2014年

2月

20日

books335『流跡』朝吹真理子著 新潮社

「流跡」は、外郭をもてない自己と、よるべのない時間が交錯する、きわめて現代的な純文学。

主人公格たる意識には、生きている実感がなければ、自分の痕跡すら見つけられない。言葉に喚起されるままに自己は浮遊し、行止りまで流されたと思っても、そこは「奇妙に細長い鰻」の背中の上に過ぎない。自分の痕跡をさぐっても、

 

「どうしてこんな境遇に落ちているのか、よく覚えていない。前の労働は何だったか。傘でも張っていたか、薬でも売っていたか、よく覚えていない。あれこれと浮かんでくるのは、勤め先をクビになったこと、それで勤め先の金を盗んだこと、舅を殺したこと、女房も殺したこと、同僚もついでに殺したこと、やぶれかぶれになって若い女を殺したこと、雪片が降りおちるなかで虚空をキッとみつめている男は一体誰のことなんだろうか、……とんでもない、血みどろの、凄惨な場面ばかりがよぎる。自分の境遇なんだろうか。ほとんど何かの物語をパッチワークしているらしい。」

 

ということぐらいしかわからない。わたし、という意識は、あくまで実体のない現象に過ぎず、頁をめくるたびにとめどなくゆらぎながら形をかえてしまう。つまり、つかまえられない。

頼りの外部からの情報は、杜絶しており、唯一開かれた回路が読書なのだが、その読書からも確からしさは得られない。

頁を手繰っても、

 

「垂直につづくそれら一文字一文字を目は追っていながら、本のくりだすことばはまだら模様として目にうつるだけでいつまでも意味につながってゆかない。(中略)確かに本に触れているという感覚だけが神経を伝い、目は黒黒と流れる跡を追いつづける。追うばかりで一文字もみとめたという確かさがない。読むことがひとたびも終わらない。(中略)もう何日も何日も、同じ本を目が追う。追うばかりで一文字も読んでいない。」

 

本をひらいても、過ぎてゆくのはただ時間だけで、白い紙に繋留されていた活字は、溶解し、本からすりぬけて、どこかに消えてしまう。

生きている実感は加速度的に失われていき、

 

「死んでいないし生きていないし、このまま無になってゆくのではないかと、ふと思う。はじめはまっとうに生きているつもりだったが、人間的なところから脱落しているんではないかと、ふと思う。はじめはそんなふうに思い至ること自体が怖くて仕方がなかったが、いまや思ったところでどうもしない。どう逃げられないのだ。」

 

と、しまいには虚無にのみこまれてしまう。しかし、虚無にのみこまれたとはいえ、川の上をさすらう自意識は消えず、自己をたもちえないという意識からも解放されることはない。

 

「去ね、去ね、去ね。何度意識を失おうとしてもいっこうに明瞭なまま。いったいいつまでこうしているのか。この身体が、やっぱり死んでいるのか教えてほしい。しかし誰もいない。」

 

自分が今、生きているのか死んでいるのかも判然とせず、それゆえに、川から水死体が流れてくるたび、いちいち、「根腐れをおこした自分じゃないかと棹でひっくり返して確認する。」

それが「女のむくろ」であることを確認しても、確からしさは得られないのだが、確かめずにはいられないのだ。ここまでくると、もはや、わたしという意識が、人間なのかすら定かではない。

 

現実の肉体は、ただ牡蠣のように、起伏のない日常から、いっさいの移動をせず、単調に「このソファにへばりついたまま、この家で死んでゆく。(中略)少なくとも、この市にへばりついたまま死んでゆく」。

この存在の孤独から抜け出すべく、

 

「暇があれば本を読んできた。いまも子供が昼寝をしている間などに読む。むかしは、なるたけ幻想性の強いものを特に読んだ。自分は臆病でいかにもつまらないことしか考えつかないから、せめて本のなかでは強烈な体験をしたい、動揺したい、幻惑されたいとして読んでいたのだった。あるいはつまらない実人生というのを生きるうえで何かしらの解を得たいと殊勝にも思っているふしがあった。生きる、といったことに対しての注解を得られるんじゃないかというほのかな期待をよせて読んでいた。実人生、というのがそら言のように響く。習慣として読書をしているだけで、ほんとうの意味で読んでいるのではなかった。いまやほとんど何が書いてあるのか認めていないまま目が文字を追っている。」

 

これが永遠に続く。筆で書いたような瑞々しい文章が圧倒的に美しい。読むことの永遠を綴った一作。