れ忘れており、竹内好は楽しみにしていたヤルタ会談の城に行き忘れ、武田泰淳はチェーホフの家に帽子を忘れてしまう。こういう失敗談には身に覚えがあるから、誠に勝手な親しみを感じてしまう。

 このエッセイが卓抜なのは、単に面白いことが書かれているから、というわけではない。武田百合子の視線である。例えば、天山山脈を見て、

 

「窓硝子に額をぴったりつけて、さえぎる雲一つない大快晴の天空から、天山山脈を見つづける。まばたき一つしても惜しい。息を大きくしてもソン。頂きに真白な雪をのせて、ゆっくりと少しずつ回りながら天山山脈は動き展がってゆく。大昔、煮えたぎっていた熱の玉が一個、まわりながら冷えていったとき、どうしたわけか、ここにばかり皺が偏って出来てしまったのだ。それからずっといままで、四季の移りかわりも人も獣も寄せつけず、死んだように眠っている。何の音もない世界。生きもののいない世界。ガランドウというかカラッポというか――そういう大交響楽がどろどろきわたっている。死後に私がゆくのは、こんなところだろうか。」

 

本書のタイトルは、生粋のニヒリストでもあった武田泰淳が、

「百合子は犬だよ。どこへ行っても、臆面もなく、ワン、なんていってるんだ。何にもわからんくせにな」

と犬に見立てていることに拠る。普通はそんなことを言われたって、そのまま書かないし、書けない。「ポチ」と呼ばれてうれしい人はいないはずだ。だが、武田百合子はそれを書く。単に書くだけでなく、肯定する。どんどん肯定していくから、不思議なぐらいに不快さがない。

もっとも、武田泰淳は文豪であるから、一読すると、我儘なおじいちゃんに読めないこともないが、そう単純な男ではないのである。

一見すると悪口にしか思えない言葉も、読み進めていくうちに、気が付くと愛情あふれる言葉に変容している。

武田百合子の文章の読者の特権である。