『告白と呪詛』シオラン著・出口裕弘訳・紀伊国屋書店

行ったことはありませんが、パリ第六区に、オデオンの四つ辻というのがあります。

国立劇場オデオン座から200メートルぐらいセーヌ川に下ったあたりに、シオランは暮していました。正確にいうと、オデオン通り二十一番地。広場に面した堅牢な建物の、七階の屋根裏部屋でシオランは書き続けました。

 

作家、評論家、翻訳者にして、澁澤龍彦の伴走者でもあった出口裕弘が本書を読まなければ、日本にシオランが紹介されるのは、違った形になっていたかもしれません。

この辛口哲学者と、出口裕弘という紹介者の取り合せはほとんど完璧に近いと思います。

この辛口の哲学者の最後の作品は、やはりアフォリズム集です。  

シオランがどういう哲学者だったのかは、何よりもその言葉が語っています。

 

「出生の罪を、私は自分に許すことができない。この世に忍びこむことによって、まるで私はある宗教的主義を涜し、なんらかの重大な契約を破り、名づけようもない由々しい過ちを犯したかのようだ。ただ、時としては私もそれほど一刀両断式に考えないことがある。そうしたとき、生れるとは、もし知らなかったら身も世もないような悲運、という風に映るのである」(『生誕の災厄』)

 

日本でいうなら、武田泰淳や深沢七朗が書き続けた哲学でもありますが、 出口裕弘に言わせれば、

 

「生誕は一つの災厄である。生れないこと、それを考えただけで、なんという幸福、なんという自由、なんという広やかな空間に恵まれることか! 一方でそんなふうに言っておきながら、生れるとはたしかに一つの悲運だが、これを知らずに終ったら悔しくて見も世もないだろうと付言する。巧んだわけではないのだろうが、この何気なさそうな付言のせいで、出生し、生きつづけていることの罪が、何パーセントか軽くなっている。シオランの究極のユーモアだ。」

 

ということになります。

生きていることの不快さに苦しめられたことがある人は、本書を読んで、吹き飛ばしてください。古本屋か図書館でしか読めないのですが、運よく巡り合ったら、ぜひ一読をおすすめいたします。